771 ガルマニア帝国の興亡(13)
ゲーリッヒに従わない方面将軍三人のうち、ゴンザレスとヒューイの二人の説得に一定の手ごたえを得た魔女ドーラは、翌朝、更に北に向かった。
全体に高低差の少ない中原東北部ではあるが、ここまで来ると丘陵地帯となり、壁のように高峰が連なるベルギス大山脈が遠望できる。
「ぶるるっ。さすがに寒いのう。獣人将軍のように、獣毛を生やしたいくらいぞえ」
上空を飛びながらドーラは愚痴を溢した。
「しかし、ゴンザレスとヒューイの支配地は互いに近いからまだよいが、ここは、ちと離れ過ぎじゃな。間にゲーリッヒ側に付いた方面将軍もおるしの。まあ、牽制役として使えばよかろう。おっ、あれじゃな」
眼下に、小高い丘の上にある石造りの堅牢そうな砦が見えて来た。
城壁の上で多数の見張り役が警戒しているため、ドーラは上空で完全に隠形してから降下した。
砦の中庭では朝の鍛錬が行われているらしく、半裸の男たちが木剣で素振りなどをしている。
その中にあって、一人だけ変わった形の黒い胴着を身に着けて指導している人物がいた。
「木剣といえど、振るう際には、一撃必殺の思いを込めよ! 剣には本来防御の技などない! 少しでも先に相手を斬るのだ!」
その様子を見下ろしながら、ドーラは聞こえないくらいに小さな声で、「殺伐としておるのう」と呟いた。
と、黒い胴着の人物が顔を上げ、キッとドーラのいる方を睨んだ。
見事な銀髪であるが老人という年齢ではなく、壮年という言葉が相応しい。
「何者だっ!」
誰何の声を発した時には、手に持っていた木剣を投じていた。
咄嗟に避け切れないと判断したドーラは、自分の方から波動で迎え撃った。
パーンと空気が裂けるような音が響く。
が、速度は緩んだものの木剣は止まらず、隠形を解いたドーラが、自らの手で掴み取った。
「危ないのう。木剣でなくば、怪我をしておるぞえ」
態とのんびりした声を出しながらも、ドーラは油断なく掴んだ木剣を構えた。
黒い胴着の壮年の男は、鼻で笑った。
「魔女ドーラか。国外逃亡したチャドスに頼まれたか、ギルマンでまたしてもしくじったというコパに懇願されたか、事情は知らんが、わしを味方にしようと口説きに来たのなら、無駄なことよ。わしは誰の味方もせぬ。ゲール陛下のおらぬガルマニア帝国など、どうなろうと知ったことではないわ!」
ドーラは用心してそれ以上高度は下げず、空中浮遊したまま、皮肉な笑みを浮かべた。
「おやおや。剣豪将軍ザネンコフ閣下は、太刀筋は読めても、政治の流れは見えておらんようじゃのう。今や、帝国は真っ二つ。どちらにも付かぬなら、両方から潰されるだけのこと。それとも、その剣の妙技で、十万の大軍にも勝てるとでも仰るのかえ?」
あからさまな挑発に、しかし、ザネンコフは激昂することなく、寧ろ、静かに告げた。
「よかろう。おまえが馬鹿にしたわが剣がどれ程のものか、試してみるがいい」
「ほう? それはつまり、試合しよう、ということかの?」
「ああ。得物は木剣でも真剣でもよい。わしに掠りでもしたら、おまえの味方になってやろう。が、わしの剣がおまえに触れたら、疾く帰れ」
「面白い。まあ、互いに大事な身体。怪我をするのもつまらぬから、木剣でよい。ちょうど今持っておるしの。が、剣の試合をするなら、わたしではなく、兄に替わろう。暫し待て」
ドーラは警戒しつつ、ゆっくり高度を下げて地上に降り立つと、呼吸を整えた。
ゆったりとした長衣に包まれた艶めかしい美熟女の身体が、ゴツゴツした筋肉質の体型に変わっていく。
長い金髪が抜け落ち、地肌が透けるほど薄くなるのと同時に、美しい顔が角張った男のものになった。
大元帥ドーンの姿である。
嫋やかだった腕は、丸太のように逞しくなっており、持っている木剣を軽く振ると、ビュッと空気を斬る音がした。
「うむ。軽いな。手加減が難しそうだ」
そう言って笑うドーンを、ザネンコフは刺すような視線で見据えた。
「手加減など無用! 参る!」
言いざま、ザネンコフは傍らに置いてあった予備の木剣を拾い上げると、何の躊躇いもなく、流れるような動作でドーンに斬り付けた。
ドーンは、急速に間合いを詰めて来る相手から目を逸らさず、スッと体を躱した。
が、躱したつもりの身体を追って、ザネンコフの木剣がスルスルと伸びて来る。
「片手か」
ドーンが呟いたように、ザネンコフは片手一本で木剣を握っている。
カーンと音が響き、ザネンコフの木剣が弾かれた。
「卑怯!」
ザネンコフが非難したのは、ドーンは両手で自分の木剣の両端を掴んでいるからである。
これが真剣なら、刃先の方を持っている手は切れているはずだ。
ドーンは、馬鹿にしたように笑った。
「余の戦いに卑怯などという概念はない。勝つためなら、何でも利用するさ」
ドーンはそう言いながら、近くで見ていた鍛錬中の半裸の兵士の一人を蹴り倒し、その木剣を奪い取った。
両手で二本の木剣を構えるドーンに、ザネンコフは不快そうに顔を顰めた。
「おまえ如きが、ゲール陛下の真似をするな!」
ドーンは嘲笑った。
「良いではないか。木剣で試合するとは言ったが、本数までは約束しておらぬからな。さあ、今度はこちらから行くぞ!」
左右の木剣を縦横に振り回し、ドーンはザネンコフに向かって突進した。