176 無力化
薄暗がりの空中に浮かんでいるのは、神官が着るような白い長衣を身に纏った男だった。
そして、ゾイアが知っている相手のようであった。
「おまえは、カルボンか?」
ゾイアは以前、場所も同じこの廃都ヤナンで、ガイ族の親子に痺れ薬を塗った刀子で刺されて動けなくなったことがあった。
その状態で、当時は共和国総裁であったカルボンの前に連れて行かれたのである。
その時は、偶々シャルム渓谷の戦いが勃発したため、その混乱に乗じて逃亡した。
その後、運命が二転三転し、辺境伯アーロンがバロード共和国と同盟関係となり、ゾイアの属する北方警備軍もその同盟に加わった。
同盟国になったとは云え、一介の軍人であるゾイアと、一国の総裁であるカルボンが会う機会はなく、もし、相手が本当にカルボンなら、顔を見るのはこれが二度目ということになる。
ガイ族の親子が連れて来たゾイアを、露台から見下ろしていた時も痩せた男であったが、今は更に削いだように頬がこけていた。
しかし、それ以上に違うのは、目であった。
全体が真っ赤に光っている。
憑依されていた時のロックと同じであった。
空中に浮かんだまま、その目でゾイアを観察するように見ていたが、その手には、黄金と宝石で見事に装飾された短剣のようなものを握っている。
ゾイアは知らないが、『アルゴドラスの聖剣』であった。
その口から、異様にしゃがれた声が聞こえてきた。
「カルボン、というのは、確かにこの男の名のようだ」
「ほう。では、今喋っているのは誰だ?」
「われらは魔道神に仕える神官だ」
その言葉に応じるように、赤い目をした人間が十数名下から飛んで来て、ゾイアを取り囲むように空中に浮かんだ。
皆色が白く、髪の毛も眉もないツルリとした肌をしている。
ゾイアは怖れるふうもなく、平然と見返した。
「赤目族とやらか。すまぬが、今はおまえたちに構っている暇はない。朋友の危機なのだ。早く地上に戻してくれ。まあ、嫌だと言われても、戻るがな」
ゾイアは立ち上がり、上着を脱いで上半身裸となって、深呼吸した。
その呼吸に合わせるように、肩甲骨の辺りに二つの突起が現れる。
突起はみるみるうちに大きく伸び、そこに羽毛のようなものが生えてきた。
鷲や鷹のような猛禽類の羽根のようだが、勿論その何倍も大きい。
「待て!」
慌てたように、カルボンの身体に憑依した神官が止めた。
「ロックとかいう若い男のことなら、心配ない。精神融合の後遺症で一時的に記憶喪失になっているが、間もなく記憶は戻る。自分のことを思い出せば、大人しく捕まっているような男ではない」
この状況だが、ゾイアは苦笑した。
「あいつが大人しくないのは事実だ。だが、ちゃんと記憶が戻ったかどうか、この目で確かめたい。おまえたちに興味はあるが、また会うこともあるだろう」
ゾイアが翼をはためかせ始めると、カルボンに憑依している神官が、握っている聖剣を抜いて構えた。
「待てと言っておる!」
すると、今にも飛び立とうとしていたゾイアの動きが鈍くなってきた。
翼のはためきがゆっくりになり、みるみる縮んで小さくなって肩甲骨に吸収されるように消えた。
「こ、これは?」
神官は、カルボンそのもののように底意地の悪そうな笑顔を見せた。
「このために、この男の身体を手に入れたのだ。多少はアルゴドラス聖王の遺伝子が残っているからな。それを強化し、訓練を積ませた。それでも、使えるのは漸く干渉機の持つ力の一割程度だが」
「よせ! われはロックのところに行かねばならんのだ!」
「そうはいかぬ。皆で話し合って決めたのだ。おまえの存在が、本来の歴史の進行に歪みを生じさせている疑いがある。よって、当分の間、おまえを無力化する。記憶を抑圧し、変身能力を制限させてもらう。全てはバルルの思し召しだ」
「やめろ!」
その頃地上では、放棄された廃屋の中に、バポロが一人で座っていた。
ロックが近所の農家に頼み込んで手に入れた葡萄酒を手酌で飲みながら、バポロはまた鼻を赤くしている。
「なんかツマミが欲しいな。おーい、ちょっと来い!」
と、廃屋の扉がドンと蹴り開けられ、憤然とした様子でロックが入って来た。
「チクショーめ! 思い出したぞ、この悪党め! よくもおいらを騙してくれたな!」
バポロは椅子から跳び上がるように立った。
「ま、待て。話を聞いてくれ。おまえが記憶を失くしてフラフラ歩いていたから、余が、あ、いや、おれが助けたんだ。その時、お財宝があるところを知ってるって、おまえが言うから」
ロックはダンッと床を踏み鳴らした。
「うるせえ! それをいいことに、おいらを奴隷扱いしやがって! 許せねえ!」
バポロはガバッと土下座した。
「すまねえ! ちょっと魔が差したんだ。代わりに、おれを扱き使ってくれてかまわない。い、生命ばかりは勘弁してくれ!」
それ以上ロックが責めていたら、バポロはいつものように失禁していただろうが、ロックも焦っているようだった。
「もういいよ! こんなところでおまえに構ってる暇はねえんだ。おいらがいなくなって、みんなが、特にゾイアのおっさんが心配してるはずだ。一刻も早く戻らなきゃならねえんだ。おまえはもう好きにしろ!」
偶然にもゾイアと同じような科白を言い捨てると、ロックはバタンと扉を閉めて出て行った。
暫く土下座のまま固まっていたバポロが、もう大丈夫だろうと顔を上げると、トントンと扉を叩く音がした。
「あっ、すまねえ。なんか忘れ物があるなら、言ってくれ。すぐに持って行くから」
ロックが戻って来たと思って慌てるバポロだったが、外から聞こえて来たのは別人の声であった。
「すまぬ。ここの住民であるなら、教えて欲しい。ここはどこなのだ? そして、もし、知っているなら訊きたいのだが、われは誰であろう?」