175 ノブレスオブリージュ
教主サンサルスの挑発的とも云える言葉に、いつものようにウルスラの感情が爆発するのではないかと、タロスもツイムも心配そうな顔をしたが、そうはならなかった。
ウルスラは、寧ろ哀しげに小さく頷いた。
「それは、よくわかっているわ。簡単には誤解は解けないでしょう。それでも、わたしたちには使命があると思っているの。国民の幸せを護ることよ。本当は父がそうしてくれると思っていたけど、父は変わってしまった。詳しいことはまだわからないけど、聞こえて来るのは良くない噂ばかり。あなたの言う中原全体の平和は大切な理想だと思うけど、その前に自分の国を救いたいの。本当にお世話になったのに、我儘だと思うけれど」
サンサルスの表情が和らいだ。
「ああ、正に、わたしの見込んだお方だ。とても、幼い子供の考えることではない。高貴な義務を理解されておられる。よろしいでしょう。最早何も強制いたしませぬ。好きなだけここに居て、好きな時に立ち去りなさい。ただ、気が変わったら、いつでも戻っていらっしゃい。わたしは、そして、プシュケー教団は、いつでもあなたの味方ですよ」
サンサルスがあまりにアッサリ引き下がったため、ギータが口を挟んだ。
「すまんな。長年情報屋などしていると、疑り深くなる。おまえさんが許してくれたとしても、他の信徒たちが納得してくれるじゃろうか?」
サンサルスは苦笑した。
「さすがに中原一の情報屋さんですね。いいでしょう。これを王女に差し上げます」
サンサルスは、プシュケーを表す古代文字を象った宝玉に、細い金の鎖が付いた首飾りを取り出し、ウルスラに手渡した。
「これは客人の印です。この先、わが教団の兄弟姉妹に出会うことがあれば、これをお見せください。何時如何なる場合も、賓客としておもてなしいたします」
ウルスラは、それを手に取って少し見つめていたが、「ありがとう」と言って、すぐに首に掛けた。
サンサルスは嬉しそうに笑った。
「何かの罠かもしれないと確かめ、危険なものではないと判断するや、躊躇わず身に着けられた。それでこそ、わたしたちの信頼に値する客人です。いつでも喜んで送り出しましょう。して、取り敢えずは、どこに行かれるおつもりか?」
そこまでウルスラも考えていなかったらしく、少し首を傾げていたが、「そうだわ」と点頭した。
「首都、いいえ、王都バロンは警戒厳重でしょうから、一先ず、廃都ヤナンを目指します」
その廃都ヤナンに、失踪したロックを捜すため単独で旅に出ていたゾイアが、漸く今到着した。
旅の擬闘士に身を窶し、カルス王の粛清が始まる前にバロード領内に入ったものの、想像以上に蛮族が入り込んでいて、顔を知られているゾイアは身動きが取れなかったのだ。
以前、ロックと一緒にヤナンを訪れた時には、ガイ族によって水路が引かれ、畑なども作られていたのだが、今は全て放棄されたようである。
それでも、収穫されなかった野菜などが随分残っており、置いていかれた家畜が勝手に食べている。
「おい! 余にこんな不味いものを喰わせる気か!」
いきなり近くで怒鳴り声が聞こえたため、ゾイアはサッと物陰に身を潜めた。
小さく「この声は、確か……」と呟く。
「しょうがねえだろ! おいらだって、精一杯探したんだぜ!」
今度の声は間違いなくロックである。
飛び出しかけたゾイアは、しかし、少し様子をみた方が良さそうだと思い直し、聞き耳を立てた。
「それがご主人さまに言うことか!」
パシッと平手で打つ音がし、今度こそ出て行こうとしたゾイアを、次のロックの言葉が止めた。
「すまねえ、バポロさま! 奴隷の分際で生意気なことを言っちまって。許してくれ」
「ふん、二度と余に逆らうな! おまえの母親の病気治療のために、莫大な借金があることを忘れるなよ。年季はまだ三年も残っておるのだ。少しでもその足しになるかもしれないとおまえが言うから、態々ヤナンくんだりまで来てやったんだ。お財宝があると言ったのに、あるのは腐りかけた野菜ばかりではないか。もう食事はよいわ。それより、どこかから葡萄酒を手に入れてこい! 怒鳴り過ぎて、余は喉が渇いたぞ!」
バポロの言っていることは、全くの出鱈目である。
ゾイアが以前ロック本人から聞いた話では、母親は随分前に亡くなっており、財産は何も残さなかったが、借金が無かったので助かったとのことであった。
恐らく、ロックが記憶を失くしているのをいいことに、情報部隊の捕虜であったはずのバポロが騙して、ここまで逃げて来たのであろう。
ゾイアは、猛然と腹が立ってきた。
ロックを助けようと、一歩足を踏み出した、将にその時。
不意に足元の地面が無くなったように、ゾイアは仰向けに下に落ちた。
見上げると、四角く切り取られたような青空が、どんどん小さくなって行く。
叫び声を上げようとした時には、バタンと音がして四角い空が消え、真っ暗になった。
同時に、ドスンと背中から下に着いた。
「うっ!」
幸い、下は柔らかい砂のようだ。
「ここは、どこだ?」
下の方で大勢の人の気配がしたかと思うと、目の前にフワリと浮かんだ真っ白な人の姿が見えた。
その目は真っ赤に光っていた。