191 啓示
カリオテの大公宮では、外交上の議論が続いていた。
ダフィネのトラヌス伯爵の怒りが静まるのを待って、カリオテ海軍提督のファイムは反論を試みた。
「確かに、同盟関係にある国同士でも、常に利害が一致する訳ではないでしょう。従って、一方的に沿海諸国を属国化しようとするマオール帝国に対して、地理的にはもっと近い位置にあるガルマニア帝国が異議を唱える、という可能性はあると思います。しかし、これは危険な賭けです。仮に両国が同じようなことを主張した場合、沿海諸国が二つに引き裂かれるという、最悪の事態を招きかねません」
先程興奮し過ぎたためか、逆に蒼褪めた顔色になった伯爵は、意外に冷静な声で意見を述べた。
「そこを上手く誘導するのが、外交じゃ。もし、カリオテに適材がおらぬというなら」
急に伯爵の言葉が途切れたため、年齢が年齢だけにファイムはドキリとした。
しかし、顔を覗き込むと、口を半開きにしたまま蝋細工の人形のように固まっている。
ファイムがハッとしてスーラ大公の方を見ると、同じように動きの途中で静止していた。
「これは何なのだ?」
耳が痛くなるような静寂の中、自分の声だけが響く。
先程まで室外から聞こえていた大公宮で働く人々の騒めきも、全く聞こえない。
と、微かな、コツ、コツという音がこちらに近づいて来た。
誰かが杖を突いて歩いているようだ。
「この足音は……」
やがて、部屋の扉をすり抜けて現れたのは、枯れ枝のように痩せ細った老人であった。
高齢のため髪も眉も真っ白だが、瞳は黒いから南方の出身のようだ。
「あなたは、いったいどなたですか?」
相手に不思議な威厳を感じ、ファイムは自然と丁寧な言葉遣いになった。
「ふむ。そこで固まっておる馬鹿者の先祖じゃ。わしの子孫の青二才が吼えてすまんかったな」
老人が顎をしゃくって示した先には、齢三百歳を超えたというトラヌス伯爵がいた。
「青二才?」
思わず反問したファイムに、謎の老人は皮肉な笑顔を見せた。
「三百歳なんぞ、わしから見れば洟垂れ小僧よ。長命族を名乗るなど烏滸がましいくらいじゃ。それを嵩に着て普通の人間に威張るなど、笑止千万!」
「そういうあなたは、どなたさまですか?」
「おお、すまん。わしはサンジェルマヌスという者じゃ」
「えっ、あの伝説の大魔道師の?」
サンジェルマヌスは面倒くさそうに手をヒラヒラと振った。
「その呼び名は勝手に他人が付けたものじゃ。まあ、よい。それより、今は喫緊の問題があろう」
「あ、はい。如何したら宜しいでしょう?」
縋るようなファイムの問いに、サンジェルマヌスは困った顔になった。
「この時の狭間では、因果を乱すことは許されておらぬ。こうしてしゃしゃり出て来たものの、わしにできることは限られておる。おぬしも、ここで経験したことは記憶に残らぬ。そこで、外法ではあるが、おぬしの頭の中に啓示として情報を残して置く。時が流れ始めた時、おぬしは閃きを感じるだろう。よいかの?」
「……わがはいがガルマニア帝国との交渉をしてもよいぞ。ん? どうした、口をポカンと開けて。そんなに意外な提案でもなかろう?」
ファイムは慌てて口を閉じた。
話を聞きながら、ボーッとしていたようだと思った。
「ああ、すみません。ちょっと閃いたことがありまして」
トラヌス伯爵の押し付けに辟易していたらしいスーラ大公が、身を乗り出した。
「ほう。申してみよ」
「はい。ずっと疑問だったのですが、沿海諸国を属国化して、マオール帝国に何の得があるのでしょう?」
自分の提案がはぐらかされたと思ったのか、伯爵は不機嫌な声で、「決まっておろう!」と割り込んできた。
「沿海諸国の豊富な海産物を独占したいのだ!」
ファイムは首を傾げた。
「海のない中原の国ならそうでしょう。しかし、マオール帝国は、広大な東の大海に面していると聞いています。そこでは沿海諸国の比ではない漁獲量があるそうです。また、領土は南にも広がっており、最南端では、香辛料も豊富に獲れるそうです。つまり、無理をして沿海諸国を手に入れる理由がないのです」
「うーむ、おお、そうだ。奴隷貿易のためではないのか?」
伯爵の反論に、ファイムは苦笑した。
「闘士や遊女など、そんなに大量に必要なことはないでしょう。今でも海賊経由で手に入れているようですし」
黙ってしまった伯爵の代わりに、スーラ大公が尋ねた。
「では、真の目的は何だ?」
ファイムはニヤリと笑った。
「偽装です」
「偽装?」
「はい。マオール帝国は、何か別の目的のために軍用船を多数派遣したかった。しかし、事前にそれがバレると困る。そこで、沿海諸国に圧力をかけるため、という名目を掲げたのです。勿論、その過程で沿海諸国が手に入れば、行き掛けの駄賃として大歓迎でしょうが」
「では、本来、何のために軍用船を十隻も派遣したのだ?」
「わたしもそこはわかりません。ですが、中原のどこかの国に政変が起きた時、大勢の兵を送り込むつもりでしょう」
「成程のう」
自分を置き去りにして、ファイムと大公で話が進むことに苛立ち、トラヌス伯爵が立ち上がって叫んだ。
「どうして、おまえにそれがわかる! 何の証拠がある!」
ファイムは肩を竦めた。
「証拠などありません。ですが、ハッキリしていることが一つ。マオール帝国の軍用船が来航して数日経ちますが、要求してくる言葉こそ猛々しいものの、何ら実力行使をしていません。明らかに、時間稼ぎをしています。秋を、待っているのです」
改めて大公が訊いた。
「ならば、どうする?」
今や自信に満ちて、ファイムは応えた。
「言質を与えぬよう交渉を引き延ばし、われわれも待つのです」
そして、その時は、刻々と近づいていた。