182 予兆
マリシ将軍が北長城でンザビを撃退している頃、北方の異変に気づいた者が何人かいた。
一人は、蛮族の帝王カーンの父ドーンこと、聖魔王アルゴドラスである。
ちょうど、蛮族の帝王から新バロード王国の玉座に返り咲いた息子のカルス王と、ガルマニア帝国の軍師ブロシウスへの調略が成功したことを、二人だけで祝うための席であった。
二人とも白い長衣だけを身に纏い、王宮の王の間に簡単な酒肴だけ用意させて人払いをし、それぞれの杯に葡萄酒を満たした。
と、突然アルゴドラスは乾杯の手を止め、「待て!」と叫んで宙を睨んだ。
「如何された、おやじどの?」
訝るカルス王に、アルゴドラスは暫く返事をしなかった。
やがて太い息を吐くと、アルゴドラスは「おお、すまん」と詫びた。
「ついに、あやつらが動き出したようだ。これで、北方は最早人間の住める地ではなくなろう」
カルス王は驚きながらも、「間に合って良うござった」と微笑んだ。
「おお、確かにのう。わしらの決断が遅れておれば、蛮族全てがンザビ化しておったろう」
カルス王は少し首を傾げ、「北長城は保ちましょうか?」と尋ねた。
「うむ。ンザビぐらいは何とかするであろうが、あやつらの敵ではない。時間の問題であろう」
「すると、やはり予定どおりに?」
「ああ。辺境伯領までは、あやつらにくれてやる。しかし、スカンポ河からこちらには絶対に来させない。鉄壁の防衛線を敷く。そのためにも、早く中原の東側が落ち着いてくれねばな」
「ええ。ブロシウスが、上手くやってくれると良いのですが」
もう一人は、その辺境伯領のクルム城にいる老師ケロニウスであった。
行方不明になったゾイアを捜すために、元参与のクジュケがいなくなってしまうと、皆が懼れたように物事が進まなくなっていた。
最後までそれに反対していたペテオは、大きな円卓のある例の会議室で、大声で愚痴を零した。
「チクショー、あの尖がり耳野郎め! 自分が留守の間に亡命政権を作っとけって、簡単に言って出て行きやがって! パンや焼き菓子を作るんじゃねえんだぞ!」
ペテオを叱る役目のマーサ姫も、宥め役のボローも、今日は忙しいのか近くにはいない。
偶々その場に残っていたケロニウスが「まあまあ」などと言っていたが、急にガバッと立ち上がった。
「これは、いかん!」
「え? どうした、じいさん?」
ペテオが失礼な呼び名で話しかけても心ここにない様子で、ケロニウスは走って部屋を出ていった。
「おい、ちょっと待てよ!」
ペテオが慌てて後を追うと、ケロニウスは老人とは思えぬ程の勢いで、階段を駆け上がって行く。
そのまま一番高い物見櫓まで登り、ジッと北の空を睨んでいる。
漸く追いついたペテオの方が息を切らしていた。
「ど、どうしたんだよ、じいさん」
ケロニウスは顔を動かさぬまま、「あれを見よ」と告げた。
「なんだよ、あれって」
不平を漏らしながらもケロニウスの視線の先を追ったペテオは、「うっ」と言ったまま呆然となった。
この緯度では地平線スレスレの低い位置に辛うじて見えるくらいだが、禍々しく揺れる緑色の極光であった。
夕暮れ時とはいえ、日没までまだ間があるというのに、これほどハッキリ見えることなど滅多にない。
「凶兆じゃ!」
そう叫ぶケロニウスの唇が、ブルブルと細かく震えていた。
最後は一人ではなく、集団であった。
廃都ヤナンの地下神殿に潜む赤目族の神官たちである。
地上に繋がる四角い扉の真下にある、自然に砂が積もってできた小山の上に、十数名が集まっていた。
その中心にいるのは、カルボンであった。真っ赤に光る目をしている。
完全に憑依されているようだ。
「まずいな。第三十三次予測より随分と浸食が早まっているぞ」
隣にいる髪の毛も眉もない赤目族が頷いた。
「やはり、アルゴドラスによる時空干渉の影響だろう」
すると、その横の赤目族が首を振った。
「時空干渉は促進要素でもあるが、多量の結晶毒を生じさせたことで、遅延要素ともなっている。一概に悪かったとは云えぬのではないか?」
その問いかけは、カルボンがピシャリと否定した。
「違う。結晶毒は生物にとっては猛毒でも、非位相者には忌避剤としての効果しかない。上手に避けるさ。それに、アルゴドラスはストレンジャーを辺境に封じ込めるつもりのようだが、見込みが甘いと言わざるを得ないな」
最初に時空干渉の影響を指摘した赤目族が、大きく頷いた。
「そのとおりだ。できるだけ早く原型の干渉機で中和せねばならん。その人間は、やはり使えぬか?」
カルボンはゆっくり首を振った。
「如何せん、遺伝子が薄まり過ぎている。これ以上は、いくら訓練したところで無駄だろう。そう云えば、カルスの第二子が、仲間と一緒に近づいて来ていたのではないか?」
少し離れた場所にいる赤目族の一人が「国境警備が厳重で、まだ国内に入れぬようだ」と答えた。
カルボンは少し考えていたが、「已むを得ん」と呟いた。
「アルゴドラスにわれらの存在を気づかれる危険はあるが、こちらから働きかけて警備を弛めさせよう。国内に入ってしまえば、ここまで誘導するのは容易いことだ。何としても、第二子をわれらの仲間にするのだ。そうすれば、この男はもう不要になる。サッサと廃棄しよう」
自分自身の処分を決めると、カルボンは薄っすらと笑った。