780 ガルマニア帝国の興亡(22)
ゲルカッツェら三人が一般庶民になるなら受け入れるという教主サンサルスの返事に、魔道屋スルージは頭を抱えた。
教団本部を出たものの、聖地シンガリアの丸い天幕の間を歩きながら、ブツブツと独り言ちた。
「どうしたもんかねえ。一度戻って、カールさんに説得をお願いするってのもなあ。王都バロンまで行ったのに、顔も見ずに暁の女神に飛んだくらいだから、とても無理でやんしょう。うーん、仕方ねえ、あっしが直接ご本人たちに会って、当たって砕けるしかありやせんね」
ちょうど天幕の密集した場所を抜けていたため、スルージはその場から跳躍した。
そのバロンでは、多忙を極める統領クジュケのところへ、難題が持ち込まれていた。
「お熱があると言われても、わたくしは医師でも薬師でもありませんよ。確か、王室付きの者が何人かいたでしょう? そちらにお頼みしなさい」
切口上でそう告げると、クジュケは山積みになっている書類に目を落とした。
その机の前で、途方に暮れたように呆然と立っている若い男は、金髪碧眼のバロード人で、品の良い顔立ちをしている。
先王カルスの秘書官であったラクトスの遺児、ラミアンであった。
シャンロウに次いでクジュケの秘書官に採用されたラミアンは、おずおずと反論した。
「それはわかっておりますが、レナさまが」
クジュケは書類を捲る手を止め、吐息混じりにラミアンに尋ねた。
「あなたは、誰の秘書官ですか?」
「それは無論、コンスル閣下の、でございます」
「だったら、わたくしの指示に従ってください。あなたをあのお客さまたちとの連絡係に任命したのは、その方が摩擦が少なく、わたくしの仕事を邪魔されないと思ったからです。特に、レナさまにとっては、あなたは数少ない顔見知りですからね。でも、今のあなたは、レナさまの家臣ではありませんよ。勘違いしないように。以上です」
再び書類に目を戻したクジュケに、ラミアンはどうしたらいいのかわからなくなったらしく、救いを求めるように別の机で作業中のシャンロウを見た。
シャンロウもすぐにそれに気づき、顔を上げた。
「レウス王子に熱が出たって聞こえたけんど、たぶん智慧熱だべ。クジュケさんが忙しいんなら、ウルスラさまに診てもらったら、ええんでねえべか?」
シャンロウの言葉にクジュケは顔色を変え、自分の仕事を中断して叫んだ。
「駄目です、絶対! 万が一、悪い流行り病だったら、どうするんです! 殿下はご即位前の大事な時期なのですよ!」
ラミアンが、ここぞと身を乗り出した。
「で、あれば、尚更閣下に直接見ていただいた方が良いのでは?」
クジュケは、バンと机に手をついて立ち上がった。
「わかりましたよ、もう!」
ついて来ようとするシャンロウに、「あなたは自分の仕事をしなさい!」と命じると、クジュケはラミアンと一緒に部屋を出た。
高が赤ん坊の発熱と思っていたクジュケも、ゲルカッツェの部屋に入ってギョッとした。
室内だけ南国になったように暑いのである。
中にいたゲルカッツェは下着姿になっており、それでも汗が止まらないようだ。
「あ、クジュケさん、助けてよ。レウスが変なんだよ」
ゲルカッツェの顔は、汗と涙でグチャグチャになっている。
クジュケも、これが尋常な事態でないことがわかり、横に立っているラミアンに「ウルスラさまをお呼びしてください!」と頼むと、部屋の奥に進んだ。
寝台の傍にはレナがおり、しきりにレウスに話しかけていた。
「大丈夫よ、お母さまが付いているわ。心配しないで」
その必死な姿にクジュケも胸を打たれたが、今はそれどころではないと表情を引き締め、「どうしたのです?」とレナに尋ねた。
レナは、ベッドの中で寝ているレウスから目を放さないままで答えた。
「今朝からお乳を吐いたりして、グズってたんだけど、だんだん熱っぽくなってきて、それが普通じゃない程になったの。でも、呼吸が荒いだけで、そんなに苦しそうじゃないし、病気じゃないかもしれないと思って、あなたを呼ぶように、ラミアンに頼んだのよ」
あまりの暑さに額から流れる汗を拭いながら、クジュケもレウスの様子を覗き込んだ。
コバルトブルーの瞳は熱で潤み、顔も上気して呼吸が速いが、確かに苦しんでいるようには見えない。
しかし、その熱が異常であることは、レウスの着ているお包みがブスブスと音を立て、薄く煙を出していることでも明らかであった。
「むう。これがレイチェル王女なら、新たな魔道の力かと思ったでしょうが、何故レウス王子にこのようなことが……」
と、そこへ、「わたしに見させてちょうだい!」と声がし、急いで駆けつけたらしいウルスラが、部屋に入って来た。
クジュケが「お気をつけください!」と警告したが、ウルスラは構わず少し浮身した状態で、ベッドの上に来た。
「レウス、どうしたの? わたしに教えて」
勿論、まだ赤ん坊のレウスが喋れるはずもないのだが、そのコバルトブルーの瞳を見ていたウルスラは、「まあ、そうなの!」と頷いた。
「ああ、でも、そんなことないわ、レウス。あなたはあなたよ。自信を持ちなさい。お兄ちゃんでしょ?」
ウルスラの説得の効果は、劇的であった。
不機嫌そうであったレウスの顔が綻び、いつものような笑顔に変わったかと思うと、目を閉じて、スヤスヤと眠ってしまったのである。
同時に、スーッと室温が下がった。
レナはホッとしたように目を潤ませ、「ありがとう」と礼を述べた。
すると、ウルスラは床に降り、「いいのよ。それより、手を出して」と告げた。
「え?」
「火傷してると思うわ」
「あ、そうね」
レナは少し恥ずかしそうに、両手の掌を見せた。
「まあ、大変! すぐに冷やさなきゃ。ウルス、出番よ!」
ウルスラが顔を上下させると、瞳の色がレウスと同じコバルトブルーに変わった。
「ぼくに任せて!」
ウルスが指を口に当てて吹くと、白い息が出た。
それを横から見ていたクジュケは、「ああ、成程!」と頷いた。
「ウルスさまの冷気と逆に、レウスさまは熱を出すのですね。でも、どうして急に?」
一瞬息を止めて、ウルスが答えた。
「レウスに弟ができたみたい。それで、ちょっと焼きもちを焼いたんだってさ」
「おお、そうですか。……って、なんですと!」