773 ガルマニア帝国の興亡(15)
ギルマンからガルマニア帝国に帰還する途中で停滞してしまった五万の軍勢は、緩衝地帯に点在する村落から水や食糧、それに馬の飼料などを買い入れていた。
バロードのある中原西北部と違い、地味豊かな東北部は緩衝地帯の村落といえども裕福であり、また、ギルマン戦が長期化することを見越して軍資金を潤沢に持って来ていたからである。
従って、長期の軍旅につきものの栄養不良や過労は、どの兵士にも見られない。
その代わり、綱紀は弛みきっていた。
元々中間に統率する将がおらず、横並びの兵卒五万の上に、ポンと将軍であるコパ一人が乗っかっている状態だった。
その上、行軍の速度が日に日に遅くなり、遂に止まってしまったのだから、普通なら脱走者が続出してもおかしくはない状況である。
そうならなかったのは、少なくともこの軍にいる限り、喰いっぱぐれはないだろうという、浅はかな理由の者が多かった。
「空の上から見たが、兵士たちがたるんでおるのう」
本営の大天幕に戻って来るなり、ドーラは非難がましくコパに告げた。
コパは、貧相な顔を少しでも偉そうに見せようと生やし始めたらしい顎髭を片手で扱きながら、口を尖らせた。
「仕方がないだろう! 朕一人で五万人の面倒などみきれぬわ!」
髭同様、皇帝に相応しい一人称を探し、ゲールでさえ使わなかった大時代なこの言葉にしたようだ。
「チャドスやチャロアたちは、まだ戻らんのかえ?」
ドーラは、兵士たちの怠慢以上にそのことが気懸かりらしい。
「ああ。外国はそんなに問題ないと思うが、国内に楔を打ち込むのが大変だと言っていた」
具体的な内容は聞いていない様子のコパに、ドーラは少し苛立ちを見せた。
「楔とは何じゃ? あいつらは、何をコソコソやっておるのか!」
その言葉が聞こえたかのように、二人の居る天幕の中にポッと光る点が現れ、東方魔道師に連れられたチャドスが姿を見せた。
「おお、ドーラも戻っていたのか。ちょうど良かった。根回しは済んだから、コパさまのご即位の段取りを話し合おうと思っておったのだ」
ドーラは、疑わしそうにチャドスを睨んだ。
「どんな根回しじゃ? というより、誰に、と聞くべきかのう?」
チャドスは惚けた顔で苦笑した。
「決まっておろう。国内の反ゲーリッヒ勢力さ。まあ、おまえが知っているような大物はおらぬが、人数はそこそこおったぞ」
ドーラはチャドスの顔を覗き込むようにして聞いた。
「ほう? 反対勢力だけかえ? ゲーリッヒの仲間、或いは、ゲーリッヒ本人と話してきたりは、しておらぬであろうな?」
チャドスは不快げに顔を顰めた。
「当たり前ではないか。わしが会いたいと言ったところで、向こうが承知する訳がなかろう。変に勘ぐるな。それより、重大な情報がある」
敵対するマインドルフ将軍に教えたことは言わず、チャドスはタンチェンのことを伝えた。
話をはぐらかされたように憮然として聞いていたドーラも、顔色を変えた。
「まさか、あの坊やが! いやいや、確かに結界袋を奪われたと疑いはしたが、それもあの女狐タンファンの指図と思うておった。もし、あの純朴な態度が演技だとしたら、大したものぞえ」
チャドスはゆっくり首を振った。
「いや、演技ではなかろう。単なる演技では、魔女ドーラを騙せるものではあるまい。本人もそう信じ込んでおるのだ」
ドーラは片方の眉をクイッと上げて笑った。
「成程のう。宰相閣下ほどの名演技をなさるお方のお言葉なら、重みがありまするのう」
チャドスは嫌な顔をした。
「皮肉を言うな。そんなことより、段取りを決めねばならん。一刻も早くご即位をしていただき、新帝国設立を宣言せねば、兵がダレてしまう」
「おお、そのことそのこと。わたしもそれが気になっておった。少しは引き締めてやらねば、これでは山賊上がりのゴンザレスの兵以下ぞえ。ここは一つ、新皇帝陛下に、ビシッと叱咤激励の演説をしていただかねばのう」
凶悪な肉食獣二頭に挟まれた仔山羊のように、落ち着かない様子で目を泳がせていたコパは、漸く、話題が自分に向いていることに気づいたらしく、ゴクリと唾を飲んだ。
「う、うむ。無論、朕もそのつもりだ。だが、こんな野っ原で、即位の礼をすることはできん。然るべき場所でなければ、恰好がつかん」
と、ドーラがポンと手を鳴らした。
「それなら、打って付けの場所があるぞえ! ゲオグストの皇帝宮にも、勝るとも劣らぬ城じゃ!」
チャドスは怪訝な顔をしていたが、コパはすぐにピンときたらしく、複雑な表情になった。
「あいつの城か。だが、朕はあいつに嫌われているぞ」
ドーラは、今度は自分の胸を叩いた。
「任せよ! ヒューイ将軍はわが兄ドーン、即ち聖王アルゴドラスの盟友、否とは言わせぬ!」
コパが皇帝への階を登ろうとしている頃、そこから降りたがっている者もいた。
「もう、ぼく、皇帝じゃなくてもいいよ。レナたちと一緒に暮らせるなら、それでいいもん」
バロードの王都バロンに密かに匿われている、ゲルカッツェである。
そう言われたレナは、笑っているレウス王子を抱きながらも、暗い顔をしていた。
「嬉しいお言葉。でも、それは無理ね」
「え? どうして?」
「あなたのお兄さま、いえ、勝手に新皇帝を名乗っているゲーリッヒが見逃してくれないわ。草の根を分けても捜し出し、刺客を差し向けて来るでしょうね」
「その時は、また跳躍すればいいよ」
「どこへ?」
「うーん、うーん、どこか遠くへ!」
丸々とした顔を真っ赤にして答えを絞り出したゲルカッツェに、レナは凄みのある笑顔を向けた。
「わたしは嫌よ。もう逃げたくはないわ。いいえ、逃げる必要なんかない。だって、このバロードはレウスの国よ。みんな知らん顔してるけど、レウスはこの国の正式な聖王なのよ。その父親になろうとしているあなたの生命をガルマニア帝国が狙うなら、バロードは国を挙げて戦うべきだわ!」