189 新たなうねり
想い出に色が付いているのかどうかはわからないが、匂いは付いているようだと、ツイムは思った。
サイカの城門で揉めていた、ロックという若い男から自分の名を呼ばれた時、ツイムは懐かしい磯の香りを嗅いだような気がしたのだ。
海賊の一員として悪事を働いていたツイムが、真人間となり、マリシ将軍に拾われる切っ掛けとなった母子の記憶が、その匂いと共に蘇ってきた。
「そうか。おまえは、あん時の坊主なのか? おっかさんは元気にしてるか?」
その一言が、ロックの琴線に触れたようだった。
涙腺が壊れたのではないかと心配になる程、どっと涙が溢れ出た。
「母ちゃんは、おいらの母ちゃんは……」
後はもう嗚咽となって、言葉にならない。
「すまん。辛いことを聞いちまったようだな」
そう謝りながら、ツイムの目も潤んでいた。
傍らで見ていたライナが、訳もわからず貰い泣きしながら、「とにかく中に入りなよ。積もる話があるんだろう」と促したが、なかなかロックの激情は静まらないようだ。
ギータも事情はわからぬながら、「そうじゃ。ここでは目立つでな」と言って、ウルスとクジュケを先に中に入らせた。
ロックの様子を気にしながら、タロスもその後に続く。
まだしゃくり上げているロックを、ツイムとライナで両側から抱えるようにして連れて入り、最後にギータが周辺を確認して扉を閉めた。
ライナが気を利かせてロックだけ別室で休ませ、残る五人を大広間に案内した。
中に、十名は座れる大きな円卓がある。
ライナは発酵させた山羊の乳から作った飲み物を五人分用意させ、多忙だからと自分は席を外した。
皆気になるだろうと、先にツイムがロックとの出会いのあらましを話した。
おれは沿海諸国のカリオテの出身です。
当時はラカム水軍という海賊の一員でした。
散々悪いことをしましたが、ある日、襲った船で出会った幼い男の子とその母親を助けたんです。
海賊の掟でおれは縛られて水中に放り込まれ、ザリガニの餌にされかけました。
ところが、助けた母子がマリシ将軍の船に拾われ、おれを助けてくれと頼んだんです。
そのお陰で、おれはこうして生きているんです。
聞き終わったギータが、「不思議な縁じゃのう」と呟いた。
「わしのところにゾイアと来た時には、コソ泥はもう止めると言っておったが、それまでの人生で随分苦労したのじゃろうな。おお、そうか。わしの情報が間違っておらず、ゾイアとロックがすぐに早船でおぬしらを追いかけておれば、もっと早くに再会できたであろうに。すまなかった」
ツイムは笑って手を振った。
「いや、これも巡り合わせさ。こうして逢えたのだって、サイカに行こうと言ったギータのお陰だよ」
話が一段落したところで、クジュケが本題を切り出した。
「さて、これからのことです。暫くはこの街に逗留させていただき、情報の収集に努めましょう。わたくしは、ゾイア将軍の消息を。そして、皆さんは、バロードとガルマニア帝国の動向を。ギータさん、お願いしますね」
「うむ。わしの知り合いに声を掛け、ゾイアの行方を追わせるつもりじゃ。同時に、バロードの国内情勢とガルマニア帝国軍の動きを探る。得られた情報は皆で共有し、今後の計略を相談しよう」
そこへ、血相を変えたライナが駆け込んで来た。
「た、大変だよ!」
ハッとしたようにクジュケが立ち上がった。
「もしや、またロックどのがいなくなりましたか?」
ライナは首を振った。
「坊やなら寝ちまったよ。大事が二つ起きたんだ。一つは、バロード国境近くまで迫っていたガルマニア帝国軍が、急遽反転して東に行軍を始めた。物凄い勢いらしいよ」
ウルスが首を傾げた。
「どこに向かうつもりだろう?」
と、顔が上下して瞳の色が変わった。
「クジュケさん、これは、もしかすると?」
クジュケは大きく頷いた。
「はい。恐らく謀叛でしょう。ブロシウスが思い余ったのか、或いは、誰かが唆したのか」
黙っていたタロスが、ライナに訊いた。
「もう一つは、何ですか?」
「ああ、そうだった。こっちはまだ漠然とした話で、詳しいことはわからないんだけど、マオール帝国の軍艦が大挙して沿海諸国に押し寄せて来て、自分たちの属国になれと圧力をかけているらしいんだよ!」
ツイムが顔色を変え、「何ですって!」と叫んだ。
と、そこに、騒ぎを聞いて眠りから醒めたらしいロックが入って来た。
ギータが、「おお、もう大丈夫かの?」と尋ねたが、ロックは真っ直ぐツイムを見ていた。
「ツイムさん、おいらと一緒に、カリオテに戻ろう! 色々嫌な想い出もあるけど、祖国だもんな。おいらのせいでいなくなったゾイアのおっさんのことも気になるけど、それは尖がり耳のおっさんに任せるよ!」
急に話を振られたクジュケは珍しく苦笑して首を振った。
「まあ、落ち着きなさい。詳しいことがわからないと、ライナさんも仰っているでしょう? ロックどの、ゾイア将軍はいつも『情報こそが要となる』と教えられたはずですよ」
「わかったよ、もうっ!」
すっかりいつものロックらしくなり、ギータはニンマリと笑った。
しかし、ツイムはそれどころではないようで、「兄たちは大丈夫だろうか?」と不安を募らせていた。