171 撤退
ニノフたちと必要な取り決めを終えると、ゾイアは、いなくなったロックを捜すため、愈々一人で旅立つことになった。
「大将、当てはあるのか?」
二人になったところで、副将のペテオに聞かれ、ゾイアは考えながら頷いた。
「ああ。そもそも赤目族とやらの憑依が原因なら、廃都ヤナンが怪しいと、老師に教えてもらった。一先ず、そこを目指すつもりだ」
ペテオは驚いて反対した。
「敵地のど真ん中だぜ! いくら今は廃都だからって、危な過ぎるよ!」
「まだ敵地ではないさ。ニノフどのの軍が、東ではなく西に向かうということがハッキリするまではな。だから、今のうちに行くのだ。勿論、身分は隠す。そうだな。われのこの体格だから、旅の擬闘士ということにでもしよう。では、ペテオ、後は頼んだぞ」
最早止めても無駄なことは、ペテオにもよくわかっていた。
スッと手を差し出し、ゾイアと握手を交わす。
「大将のことだ、何も心配はしてねえ。だが、あんまり無茶はするなよ」
「ああ、心掛けよう」
ゾイアが出発すると、ペテオは急に不安を覚えたが、気持ちを切り替え、すぐに自分たちの準備に取り掛かった。
撤退は、来た時とは逆に、マーサ姫率いる辺境伯軍から始まった。
取り敢えず、受け入れ先となるアーロンの了解を得る必要があったからだ。
尤も、アーロンと蛮族の娘レナの仲に嫉妬しているマーサ姫が話せば、纏まるものも纏まらなくなると、交渉役として外交を専門とするクジュケが同行することとなった。
勿論ケロニウスも一緒である。
次に、北方警備軍からの派遣軍は二手に分け、半分は『暁の軍団』の砦に残る留守居役と交代させることにした。
中原への橋頭保として、ここは維持して置くべきだというゾイアの考えからだ。
残る半分は直接北長城に向かう。
これもゾイアの発案で、蛮族がバロード側に付いた以上、北方にも何か動きがあるかもしれないからである。
ニノフの機動軍は、怪しまれぬよう、ギリギリまで待って辺境を目指すことにした。
一つには、ボローの怪我の回復を待つためでもあった。
「おれはもう大丈夫だと、言ってるだろう!」
強がるボローを、ニノフは苦笑しつつ、宥めた。
「せっかく休めるんだ、ゆっくりしてろ。そのうち、頼むから休ませてくれと泣きつかれても、断るかもしれんぞ」
冗談めかして言ったものの、本当にそうなるかもしれぬと、ニノフは唇を噛んだ。
そのニノフの弟であるウルスは、プシュケー教団の本部で教主サンサルスから自分の名前を呼ばれ、返事に窮した。
もしかして、カマをかけているのではないか、と思ったのだ。
タロスたちも黙っている。
サンサルスは、その美しい顔で微笑んだ。
「そんなに警戒なさらずとも大丈夫ですよ。別に、ガルマニアにもバロードにも通報などしません。われわれは、地上のどの勢力にも組しません。ただ、神にのみ忠誠を誓った者の集いなのです」
そう言って瞑目し、小さな声で「イーラ、プシュケー」と唱えた。
すぐに目を開き、「おお、そうでした。まだ、自分から名乗ってもいませんでしたね」と苦笑した。
「改めまして、わたしはこの教団の教主、サンサルスと申します。至らぬ者ですが、どうぞお見知り置きください」
すると、ギータが問いかけた。
「おぬし、アールヴ族じゃな?」
サンサルスが答える前に、ウルスが小さな声で「アールヴ族って?」と尋ねた。
仕方なく、ギータも小声で教えた。
「アールヴ族とは、別名を妖精族ともいう神秘的な種族で、様々な神通力を持つとされておる。長命族の一種じゃが、極めて出生率が低いため、絶滅の危機にあるということじゃが」
サンサルスはギータの質問に直接は答えず、煙るような淡い紫の瞳で遠くを見つめ、「そうであったとしても、それは過去のことです」と言った。
「わたしが何族の出身であっても、ここでは関係ありませんよ。神の前では、皆平等ですから。そう言うあなたはボップ族でしょう、情報屋のギータどの?」
ギータは小さな肩を竦めた。
「何もかもお見通し、という訳じゃな。それは、アールヴ族の神通力かの?」
サンサルスはホホホと女のように笑った。
「残念ながら、それは大昔の話ですよ。今、アールヴ族の生き残りは僅かですが、皆普通の人間と然程変わりません。少々耳が尖っているだけです」
自分の冗談にまた笑うサンサルスに焦れたのか、今度はタロスが訊いた。
「あなたがわれわれの正体を知っていることはわかった。それで、何のためにわれわれを呼ばれたのか?」
「おお、失礼しました、タロスどの。それから、そちらはツイムどのですね。わたしが皆さんのことを知ったのは、神通力でも何でもありません。現在、わがプシュケー教団は、ガルマニア帝国領以外の中原諸国全てに信徒がおります。そこで見聞きされた情報は、この本部に集められます。何のためかとお思いでしょうが、一つには、かつて理不尽な弾圧を受けたからです。そして、もっと重要な理由は、この中原に神の国を創るためです。ああ、また、話が逸れましたね」
サンサルスは、少し照れたように微笑んだ。
「わたしが皆さまをお呼びした理由は、唯一つ。ウルス王子を教団の後継者としてお迎えしたい、ということです」