30 因縁の兄弟弟子
自分の名前はおろか、ウルスラの名前まで知っている相手に、ウルスは警戒心を募らせた。迂闊な返事をすれば、相手の思う壺かもしれない。
だが、相手は「これは失礼いたしました」と告げて、すっぽり顔を覆っていたフードを外した。
白髪の痩せた老人の顔が現れたが、その灰色の瞳には計り知れない叡智を湛えていた。
ウルスの顔が上下し、ウルスラの声で「ケロニウス老師!」と叫んだ。
「おお、その名で呼ばれるのも久しぶりですわい。ここでは偽名を名乗っておりましてな」
「ああ、懐かしや。幼き頃に魔道の手解きをお受けしたのが、遠い昔のようですわ。エイサが焼き討ちされたと聞いて、心を痛めていましたのよ。よくぞ、ご無事で」
ケロニウスは苦く笑った。
「おめおめと生き残ってしまいました。あるものを狙われるとわかっておりましたので、囮となって逃げ回るうち、本物の在り処を知られ、結局、奪われてしまいました」
「あるものとは?」
「姫もお耳にされたことがあると思いますが、『アルゴドラスの聖剣』にございます」
「勿論存じておりますわ。それを手にしたものが中原の覇者となるという聖剣を、いったい誰が盗ったんですの?」
「わしの兄弟子でございます」
「老師の兄弟子といえば、もしかして、ガルマニア帝国の」
「はい。今は軍師となっておるブロシウスにござりまする。千年続く戦乱を終わらせるには、一番強い国に味方して中原を統一させるべきだという異端思想にかぶれ、聖職を擲って野に下った男です。その後、あっという間にゲール皇帝の信任を得るや、皇帝を唆して大恩あるエイサを焼き討ちさせた外道です」
このように激しい嫌悪感を露にするケロニウスを、ウルスラは(そして、無論ウルスも)初めて見た。
ケロニウスの表情は、さらに悲痛なものに変わった。
「剰え、わしが密かに聖剣を託したばかりに、辺境伯ソロンさまのクルム城が襲われ、留守を預かるものたちの抵抗も虚しく、聖剣を奪われたのです」
「まあ」
ウルスラの脳裏に、ソロンの首級が楼台に晒された時の、心まで引き裂かれたかのようなアーロンの叫び声が蘇った。
ケロニウスも、目に涙を浮かべて俯いた。
「わしの読みが甘かったばかりに、ソロンさまを酷い目に遭わせてしまいました。万死に値します」
ウルスラは強く頭を振った。
「いいえ。悪いのは老師ではありませぬ。野望のためには手段を択ばないガルマニア帝国こそが諸悪の根源。そして、きゃつらの横暴を止めることのできない、わたしたちの無力さが」
ウルスラは悔しさを滲ませた。
ケロニウスはウルスラの顔を祖父のような慈しみの目で見ながら、「おお、お父上のカルス王に生き写しじゃ」と呟いた。
「姫も王子もご苦労なさったでしょうなあ」
「いえ。わたしたちなど。父のことを思えば」
ウルスの人格なら涙を零していただろうが、ウルスラは堪えた。
「そうでしたな。カルス王も、自分の一番信頼していた宮宰のカルボン卿に裏切られ、さぞかしご無念であったかと存じます」
亡き王の冥福を祈るよう、二人は暫し瞑目した。
目を開けると、ウルスラは深く息を吐いた。
「お父上が亡くなられてからの毎日が慌ただしすぎて、思い出すことすらできずにいました。老師にお会いできて、本当に良かった。逃げるのには男の子の方が安全と思って、ずっと隠れたままでちょっと窮屈でしたし」
ウルスラが少し笑顔を見せると、ケロニウスも微笑んだが、すぐに「そのことですが」と表情を改めた。
「姫にはお気の毒乍ら、今の中原では、女子の魔道は御法度。わしだから良かったものの、他の査問官であったならば、お命にも関わります。早船をご利用とあらば、行先は沿海諸国でしょうが、向こうに着くまでは、どうかご辛抱を」
「わかりました。今は追われる身、致し方ありませんね。ですが、必ずやいつの日にか、国を再興するつもりです」
「おお、頼もしや。その際には、老骨に鞭打って馳せ参じますわい。ああ、その前に一先ず、姫の、あ、いや、王子の査問状を認めまする」
「ありがとうございます。そうだわ、いっそ老師もご一緒に沿海諸国へ行かれませんか?」
だが、ケロニウスは哀しげに首を振った。
「この塔には特殊な結界を施しております。一歩でもここを出れば、あの者に気配を悟られてしまいます。今はまだ、捕まる訳には参りません。何としても、退勢を挽回する手立てを見つけねばなりませぬ故。従って、当分の間はここに潜んでおるつもりでございます」
そのブロシウスは、突然、ゲール皇帝から緊急の呼び出しを受けていた。
ところが、宮殿に登城すると、皇帝の居館へ行く通路の途中で、数人の男たちに取り囲まれてしまった。皆宰相ザギム直属の魔道師である。
頭らしい一人が進み出た。
「軍師ブロシウス、われらと一緒に来てもらおう」
ブロシウスは皮肉な笑みを浮かべた。
「ほう、これはいったい、どなたさまのご指示かな?」