5 辺境伯
対岸に近づくにつれ河底が浅くなり、真っ赤な人喰いザリガニの姿が見えるようになってきた。
泳ぎながら、ゾイアは背中のウルスに声を掛けた。
「聞こえるか?」
「うん、何?」
「これ以上泳ぐのは無理だ。ここから立って走る。振り落とされぬように掴まっていろ!」
「え、でも、ガンクが」
「わかっている!」
バシャッという水音と共に、ゾイアはその場で立ち上がった。
「ぐあっ!」
痛みを堪えるような声を上げ、全力で走り出した。まだ、水は胸の近くまである。ゾイアの脚力を以てしても、もどかしいほど速度が上がらない。
「うおおおおおーっ!」
叫びながら走るゾイアの肩や腕の筋肉が盛り上がって太くなり、皮膚に細かい黒点が現れたかと思うと、ザワザワと獣毛が伸びてきた。
必死に掴まりながらも、ウルスは不安になって「ゾイア、ゾイア、大丈夫なの?」と尋ねた。
が、答える余裕もないようだ。ゾイアの叫ぶ声が、次第に獣の咆哮に近くなっている。
だが、進むほど水は浅くなり、ゾイアの走る速さも増して行く。
最後は風を切るような勢いで対岸に飛び上がり、空に向かって遠吠えのように叫んだ。
ウルスはゾイアの背中から急いで降り、「ゾイア、しっかりして!」と呼びかけた。
振り向いたゾイアの目は緑色に爛々と光り、突き出した口からは牙が覗いている。
その両脚には脛の辺りまでガンクが何匹も鋏でぶら下がっていた。それを鉤爪が伸びた手で次々と強引に引き剥がすと、痛みに耐えかねたように、再び吼えた。
「ゾイア、落ち着いて!」
ウルスはなんとか宥めようと声を掛けるが、もはやゾイアの耳には入らぬようだ。
と、ヒュンという音と共に、どこからか一本の矢がゾイア目掛けて飛んで来た。
それが、ゾイアの心臓を貫く直前、目にも止まらぬ速さでゾイアの腕が動き、バシッと矢を叩き落した。
「ほう。見かけによらず、武術の心得があるようだな、化け物」
場にそぐわない鷹揚な言葉を発したのは、馬に乗った金髪碧眼の青年騎士であった。
華美な鎧を身に纏い、手に十字弓を持っている。その射程距離に近づくまで、馬の足音を殺して忍び寄って来たのであろう。
青年はすでに次の矢を番え、ゾイアを狙っていた。
「待ってください!」
ウルスは果敢にも、両手を広げてゾイアの前に立った。
「ゾイアは、ぼくを守るためにこんな姿になったんです! しばらくすれば、人間の姿に戻ります!」
「誰だおまえは?」
「ぼくは……」
敵か味方かわからぬ相手に名乗るのは危険だった。だが、ウルスの優柔不断な態度が、事態を急転させた。
ガクッと俯くや、すぐに顔を上げ、「無礼者!」と相手を一喝したのだ、ウルスラの声で。
「いかに辺境とて、新バロード王家の世継ぎに、その物言いは何じゃ!」
青年は唖然となった。
「もしや、ウルス王子か。いや、しかし、女の声のようだが」
ウルスラは、一瞬、しまったという顔になったが、小声で「後は頼んだわ」と告げると、顔を伏せた。
顔が上がった時には、コバルトブルーの目に戻っていた。
「おほんおほん。あー、ちょっと河の水を飲んでしまったみたいだ。改めて名乗ろう。新バロード王国のウルス王子だ」
青年はまだ疑いの表情だったが、すぐに馬を降り、片膝を着いた。
「知らぬこととはいえ、失礼いたしました。それがしは、辺境伯ソロンの一子、アーロンでございます。以後、お見知り置きを。もちろん、新バロード王国の悲劇は、この辺境にも伝わって参っております。父も心を痛めておりました。よろしければ、わがクルム城にお招きしたいと存じますが?」
「おお、それはありがたい」
ホッとして、すぐにでもアーロンの元に行こうとするウルスの肩を、ゾイアが掴んだ。
「ちょっと待て」
ウルスが振り返ると、すでに人間の姿に戻ったゾイアが空を見上げていた。
「すまぬ。われの叫びと血の臭いを、獣の断末魔と勘違いしたらしい。招かれざる客を呼んでしまったようだ」
ゾイアの視線の先を追うと、遥か北の空から、夥しい数の黒い点が、まるで生きている黒い雲のように揺らめきながら、こちらに向かって来ていた。
「あれは何?」
ウルスの質問にはアーロンが答えた。
「吸血コウモリでございます、殿下。早くこの場を立ち去りましょう」
「でも」
心配そうに自分を見るウルスに、ゾイアは笑って見せた。
「そうしてくれ、ウルス。われは何とかしてあやつらを撒く。おまえは早く逃げろ」
ゾイアは改めてアーロンを見た。
「そういうことだ。すまぬがウルスを頼む」
アーロンは、ゾイアの言葉遣いが気に入らない顔つきながら、今はそれどころではないというように力を込めて頷いた。
「わかった。おぬしはどうするつもりだ?」
「良ければ、剣を一本、われに貸してくれ」
「それなら、これを使え」
アーロンは、腰に差している剣を鞘ごと抜き、ゾイアに向けて投げた。
ゾイアは片手で軽く受け、二三度振ってみた。
「うむ。使い易そうだな」
「細身だが、バール鋼を使っている。滅多なことでは折れぬ。では、武運を祈る」
「忝い」
そう言うと、ゾイアはウルスの背中を押し「行くのだ」と告げた。
「うん。必ずクルム城で会おうね」
「ああ、そのつもりだ。早く行け」
アーロンは、歩み寄ったウルスを「失礼します」と抱え上げて馬に乗せ、その後ろに自分も乗った。
ゾイアを振り返り、「わがクルム城は、ここより西南へ四里ほどだ。待っておるぞ!」と告げると、馬に鞭を当て、一散に駆けて行く。
残されたゾイアに、黒い雲が近づいていた。