786 ガルマニア帝国の興亡(28)
サンサルスの弟子ファーンとなっていたタンファンが旅に出て、花畑での花摘みは、再びヨハンの仕事となった。
記憶を失って倒れていたタンファンを発見したヨハンは、それ以来、何くれとなく面倒をみてやり、土に触ったことすらなかったタンファンに、一から植物の育て方を教えたのである。
「乱暴なところもあったが、気立てのいい娘だったなあ。わしもそんなに若くはないし、花畑はもう任せようと思っていたが。まあ、必ず戻るとは言うてくれたから、待つしかないな」
今朝もサンサルスのために花を摘みながら、そう独り言ちるヨハンの目の前に、灰色のコウモリがヒラヒラと飛んで来た。
「はて? 珍しい色をしておるな」
灰色のノスフェルはクルリと宙返りすると、人間に変わった。
緩やかな灰色の長衣を身に纏った美熟女の姿である。
ヨハンは悲鳴を堪え、上ずった声で尋ねた。
「お、おまえは誰だ?」
「ふん。名乗ったところで、おまえは知るまいが、ドーラという者さ。そんなことより、あの女狐はどこにおる?」
「女狐?」
「ああ。目つきの鋭いマオール人の女さ」
ヨハンは警戒心を露わにし、目を背けて「知らん」と言った。
その顔にくっ付きそうに、ドーラが顔を寄せて来た。
「わかり易い男よの。今の『知らん』は、『知ってる』と同じ意味ぞえ。さあ、わたしが優しく聞いておるうちに言うのじゃ」
「知らんものは、知らん!」
「ほう、そうかえ。ならば、少し苦しい思いをすることになるぞよ」
ドーラがヨハンの首に手を伸ばし、締め上げようとしたところで、フッと笑い出した。
「隠れておらんで、出て来ぬか? あの時の仔蛇であろう?」
ドーラが声を掛けたのは、花畑の後ろに広がる林の方向である。
その木立の陰から姿を見せたのは、教団の詰襟の制服を着たヨルム青年であった。
社交的な微笑みを浮かべながらも、油断なく身構えている。
「お久しゅうございます、ドーラさま。いずれ、第二第三の刺客が来るであろうと見張っておりましたが、まさか、あなたさまが来られるとは、想定外でした。わかっておれば、武装した千人隊でも準備しておくべきでしたが」
「ほう? 如何に生命知らずのプシュケー教団とて、千人で足りるかのう? じゃが、今は揉める気はない。こっちも忙しい身でな。タンファンさえ差し出してくれれば、それでよい。さもなくば、この哀れな男の葬式をすることになるぞえ。尤も、本人は、神に召されると喜ぶかもしれんがの」
ドーラの言うとおり、ヨハンはすっかり抵抗を諦め、目を瞑って祈りを唱えている。
が、ヨルムは厳しい声で、「お止めください!」と告げた。
「その者に死なねばならぬ理由などありません。お訊ねの件ならば、わたくしがお答えします。確かに、マオール人の女が居りました。しかし、今は旅に出ております。行先は、わたくしも知りません」
「ふむ。追い出した、ということかの?」
ドーラが嫌な言い方をしても、ヨルムは無表情に答えた。
「そう受け取っていただいても、結構です」
「まあ、チャロアを討ち漏らした時点で、ここにはおれぬ、と自分で判断してもおかしくはないか。おお、そうじゃ、おかしいといえば、チャロアが見た時、タンファンは花を愛でてヘラヘラ笑っていたそうじゃが、どんな幻術を掛けたのかの?」
「それは寧ろ、こちらがお聞きしたいですね」
そう言ったのはヨルムではなかった。
山道を浮身しながら上がって来たサンサルスであった。
これには、ドーラよりも、ヨルムが動揺してしまった。
「猊下、危のうございます! ここは、わたくしにお任せください!」
サンサルスは、この世の者とも思えぬ美しい顔で微笑んだ。
「よいのです。前回はサイカ包囲戦直後の和平会談で、互いに気が立っており、ゆっくりお話しもできませんでした。この度は、遥々とこの聖地シンガリアまでお出でいただいたのですからね。さあ、そこでドーラさまにご提案があります。ご一緒に薬草茶でもいかがですか?」
ドーラは惚けたように笑った。
「はて、前回どうであったか、よく覚えておらんのう。いずれにせよ、ちょうど喉も渇いておる。馳走になろう」
首を絞めかけていたヨハンから手を離し、「生命拾いしたな」と告げると、ドーラは浮身した。
サンサルスも、何か言いたそうなヨルムに、「大丈夫です。ヨハンをお願いしますね」と頼むと、ドーラに、「では、参りましょう」と告げ、先導した。
見知らぬ美熟女を連れて飛ぶ教主を見かけ、心配して寄って来る信者たちに、サンサルスは笑顔で、「大丈夫、わたしのお客さまですよ」と説明した。
ドーラは、「新しい愛人とでも思われたかもしれぬな」と笑ったが、実際には危険人物と見做されたのであろう。
そのまま教団本部に着くと、応接用の部屋に入った。
テーブルには、向かい合わせにカップが二脚置いてあり、サンサルスが声を掛けると、頑固そうな老人がポットを持って入って来て、カップにハーブティーを注いだ。
「ほう。随分と手回しがいいのう。まるで、わたしが来ることを予想しておったようじゃな」
皮肉な笑みを浮かべるドーラに、サンサルスも笑って応えた。
「実は、一人で飲むのも味気ないと思い、ヨハンを誘うつもりでした。ちょうど天気も良く、外の空気も吸いたかったのでね。今から思えば、何か予感がしたのかもしれません。あのヨハンは優しい男で、いつもわたしに花を届けてくれるのです。間に合って良かったと、心から思っています」
暗に責められていると感じたのか、ドーラは鼻で笑った。
「今のおまえの言葉を聞けば、あの男も喜んで生命を投げ出すだろうさ。が、あんな男に興味はない。それより、タンファンのことじゃ」
サンサルスは、「まあ、お飲みください」と勧め、毒などが入っていないことを示すため、先に自分が飲んで見せた。
「ああ、美味しい。生きていて良かったと思うのは、こういう時だけですね。それはさておき、タンファンについては、ヨルムが申し上げたとおりです。行先はわかりません」
ドーラも一口飲んで、さり気ない口調で聞いた。
「何のための旅かの?」
サンサルスは一瞬考えたが、フッと笑った。
「あなたを相手に嘘を吐いても無駄でしょうね。実は、是非とも教団の後継者になって欲しい若者がおりまして、その保護を頼みました」
ドーラがちょっと顔を顰めた。
「ウルスラか?」
「いえ。王女には一度断られましたし、間もなくご即位されるようですから、もう断念しておりますよ」
「ふん。即位など、わたしは認めぬ。が、まあ、それはそれとして、では、誰じゃ?」
「ゲルヌ皇子です」
「ほう。つい先だってギルマンで共に戦ったが、その後、確か帰国すると言っておったの。ふむ。そういえば、ゲーリッヒの許に戻ったとは聞かぬな。まあ、戻れば、殺されるか、幽閉されるか、どうせ碌でもない運命しか待っておらんが。おお、そうか。それで、行き場を失くし、放浪中か」
「おそらくは。故に、タンファンも、いえ、ファーンもまた、流浪の旅でございましょう」
「ファーン?」
「はい。どなたさまかに酷い仕打ちを受けたらしく、記憶を失くしておりましたので、新たな名前を与え、わが弟子としました」
「皮肉を言うな。そうか、記憶をのう。まあ、死んでも構わんと思うて『魔の球』を使うたから、生命があっただけ見つけものか。が、記憶が戻らねば、聞いてもわからぬなあ」
「何をです?」
「言えるものか。こっちにも色々事情があるわい。しかし、せっかくシンガリアくんだりまで来て、手ぶらでは帰れんのう。おお、そうじゃ、もしかして、おまえなら知っておるかもしれんな。ゲルヌのすぐ上の兄、ゲルカッツェは、今どこにおる?」