177 策謀
恐る恐る廃屋の扉を開けたバポロは、もう少しで本当に失禁するところであった。
目の前に、あのゾイアが立っていたのである。
しかし、どうも様子が変であった。
目に落ち着きがなく、オドオドしている。
何よりも、バポロの顔がわからないようであった。
別人かとも思ったが、この体格でアクアマリン色の瞳の男が、他にいるとも思えない。
バポロが黙っているため、怒っていると勘違いしたのか、ゾイアらしき男は弁解し始めた。
「突然扉を叩いてすまない。自分でもよくわからぬのだが、気がついたらここにいた。周囲を見ても何も思い出せぬ。それどころか、自分が誰なのかもわからんのだ。もし、何か知っているなら、教えてくれぬか」
つい先程までここに居たロックといい、記憶喪失が流行しているのだろうかなどと、バポロは馬鹿なことを考えてしまった。
そうではないだろうが、声を聞いて、相手がゾイア本人であることは確信した。
と、同時に、悪巧みが浮かんだ。
バポロは、親しげな笑顔を作った。
「おいおい、忘れてしまったのか! 余だ、バポロだ! 闘士、じゃない、擬闘士のおまえの雇い主さまだぞ!」
闘士だと、近くに武器がないことを怪しまれると思い、バポロは咄嗟にグラップラに変えた。
「われが、グラップラ?」
「そうさ。無敵のグラップラ、ゾ、違う、ガイアックだ。忘れたのか?」
「ガイアック……、おお、聞き憶えがあるようだ」
ガイアックとは、覆面の闘士としてバポロに雇われた時の、ゾイアの偽名であった。
「そうだろうとも! おまえとは長いこと組んでやってきたのだ。忘れちゃ、困るな。おまえはさっき、食い物を探しに行くって言ってたから、どっかで転んで頭を打ったに違いない。まあ、焦ることはないさ。ゆっくり思い出せばいい。それより、大変なことが起きたぞ! おまえの可愛がってた稚児のロックが逃げやがったんだ。借金を踏み倒してな。そうなると、保証人のおまえがそれを払うしかないぞ」
「ロック、という名前も、微かに記憶がある。そうか、借金があったのか」
「まあ、今すぐとは言わない。だが、グラップラを欲しがってたダチがいるから、そっちで出稼ぎしてもらうかもしれないがな。まあ、それは後で相談しよう。とにかく、今は腹拵えだ。もう一回、食べ物を探しに行ってくれ。但し、また転ぶんじゃないぞ!」
ゾイアは頻りに首を傾げていたが、肝心なことは何も思い出せぬようで、諦めたように頷いた。
「うむ。わかった。食べ物を探してこよう。すまぬが、もう少し待っていてくれ」
「頼んだぜ、ガイアック!」
ゾイアが出て行くと、バポロはフーッと息を吐き、独り言ちた。
「やれやれ、何とか騙くらかしたぞ。だが、ロックみたいに、いつ記憶が戻るかわかったものじゃない。早めに売り飛ばした方がいいな。うん、さっきは口から出まかせで言ったが、確か、リゲスの野郎が逃げ延びて、今じゃグラップラの元締めをやってるって聞いたな。よし、あいつに売ってやるか」
バポロはいいことを思いついたと、北叟笑んだ。
ゾイアが記憶を奪われた廃都ヤナンは、バロードの領内の南東に位置する。
そこから真東に進めば、カルス王に取り入ったガネス将軍の護る東側国境がある。
その更に東で、未だに足踏みしている大軍があった。
軍師ブロシウス率いるガルマニア帝国軍三万である。
尤も、三万が一箇所に固まっている訳ではなく、一万ずつが、南北と中央に別れていた。ブロシウス本人は、中央軍の中程にいる。
これは無論シャルム渓谷の二の舞を避けるためだが、それにしても慎重になり過ぎているのか、異様に行軍速度が遅かった。
本来なら、すでに先頭の部隊が国境付近に到達していてもおかしくはない。
当然、本国から督促の使者が来た。
チャダイという若い男で、宰相チャドスの遠縁だという。
勿論マオール人で、顔もよく似ており、剃刀で切れ込みを入れたような細い目をしている。
龍馬から下りるや、挨拶もせずにブロシウスに向かって、ゲール皇帝からの書面を読み上げた。
「軍師ブロシウスに告げる。これ以上の行軍遅延は叛逆と見做す。速やかに攻撃を始めよ」
さすがにブロシウスも蒼褪めた。
「し、暫く。西側国境と違い、ワルテール平原のような会戦に適した平坦地が近くになく、また、その後、蛮族軍と合体したバロード軍の全容も未だ掴めておらぬ状態にて、今は必死に情報収集に努めておりまして」
だが、チャダイは、チャドスそっくりの冷たい顔で、ブロシウスの弁明を遮った。
「申し開きは一切無用、とのことです」
それだけ告げると、来た時同様、挨拶もなく去って行った。
苦渋の表情で見送るブロシウスの脳裏に、カルス王の使いとして来た美熟女の言葉が甦ってきた。
敵は新帝都ゲルポリスにあり、と。
ブロシウスは怖気を震って、大きく首を振った。
「いかんいかん。やはり、言霊に縛られておる。たとえ、いずれはそうするとしても、今ではない」
ところが、ブロシウスの独り言に、窓の外から応答があった。
「時は今、だと思うぞえ」
ヒラヒラと灰色のコウモリが飛んで来て、クルリと宙返りすると、例の美熟女になった。
「のう、軍師、いや、新皇帝、ブロシウスどの?」
(作者註)記憶を失くしたゾイアのその後につきましては、よろしければ、外伝短編の『マオロンの超戦士』をご覧ください。