159 ワルテールの会戦(9)
「まさか、『暁の軍団』が戻って来たんじゃあるまいな!」
ペテオが今一番恐れているのは、それであった。
もし、『暁の軍団』が『荒野の兄弟』の砦を攻めるのを止めて引き返して来れば、ペテオの率いる二千名の参戦による優勢が、再び覆ってしまう。
伝令はペテオと馬を並べて走りながら、頭を振った。
「いえ、あの旗印はお味方です!」
「おお、そうか! ゾイア将軍が来てくれたのか!」
「それも違います! 旗印は辺境伯のものにて、先頭でそれを率いておられるのは、真っ赤な甲冑を身に着けておられるお方です!」
「なんと、姫御前か! 相わかった! 早く、ニノフ将軍にお伝えしてくれ!」
「はっ!」
伝令は馬に一鞭入れると、離れて行った。
ペテオは、胸の痞えが取れたように破顔した。
「全く、姫御前らしいぜ! 後からクルム城の守備軍が来るとは聞いてたが、それを自ら率いるとはな!」
ゾイアが言っていた、遅れて渡河して来る予定の二千の兵であった。
今回、北方警備軍を大規模に派遣するに当たって、マリシ将軍は辺境伯のアーロンにも協力を要請していた。
かつて、ガルマニア帝国軍の侵攻によってクルム城が落城し、父のソロンを失ったアーロンは、守備軍を大幅に増強した。
しかし、それを率いる将がまだ育っていないと嘆いているのを、ペテオも耳にしたことがある。
そこで、マリシ将軍の娘であるマーサ姫が名乗りを上げたのであろう。
ゾイアの指示によって、この二千名はどこにも寄らずに最短距離でワルテール平原に向かったはずだが、とても今日中には間に合わぬと誰もが思っていた。
それを、マーサ姫の統率力でこの時刻に到着させたのである。
ペテオは馬を速めながら、後ろに向かって叫んだ。
「よしっ! これでもう、勝ったも同然だ! みんな、姫御前が来てくれたぜ! 笑われねえように、奮い立てよ!」
怒涛のように雄叫びが上がった。
ペテオ軍二千が南から、マーサ姫率いる辺境伯軍二千が西から、同時に蛮族軍に襲い掛かり、防戦一方になっていたニノフの軍も息を吹き返した。
そのまま一気に勝負が着くかと思われたが、そうはならなかった。
蛮族軍が、空いている北側へ、徐々に逃げ始めたのだ。
いや、逃げるというより、のらりくらりと攻撃を躱しながら、少しずつ移動しているのである。
漸く劣勢を跳ね返したニノフだったが、その蛮族軍の行動に首を傾げた。
部下たちから「今こそ徹底的に追撃し、殲滅しましょう!」と催促されたが、「まあ、待て」と止めた。
伏兵がいるのではないか、という疑いが拭えないのだ。
伏兵がいるとすれば、当然、『暁の軍団』であろう。
ニノフたちは、途中で逃亡兵が多数出たことなど知らないため、まだ四千名いると思っていた。
ペテオ軍の二千とマーサ姫軍の二千が加わって、一万五百となったとは云え、特に大熊隊などは朝からの戦闘で疲弊し切っている。
今ここで、蛮族軍七千五百に、無傷の四千が伏兵として新たに参戦すれば、戦いの帰趨がわからなくなる。
何より、既にだいぶ日が傾いて来ており、決着がつかない交戦状態のまま、日没を迎えることは避けたかった。
中原では、不文律として日没後の戦闘は行わない。
敵味方の区別も付かないような暗闇では、必ず同士討ちが発生するからである。
それが蛮族にも当て嵌まるのかまでは、ニノフも知らなかった。
が、蛮族軍の動きの鈍さは、伏兵がいるのでなければ、日没までの時間稼ぎとも受け取れた。
いつになくニノフの判断力に切れがないのは、本人は意識していないものの、やはりボローの容態が気になっているからであろう。
そのため、伏兵がいるとの報告を受けた時に、詳しく調べることもなく、すぐに日没による一時撤収を決意した。
伏兵がいるだろうというニノフの読みは当たっていたが、それは『暁の軍団』ではなかった。
その砦を護っていた蛮族軍の一部であった。
ゾイアが北方へ戻るだろうと見逃した兵たちの内、約半数の千名がそこに集結していたのである。
お互い強引に攻めることもできたであろうが、双方、翌日に持ち越そうという暗黙の了解が成立し、それぞれに撤収して、距離を取って夜営の準備に入った。
ニノフは部下たちに必要な指示を与えると、真っ直ぐボローが寝かされている天幕に入った。
幸い一命は取り留めたようだが、高熱に魘されていた。
誰も入らぬよう命じて、再び顔を上下させてニーナとなって手を翳していたが、外から部下の叫ぶ声が聞こえてきた。
「あ、申し訳ございません。ニノフ将軍より、どなたも入れぬように命ぜられております!」
「強行軍で援軍に駆け付けて来たのだぞ! そのわらわたちを捨て置いて、ニノフどのには何の用事があられるというのか!」
顔を上下させてニノフに戻ると、ボローの天幕を出た。
見ると、激昂するマーサ姫の横で、ペテオが面白そうにニヤニヤ笑っている。
「おお、これは申し訳ない、マーサ姫にペテオどの! 怪我をした副将の様子を看ておりました。もう大丈夫のようです。早速ですが、おれ、あ、いや、わたしの天幕で明日の戦いの軍議をいたしましょう」
だが、マーサ姫のエメラルドグリーンの目が、まだ怒りに燃えていた。
「わらわは、怒っておるのです! 何故に決着を明日に延ばされた?」
「伏兵がおりました故」
「ふん! 伏兵が怖くて、一軍の将が務まりましょうか?」
さすがにペテオが「姫御前!」と抑えた。
ニノフは、真っ直ぐにマーサ姫を見て、頭を下げた。
「仰るとおりです。明日こそは、伏兵ごと叩き潰しましょう」
マーサ姫もそれ以上は騒がず、ニノフの天幕で明日の戦略を話し合った。
だが、翌朝、蛮族軍は、忽然と姿を消していたのである。