178 調略
この地で宿舎として使っているのは富裕な農家の屋敷であったが、当然気密性の高い造りではないから、ブロシウスは、何よりも、声が漏れていないかを懼れた。
カルス王の使いという銀髪の美熟女、ドーラの今の言葉を誰かに聞かれれば、ブロシウスの生命はない。
「ドーラどの、滅多なことを言うものではない! きっちり結界を張るから、暫し待たれよ!」
ドーラは妖艶に笑った。
「心配せずとも、そこに抜かりはないわえ。既に結界は張っておる。おぬしのものよりは厳重じゃと思うぞえ」
「ならばよい。わしの方には、これ以上話すこともない故、疾く帰られよ」
「そうはゆかぬ。わたしがカルス王に叱られるわいな」
お道化たように言うドーラの顔を、ブロシウスは改めてじっくり見た。
「ふむ。先日会った時には、カルス王が北方で雇ってきた、理気力が桁違いに強いだけの呪術師か妖魔の類かと思うたが、どうも違うな。ドーラどのは、本当はどういうお立場の方なのだ?」
ドーラは口元を押さえ、ホホホと笑った。
「あまり見つめるな。恥ずかしいわえ。まあ、これを言った方がおぬしの心が動くのなら、教えよう。わたしは、カルス王の産みの母さ」
「なんと! ピロス公を誑かしたという、旅の舞姫であったか!」
「ほう。さすがによく知っておるのう。しかし、誑かした訳ではないぞ。勝手に向こうが惚れたのさ。さあさあ、戯言はこれぐらいにして、話の続きじゃ」
ブロシウスは強く首を振った。
「だから、話すことなど何もないと言っておる」
「ふむ。女身のままでは、軍略の話はし難いかのう。ならば、これならどうじゃ?」
ドーラは目を半眼に閉じ、ゆっくり呼吸した。
薄い長衣から透けて見える柔らかな身体の線が徐々にゴツくなり、筋骨隆々となる。
同時に長い髪が抜け、地肌が見えてきた。
顔もすっかり初老の男のものに変わった。
その様子を見たブロシウスは、驚くというより、納得した顔になった。
「おお、やはり両性族であったか! 成程のう。して、何と呼べばよい?」
「では、ドーンと」
「はて、どこかで聞いたような。まあ、よいわ。ドーンどの、せっかくのお越しだが、わしの心は変わらん。今はまだその時に非ず」
頑なに拒絶するブロシウスの顔を、ドーンはニヤニヤと笑いながら見ている。
「ブロシウスよ。中原一の軍師でも、目が曇ることがあるのだな。考えてもみよ。おぬしは今三万の軍を率いておる。皇帝のゲールは、新帝都建設に夢中で、警護の兵は僅かに千名だ。子供でもわかる算術ではないか?」
ブロシウスは顔を顰めた。
「馬鹿なことを申すな。本国には、まだ八万の兵が残っておるわ。それどころか、各地で戦っておる軍を全部集めれば、優に二十万は超える」
「その全てが、おぬしのものになるのだ」
ブロシウスの顔に、初めて躊躇いのようなものが現れた。
「たとえわしがその気になっても、誰もついて来ぬわ」
「それはどうかな。シャルム渓谷の戦いの後、帰国した兵たちの運命をわが身に置き換えれば、自ずとわかりそうなものだが。頭だった者は処刑、または投獄。それ以外はガルム大森林で強制労働。そのような運命を望む者などおらんだろう」
「それはゴッツェ将軍がわしの助言も聞かず、猪突猛進した結果だ。わしは慎重に軍略を練っておる」
ドーンはニヤリと笑った。
「で、どうだ? 今のバロードに勝てそうか?」
「む、無論だ。バロード正規軍の生き残りが二万、蛮族軍が一万、併せても三万だ。国境警備に幾らかは残さざるを得んだろうから、会戦に動員できるのは、多くても二万五千。しかも、バロード軍と蛮族軍の連携も今一つらしいではないか。精鋭揃いのわがガルマニア帝国軍三万の敵ではない」
「会戦ができれば、な」
ブロシウスは返事に詰まった。
それこそ正に、ガルマニア軍が足踏みしている理由に他ならない。
ブロシウスが黙ってしまったため、ドーンが言葉を継いだ。
「シャルム渓谷ほどではなくとも、バロードの東側は、緩やかな丘陵が何本も東西に走っている。つまり、東から来る軍は、どうしても縦に延びてしまい、横に展開できない。それを補うため、おぬしが今やっているように軍を三つに分けても、横の連携が取れなければ、孤軍と同じこと。しかも、おぬしは忘れておるのか、忘れたフリをしているのか、こちらには機械魔神がある。直線的に攻めて来る敵なら、何万いようが、全て焼き殺すことができるぞ」
ブロシウスの顔は蒼白になっていた。
「やってみねば、わからん!」
ドーンは、同情するようにゆっくり首を振った。
「やってみた結果、負ければ、三万の兵を待っているのは処刑か、投獄か、強制労働。可哀想とは思わんか?」
「もう沢山だ! 結局、おまえは、そうやってわしを騙し、バロードに有利なようにしようとしているのだろう!」
ドーンは、寧ろ哀しそうな顔になった。
「それは違う。余は、中原全体の利益を考えておるのだ」
相手の言葉遣いの変化に、ブロシウスは疑念を持った。
「あなたは、いったい……」
「おぬしなら、余の若い頃の肖像は見たことがあるかもしれんな」
ドーンが深呼吸すると、みるみるうちに顔が若くなってきた。
並行して髪も伸びる。
それを見たブロシウスの顔が、驚愕に歪んだ。
「そ、そんな馬鹿な! あなたが、アルゴドラス聖王その人だなんて、あり得ん!」