166 不可侵条約
自分を庇うように一歩前に出たカノンを、逆に、ブロシウスは窘めた。
「おまえ如きの敵うお方ではない、愚か者。下がっておれ」
「ですが……」
「案ずるな。このお方に害意があれば、今頃は、二人ともあの世へ行っておるわ」
「はっ」
カノンが出て行くと、ブロシウスは相手を繁々と眺めた。
銀髪の美熟女は、手の先で口元を隠し、ホホホと笑った。
「あまりジロジロ見るでない。恥ずかしいではないか」
ブロシウスは、少しお道化た仕草で、自分の薄くなった頭部をピシャリと叩いた。
「おお、これはわしとしたことが、失礼した。ところで、何とお呼びしたらよろしいかな?」
「では、ドーラと」
「うむ。目の保養はさて置き、確認せねばならんな。ドーラどの、今言われた『わたしたち』とは、どこのどなたさまのことかな?」
ドーラは妖艶に微笑んだ。
「無論、既におぬしの耳にも入っておるであろうが、蛮族の帝王カーンさま、即ち、カルス王陛下と、その下で生まれ変わった新バロード王国のことさ」
ブロシウスは、「ほう」と惚けた顔をした。
「バロードは共和国になったと思うが」
ドーラは鼻先で笑った。
「残念なことに裏切り者のカルボンは取り逃がしたが、既にほぼ全土を制圧したぞえ。二三日内には、カルス王によって、王政復古が宣言される手筈じゃ」
「それはよいとして、その新バロード王国が、わしに何用じゃな?」
ドーラは姿勢を改めた。
「ガルマニア帝国との戦いは、共和国総裁のカルボンが勝手に始めたこと。わたしたちには、それを継続する意志も義理もない。無益な争いは止め、手を結んだ方が、互いに利益があるのではないかえ?」
ブロシウスは、皮肉な笑みを浮かべた。
「成程。用向きは、まあ、わしの想像したとおりじゃな。カルス王は、建国当初から、中原二分割を唱えられていた。中原全体を一つの国にしてしまうと、力が分散され、外への圧力が弱まり、結局は侵略を招く、とな。寧ろ、二つに分け、西半分は北方に備え、東半分は東方の帝国を警戒する。そして、中原の東西二大国の間は不可侵条約を結ぶ。これこそが、恒久平和の礎となると」
「ほう。よく知っておるではないか」
ブロシウスは自嘲するように笑った。
「ガルマニア帝国の軍師となる前、散々調べたのだ。その結果、わしの出した結論は、不可、だ」
ドーラから笑顔が消えた。
「何故じゃ?」
「たとえカルス王が不可侵条約を遵守しても、ゲール皇帝が守る筈がない。機会を窺い、例えばバロードが北方と戦となった時に、背後から襲い掛かるだろう。ゲールは、決して中原の半分で満足するような男ではない」
ドーラは、今度はニタリと笑った。
「それは、皇帝が、ゲールだからであろう?」
ブロシウスは、顔を顰めた。
「何を示唆しようと思っているのか知らんが、無駄なことだ」
ドーラは、ブロシウスの表情の変化を面白そうに眺めていたが、ポツリとこう言った。
「敵は、新帝都ゲルポリスにあり」
ブロシウスは片手で額を押さえ、もう片方の手を激しく振った。
「よさんか! わしに言霊縛りを掛けるつもりなら、この場で自死する!」
ドーラは肩を竦めた。
「別に、言霊縛りなど掛けておらぬわ。おぬしの本心を代弁しただけさ」
「黙れ!」
「まあ、いいさ。これは第一回目の交渉。また来るぞえ」
ドーラは、フッと飛び上がって空中で回転すると、再び灰色のコウモリに変身して、窓から飛び去った。
一方、ワルテール平原では、結局、ニノフの天幕では話し合いには手狭だということになり、ニノフが工兵に命じて、急遽会議用の大天幕が立てられた。
椅子が並べられ、参与クジュケ、老師ケロニウス、派遣軍副将ペテオ、マーサ姫、そして、ニノフが入ったところで、一旦入口が閉じられた。
ニノフが経緯を話し終えると、重苦しい沈黙が落ちた。
場を和ませようと思ったのか、ペテオが、「昨日の敵は、今日の友、か」と呟いた。
隣に座っていたマーサ姫が、「ふざけておる場合か!」と叱りつけたが、ニノフが「いえ、どうかご自由に意見を述べてください」と執成した。
そこへ、「ゾイア将軍、ご到着されました!」との声が聞こえて、全員がホッとした顔になった。
ゾイアは大天幕に入って来るなり、「遅くなってすまん。凡その事情は聞いた」と告げ、後ろを振り返ると「おまえも話に入った方がいいだろう」と連れを呼んだ。
「当たり前だろ。おいらの情報がきっとみんなの役に立つさ」
ゾイアの連れは、勿論ロックであった。
ゾイアが簡単に「われの軍の情報部隊長だ」とのみ告げた。
二人が席に着いたところで、逆に、ニノフが紹介した。
「お二人は初対面と思いますが、こちらがバロード共和国参与のクジュケ閣下、そして、ケロニウス老師にあらせられます」
すると、ロックが、「初対面なもんか!」と立ち上がった。
「ケロニウスのじいさん、こんなところにいたのかよ。あんたのせいで、おいら酷い目に遭ったんだぜ!」
だが、ケロニウスはロックの不平には取り合わず、自分も立ち上がると、真っ直ぐロックに向かって指を突き付けた。
「赤目族じゃな。何故この者に憑いておるのか!」