1 月下の邂逅
同じ夜、老師ケロニウスが占星の塔に登る少し前のこと。
ここは、塔の都エイサから遥か西に離れた中原の端、辺境地帯の近くにある草叢。
「タロスと王子は、まだ遠くへは逃げておらぬはずだ。探せ!」
リーダー格であるらしい男の命令に、人の背丈ほどもある草のそこかしこから、「おー!」と応じる声がした。
月が雲に隠れた暗がりの中で、屈強な男たちの草を掻き分ける、ザッ、ザッという音だけが響く。
「団長、おりましたーっ!」
一人の叫んだ方向に、草叢に散っていた男たちが吸い寄せられるように集まって来た。
と、その焦点となっている場所から、「ぐああーっ!」という絶叫とともに、ドサリと人が倒れるような音がした。
生々しい血の臭いが辺りに漂う。
「気をつけよ! タロスは剣を持っておるぞ!」
団長と呼ばれているらしいリーダー格の男の言葉に、追っ手の男たちも自らの剣を抜いた。
ちょうど雲の切れ間から射し込んだ月光に、銀色の刃が光る。
その数、凡そ二十。
剣を帯びてはいるものの、正規兵ではないようだ。
革張りの簡単な具足しか身に着けておらず、それも各自バラバラである。
仲間が殺されたことによって男たちの闘争心に火が点いたのか、足を速めて追跡を再開した。
追っている相手が逃げて行く方向に川があるらしく、徐々に水の音が大きくなってきている。
草叢が不意に途切れ、石だらけの河原に出た。
男たちの視線の先に、彼らにも引けを取らない体格の男が、月光に照らされて立っていた。
突然追われる身になったのか、平服のままだ。
血塗られた抜身の剣を片手に、もう片方の手で幼い少年の肩を抱き寄せていた。
月光に照らされ、二人とも髪が銀色に光って見えるが、本来は金髪であろう。
月明かりでは見えづらいが、同じ深いコバルトブルーの瞳をしていた。
二人の周辺には身を隠す場所もなく、川を背にして追い詰められた状態だ。
対する追っ手の中でも一際体格の大きな髭面が、団長と呼ばれている男である。
ニヤリと笑って、一歩前に進み出た。
「タロス、観念せよ! すでに新バロード王国は滅びたのだ。中原はいずれにせよ、全てゲール皇帝のものとなる。さあ、ウルス王子をわれらに渡さば、命だけは助けてやろう! それとも、人喰いザリガニだらけのスカンポ河に飛び込み、泳いで向こう岸まで渡って、辺境に逃げてみるか?」
タロスと呼ばれた男は、剣の切っ先を少年に向けた。
「裏切り者のきさまたちにウルス殿下を渡すぐらいなら、この場で主従ともども生命を絶つのみ!」
ウルスという少年も覚悟を決めたように、目を瞑った。
だが、団長は二人を嘲笑うように、「それでも良いぞ」と告げた。
「カルボン卿からは、ウルス王子を生きて連れて来いとは言われておらぬ。場合によっては、証拠に首級だけもらえばよい」
追っ手の男たちも、団長に阿るように下卑た声で笑った。
タロスはすべてを諦めたように天を見上げて息を吸い、ウルスに向かって「お覚悟を」と告げて、剣を構えた。
ウルスも黙って頷く。
追っ手の男たちも敢えて手出しをせず、主従の最後を見届けようとした。
が、その時、かれらの上空で異変が生じた。
天の一角に、月をも欺くほどの眩い光が現れ、轟音とともに、急速にこちらに近づいて来たのである。
「あ、あれはなんだ!」
目の前の状況も忘れて、団長が叫んだ。
タロスはとっさに、今なら追っ手から逃げられるかもしれないと考えたが、それどころではなく、光は真っ直ぐタロスに向かって落ちて来た。
避けようもなく、物凄い衝撃と共に、タロスの身体は河まで吹き飛ばされた。
「タロースッ!」
ウルスの叫びも虚しく、盛大に水飛沫を上げ、タロスの身体は水中に没した。
呆然とそれを見ていた団長は、ハッと我に返り、「今のうちに王子を捕らえよ!」と男たちに命じた。
一斉に襲いかかる男たちに、ウルスは、タロスが落とした剣を拾って構えたが、如何せん重すぎるために剣先が下がってしまう。
最早これまでかと思われた時、先ほどタロスが沈んだ辺りの水面がブクブクと白く泡立ち、不意にそこからタロスの身体が飛び出して来た。
そのままちょうどウルスと男たちの間に降り立ち、タロスは男たちを睨んだ。
その目が尋常ではない。
元々青かった瞳が緑色に変わり、夜行性の獣のように爛々と光っている。
それだけではなかった。
水中に落ちた際に衣服が剥がれたのか、タロスは全裸となっていたが、その色白の肌に細かな黒点が多数生じ、見る間に剛毛となって全身を覆った。
髪の毛の部分も焦げ茶色に変わって長く伸び、鬣のように見える。
それに並行するように、顔がボコボコと膨らみ、顎がヌーッと伸びると、唇の隙間から大きな牙が生え出てきた。
その口の奥から獣の唸るような声で、「ゾイア……」という言葉が聞こえた。
一方、タロスの変わり果てた姿を目にした男たちは、口々に「ば、化け物だ」「怪物じゃ」と怯えたような声を上げている。
恐怖に竦む男たちを鼓舞するように、団長が叫んだ。
「ええい、構わん。多勢に無勢だ。この化け物もろとも、王子を討ち果たしてしまえ!」
「お、おー!」
だが、男たちが態勢を立て直す間もなく、獣人となったタロスが、天地が震えるような猛獣の咆哮を上げたのである。
そして、殺戮が始まった。