16 軍師と皇帝
中原の西端が『赤い河』と呼ばれるスカンポ河であるならば、東端は『黒い森』と呼ばれるガルム大森林である。そこから手付かずの原生林が果てしなく広がっている。
その大森林に背後を護られるようにして、中原最大の城塞都市であるガルマニア帝国の帝都ゲオグストがある。
その幾重にも廻らされた城壁と濠を、誰何されることもなく通り抜けて行く者がいた。
馬に乗った小柄な老人である。
魔道師が着るようなフード付きのマントを身に纏っているが、フードを被っていないため、地肌が透けるほど髪が薄くなった頭部が丸見えだった。
かなりの高齢のようだが、黒い瞳は炯炯とした眼光を放っている。
近くで見ると、乗っている馬も普通の馬ではなかった。体を覆っているのは毛ではなく、細かな鱗のようだ。
老人はついに、ゲール皇帝の住まう宮殿の前に到達し、衛兵に馬を託した。
「一日に千里を駆ける龍馬故、扱いに気をつけよ」
そう告げると、年齢を感じさせない矍鑠とした足どりで、居館へ向かう階段を上って行く。
そこからさらに、両側に儀仗兵がずらりと並んだ回廊を通り抜け、三つある門を潜ると、漸く居館が見えた。
「面倒じゃが、これが宮仕えというものよ」
皮肉めいた笑顔で独り言ちると、姿勢を正して呼ばわった。
「ブロシウスにござりまする! 只今帰参仕りました!」
頑丈な造りの扉が両側に開き、謁見の間に通された。そこで平伏して待っていると、ヒュン、ヒュンという音が聞こえてきた。
ブロシウスは小声で「また双剣術のお稽古か」と呟いた。
やがて音が止むと、足音すら聞こえぬまま、上段の玉座から、「大儀!」と声が掛かった。
ブロシウスは躊躇なく顔を上げて相手を拝したが、すぐに畏れるようにまた顔を伏せた。やんごとない貴人の威にうたれたという態だが、その一瞬で、ブロシウスは皇帝の様子を目に焼き付けていた。
皇帝の機嫌を常に探ることが、この宮廷で生き残る術であった。
今のゲール皇帝は、剣の稽古の途中であったため、緩い胴衣しか身につけておらず、はだけた胸元から隆々とした筋骨が見えていた。
皇帝が先程まで振るっていた大剣は、左右に控える衛士たちが恭しく捧げ持っている。
機嫌は、悪くもなく、良くもなくとブロシウスは見た。
「陛下におかれましては、ご機嫌麗しゅう……」
「儀礼は不要! 早く申せ!」
「はっ。わたくしの見立てどおり、聖剣は辺境伯のもとに届けられておりました。本物に相違ございません。すでに、宰相ザギムさまにお渡ししております」
「遅い!」
「申し訳ござりませぬ。剣はすぐに手に入れたのでございますが、不測の事態が起こりまして」
「何じゃ!」
「クルム城を押えておりました千人隊が、一夜にして壊滅いたした模様」
「愚か者!」
ヒュンと音がした刹那、ブロシウスは真横に移動した。
すると、今までブロシウスがいた場所の床に、人間の身長ほどもある大剣がダンッと突き刺さった。
慣れているのか、ブロシウスは些かも動揺しなかった。
「畏れ入りますが、続きがございます。千人隊を滅ぼしたは、荒野の兄弟と思しき野盗でござりますが、その野盗どもを一気に敗走させた者がおりまする」
「どこの国の兵じゃ!」
「いえ、それが、ただ一人にございます」
「嘘を申すな!」
また、ヒュンと音がし、ブロシウスはさらに横に移動した。
直後、ダンッと床に大剣が刺さった。
「嘘ではござりませぬ。その男の行方を追わせる手配のため、思いの外時間を取りました」
「何者じゃ!」
「残念ながら、まだ殆ど何もわかっておりませぬ。ゾイアという名以外は。ただし」
「何じゃ!」
「人間ではなく、怪物だとの噂もございます」
それを聞いて、ゲール皇帝は初めて怒声ではない声を出した。
「ほう、面白い。必ず捕らえよ」
「はっ! 必ずや!」
同じ頃、そのゾイアはウルスの消息を追い、ガルマニア軍から奪った船でスカンポ河を渡り、自由都市サイカに入ろうとしていた。
「本当に、ウルスの居場所がわかるだろうか?」
不安げな顔のゾイアに、ロックは胸を張った。
「おいらに任せなって。闇雲に探し回ったって見つかるもんじゃねえ。こういう場合は情報屋に訊くことさ。今はまだ知らなくても、金さえ弾めば、どんなことだって調べ上げるのがやつらの仕事なんだ。そして、このサイカって自由都市には、腕っこきの情報屋がわんさかいるのさ」
都市をぐるりと囲む城壁に唯一ある門の前には、長槍と盾を持った門番が両側に立っている。
ロックは進み出ると、満面の笑顔で「ご苦労さまです」と頭を下げながら、偽造した通行証を見せた。
が、門番はいきなりその通行証を長槍で突き刺した。さらに、門の上の矢狭間から、次々に矢が飛んで来た。
「や、やべえ! おっさん、逃げよう!」
だが、その時にはすでに、ゾイアはもう一人の門番の長槍を奪っていた。