169 それぞれの運命
いきなりニノフを婿にするとマーサ姫が言い出し、一番焦ったのはペテオであった。
「姫御前! アーロンさまのことは、如何なさるおつもりですか!」
この言葉が、更に火に油を注ぐ結果となった。
「あのような浮気者、わらわは最早何とも思っておらぬわ! 北方から連れ帰った蛮族の娘にデレデレと鼻の下を伸ばしおって!」
マーサ姫のここ数日の機嫌の悪さは、それが原因であったらしい。
ニノフは、この状況下ではあったが、初めて少し微笑んだ。
「身に余る光栄ですが、今はとても自分の結婚など考えられませぬ。お許しください」
婉曲に断ったが、意外にも、ゾイアがこの話に入って来た。
「ニノフ将軍。姫の婿になるかどうかはともかく、一先ず、それこそ、辺境伯のアーロンどのの許へでも身を寄せられてはどうか? 部外者の言うべきことではないと思うが、今、バロードに戻るのは、些か危ない気がするのだが」
ニノフは深く頷いた。
「実は、おれもそう思っていたのです。他人は、おれが御落胤だから贔屓されるだろうと、勝手に嫉妬するようですが、これまでの人生で父親の愛情を感じたことなど一度もありません。寧ろ、他人の方がずっと優しかった。あのカルボンですら、父よりはマシだったと思うくらいです。今は状況が変わったとはいえ、このままバロードに戻って、無事に済むとは思えません。ただ、悩ましいのは、ボロー以下の機動軍のことです。おれ一人が抜けたとしても、その後、皆が国に帰った時に、今までどおりの処遇がなされる保証はありません。最悪の場合、牢に投獄されたり、強制労働を命じられたりする可能性すらあるでしょう。しかし、だからといって、おれに付き合って国を捨てろなどとは、とても言えません」
苦悩の表情で俯くニノフに、皆言葉を失ったが、意外な声が外から聞こえた。
「水くさいな。おまえのためなら、みんな国を捨てて付いて行くさ」
ニノフがパッと顔を上げて立ち上がった。
「ボロー! 寝てなきゃ、駄目じゃないか!」
そう叫びながら、ニノフ自ら大天幕の入口を開けると、杖をついたボローが立っていた。
無理をしたせいで、早くも晒しの布に血が滲んできている。
顔を顰めながらも、無理に笑顔を作っていた。
「おまえの一大事に、寝ていられるかよ。おれも含め、機動軍全員、おまえの行くところなら、辺境だろうが、地獄だろうが、どこまでもついて行くぜ」
この言葉には、少し大人しくなっていたマーサ姫が反応した。
「無礼な! 辺境と地獄を一緒にするな!」
ペテオが苦笑して、立ち上がった。
「まあ、似たようなもんさ。それより、怪我人に無理をさせちゃいけねえ。奥の寝台はまだ空いてたろう? 取り敢えず、ロックの横に寝かせよう」
ボローは「一人で大丈夫だ」と歩き出したが、忽ち足元がフラついた。
ニノフが「ペテオどの、すまぬ」と言ってボローの左から支えたところへ、ペテオが右から肩を貸した。
そのまま二人で奥に連れて行ったが、急にペテオが大きな声で叫んだ。
「大将、大変だ! ロックがいねえ!」
バロードの政変は、噂話として、カルス王のもう一人の息子にも伝わった。
プシュケー教団の客人となったウルスの一行は、ベルギス大山脈の麓にある拠点、聖地シンガリアというところに逗留していた。
ここでは固定された家はなく、住民たちは、他の地域では見られない丸い形の天幕に住んでいる。
ウルスたち四人も、その一つを貸し与えられていた。
「如何されますか、殿下?」
ウルスにそう尋ねたのはタロスである。
ウルスは困ったように左右を見回し、教団の人間が誰もいないことを確認すると、顔を上下させた。
コバルトブルーだった瞳の色が、限りなく灰色に近い薄いブルーに変わった。
難しい問題なので、姉のウルスラに替わったのであろう。
「やはり、あの蛮族の帝王カーンは父上だったのね。本当なら飛んで帰りたいくらいだけど……」
タロスも首を傾げた。
「本当にカーンはカルス王だったのでしょうか?」
「間違いないと思うわ」
「もし、そうだとしても、どうしても違和感が拭えませんね」
「そうなの。わたしたちが父上の心の底を知らなかったのか。或いは、落城した後、何か人格が変わる程の衝撃を受けたのか。いずれにしても、昔の父上とは違う。何か悪の匂いを感じるわ」
タロスが唇に指を当て、囁くように「誰か来ます」と教えた。
ウルスラは急いで顔を上下させると、ウルスに戻った。
「入ってもよろしいか?」
そう声を掛けてきたのは、最初に教団に接した時にタロスに呼び掛けた、あの青年のようだ。
タロスはウルスの瞳の色を確認し、「おお、どうぞ!」と応えた。
「失礼する!」
入って来たのは、やはりあの青年であった。
今日は教団の制服らしい詰襟の服を着ている。
中にタロスとウルスの二人しかいないことを見て取ると、「お連れはお出かけかな?」と聞いた。
「ああ。怪我の具合も良くなり、体力もだいぶ回復したが、腕が鈍ってしまわぬように、ボップ族の連れと剣術の稽古をしている。もう間もなく、再び旅に出られそうだ。長い間、本当に世話になった。何のお礼もできず、すまない」
「どうか、気にされぬように。困っている方を助けるのは、われらの務め。それより、お連れの二人が戻られてからで良いのだが、教団本部までご足労願えぬか。われらの教主サンサルス猊下が、皆さまとお話したいと申しておりまする」