190 小国の苦悩
中原は全て内陸であり、海に面しているのは、アルアリ大湿原とその南のスーサス山脈によって中原から隔てられた沿海諸国のみである。
従って、海軍というものは沿海諸国にしかなく、辛うじて最近になって、北方警備軍がゾイアの肝煎りで河軍とでも云うべきものを創ったぐらいであった。
尤も、沿海諸国の海軍の仮想敵は海賊であり、そのため各国が所有する船も少ない。
そこで、大掛かりな海賊を相手にする時は、その都度各国が船を供出して、『連合警備船団』を形成して事に当たっていた。
沿海諸国の間では利害が一致することの方が多く、国同士が戦争に至る程対立することもなかったため、今迄は本格的な海戦が起きたこともなかった。
前回、マオール帝国製の黒い軍用船四艦がガルマニア帝国軍の旗を掲げて来航した際にも、『連合警備船団』を出そうとの提案はあったのだが、徒に相手を刺激しない方がいいとの意見が多く、立ち消えとなった。
この時は、ウルスが自ら進んで人質となってガルマニア帝国側に身を任せたことにより、何ら実害を被ることもなく、軍用船は去っていった。
だが、今回、来航したマオール船は十隻を超え、ガルマニアの国旗も出していない。
しかも、その要求は無法とも云えるものであった。
沿海諸国に一定の自治権を認めるものの、基本的にはマオール帝国の支配下に置くという、一方的な属国化宣言を突き付けて来たのである。
カリオテの大公宮では、人の好さそうなスーラ三世が苦悩の表情で頭を抱えていた。
その前には、ツイムの次兄ファイムが片膝をつき、これも渋い表情で、「掛け合ってみましたが、沿海諸国の他の国は全く及び腰で、話になりません」と告げた。
スーラ大公は顔を上げ、今は提督となったファイムに縋るように訊いた。
「どこか仲裁してくれる外国はなかろうか?」
この場合の外国とは、沿海諸国以外の国という意味である。
ファイムは顔を顰めて首を振った。
「ガルマニア帝国はマオールと同じ穴の貉、新バロード王国は再建されたばかり、辺境伯はその新バロード王国と対立中、他の中原の国は小国ばかり。とても無理です」
押し黙った二人の許へ、来客が知らされた。
ダフィネ伯が面会を求めているという。
沿海諸国で最も古い小国ダフィネは、今は伯爵領であり、元首は伯爵であった。
スーラ大公は首を傾げた。
「はて、トラヌス伯爵が今時何の用であろう? まあ、よい、お通しせよ」
ファイムが「わたしはご遠慮しましょうか?」と尋ねたが、大公は少し考え、念のため残るよう命じた。
やがて大公の部屋に入って来たのは、年齢がわからぬ程に痩せて皺だらけの老人であった。
スーラ大公は「まあ、お掛けくだされ」と椅子を勧めた。
気を利かせたファイムが支える椅子にヨロヨロと座ったが、息が切れたらしく、暫くゼイゼイといいながら呼吸を整えていた。
大公が小姓に命じ、小さなカップに温めの薬草茶を入れて持って来させ、それをファイムがゆっくり飲ませた。
漸く人心地がついたように、トラヌス伯爵は口を開いた。
「ふーっ、お手間を掛けてすみませぬ。わがはいも三百歳を超えてから、どうも身体にガタが来ておるようです」
スーラ大公は、一瞬だが、今の苦境を忘れ、微笑んだ。
「いやいや、長命族の御子孫はお羨ましい。余など五十を過ぎたばかりですが、もう衰えを感じておりますよ。して、態々お出でいただいた御用のむきは?」
「うむ。此度のマオール帝国の横車の件でございますが、わがはいよりご提案したいことがございます」
大公は、思わず皮肉な笑みが浮かびそうになるのを堪え、少し大袈裟に相槌を打った。
「おお、伺いましょう」
伯爵はもう一口薬草茶を飲み、咳払いをした。
「おほん。ええ、この度のマオール帝国の言い掛かりとも云うべき要求は、一切受け入れる必要ござらん。誠に怪しからん!」
大公は、つい苦笑した。
「まあ、本音はそうですが、かと言って有効な対抗手段もなく」
伯爵は大きく頭を振った。
「ありまする!」
スーラ大公は、激しい伯爵の声にやや気圧された。
「ほう、それは如何にして?」
トラヌス伯爵は、大きく息を吸った。
「ガルマニア帝国に助けてもらうのです!」
横で聞いていたファイムが、見かねて割り込んで来た。
「いやいや、それは無理でございますよ、伯爵。マオールとガルマニアは同盟関係。今回のことも、同意の上と思いますが」
伯爵の顔が怒りでみるみる真っ赤になった。
「黙らっしゃい! そのようなことは百も承知! わがはいは阿呆ではないわ! 寧ろガルマニア帝国の方に従いたいと言って、マオール帝国を牽制するんじゃ! これは、両帝国を天秤にかける、反間苦肉の策なのじゃ!」
だが、そのガルマニア帝国を率いる皇帝ゲールは、新帝都ゲルポリスの建設に没頭しており、他の事には関心がないようだった。
それだけではない。本来なら入って来るはずの外部の情報が、何者かによって巧妙に遮断されていた。
従って、ブロシウスが自分の命に背いて反転して来ていることを、ゲールは未だに知らずにいる。
かつて魔道師の都と呼ばれたこの都市に数多く残っている塔の一つを改装し、ゲールは仮の居館として移り住んでいた。
今日も都市計画の図面を飽かずに眺めるゲールの横に、利発そうな少年がいた。
お気に入りの三男、ゲルヌである。
父譲りの赤い直毛を短めに刈り込んでいる。
その横顔は、父に似てハッとする程秀麗であった。
「父上、これでは防御が弱過ぎませんか?」
首を傾げるゲルヌの問いに、他の者には決して見せない優しい笑顔でゲールは答えた。
「良いところに気づいたな。だが、これでいいのだ。この新しい都は商業の中心ともするつもりだ。そのためには、開放的でなければならん。防御は、帝国全体ですればよいのだ」
自信に満ちて笑うゲールは、それが自分の命取りになりかねないとは、思ってもみないようだった。