155 ワルテールの会戦(5)
「敵襲だーっ! ぐあーっ!」
夜明けとともに見張り役の兵士の声が聞こえ、断末魔の叫びで途絶えた。
天幕の中で夜中に目醒めてしまい、座ったままトロトロと微睡んでいたペテオは飛び起き、長剣だけを握って天幕を出ると大声で命じた。
「状況を報告しろ!」
だが、周辺は既に恐慌状態に陥っていた。大部分の兵士は寝込みを襲われたらしく、武器も持たずに逃げ惑っている。
襲撃して来たのは蛮族の騎兵で、手に手に三叉の槍を構え、手当たり次第に兵士たちを突き刺して回っていた。
数はそう多くない。数十騎であろう。
ペテオは舌打ちし、「イダラ族か」と呟くと、大声で命じた。
「狼狽えるな! 敵は僅かだ! 弓隊、射掛けよ!」
ところが、弓隊が矢を放つ前に、イダラ族の騎兵は風のように去って行った。
被害は怪我人が三十名程出ただけで、死者は最初の見張り役以外にいない。
明らかに、挑発であった。
「くそっ! こっちはみんな寝不足だってのに」
ペテオが言うように、兵士たちの間にも熟眠できない者が多かったのだ。
ゾイアが恐れていた『心の疲れ』であろう。
別動隊として先行したペテオの軍は、渡河して以来、充分な休養が取れていないのである。
「だが、そんなことは言ってらんねえな。ゆっくり寝るためには、勝つしかねえ」
ペテオは手早く甲冑を身に着け、愛馬に飛び乗ると、大きく息を吸い、檄を飛ばした。
「みんなシャッキリしやがれ! 敵に舐められてんぞ! 北方警備軍の意地を見せろ! 全軍、突撃だーっ!」
兵士たちから「おおおーっ!」と声が上がった時には、ペテオが一番先に駆け出していた。
それを追うように、四千の兵が一斉に前進を始めた。
しかし、走り出して間もなく、先頭を行くペテオが不意に止まった。
右の拳を高く突き上げる。
「全軍停止せよ!」
つんのめるように後続の騎兵たちが馬を止め、歩兵たちも戸惑いながら立ち止まった。
ペテオたちはいつの間にか、腰の辺りまで伸びた草原の中に入り込んでいた。
ペテオは周囲を見回し、鼻をヒクつかせた。
「いかん! この臭いは、石油だ!」
ペテオが叫んだ時には、周りの草が一斉に燃え出した。
炎は忽ち馬の背より高くなり、ペテオたちをグルリと囲むように燃え上がった。
四千の兵の内、ペテオと共に突出した約半数が、炎に閉じ込められたのである。
更に、その頭上から矢が降って来た。
それも普通の矢ではない。
甲冑を貫くように、特別に鏃を重くしたものだ。
炎の外から強弓で上向きに射ているのである。
あちこちから絶叫が上がった。
ペテオは降ってくる矢を長剣で払い除けながら、炎を見て回った。
完全に囲まれており、逃げる場所がない。
「くそうっ、ものの見事に罠に嵌っちまったぜ」
こういう場合ゾイアならどうするか、ペテオはそう考えながら炎以外に目を向けた。
矢が飛んで来るのは前方からだけだ。
当然である。後方には、残る二千の仲間がいるからだ。
「そうか。脱出するなら、そこしかねえじゃねえか。よしっ!」
ペテオは後方に残っているはずの仲間に向かって呼び掛けた。
「おれだ! ペテオだ! この辺りの火を消して脱出する! そっち側からも、じゃんじゃん砂をかけろ!」
耳を澄ますと、微かに「応!」と返事が聞こえた。
ペテオはこちら側の兵士にも命じた。
「歩兵はみんなで手分けして、ここんとこに砂を撒け! 騎兵はおれと一緒に矢を防ぐんだ! いいな!」
「おおおーっ!」
南側から戦闘の声が上がったことは、すぐにニノフたちも気づいた。
しかし、様子を見に行かせる余裕もない。
蛮族軍の本隊がこちらに向かって動き出したのだ。
ニノフは迎撃を命じ、騎射を得意とする騎兵部隊を向かわせた。
攻めて来る蛮族側の中心となっている一団は、全員騎乗して戦大鎌を構えていた。
クビラ族である。凡そ三千名はいるようだ。
クビラ族は、北方蛮族の中でいち早く中原の文明を取り入れ、甲冑も、叩き延ばした鉄片を繋いだ鱗鎧を使っている。
また、クビラ族の振るうウォーサイスは、鎌の部分が重過ぎるため、一度振り抜くと腕の力だけでは反転できない。
したがって、最初の一撃を躱されることを見越して、複数で別の方向から弧を描くように同時に接近しては離れる、という攻撃を連携して行っている。
しかも、攻めている間は、ほぼ無言であった。
かれらが、北方の死神と怖れられる所以である。
今しも、ニノフ側の騎兵が近づき、騎射してサッと離脱しようとしたが、反対方向から来たクビラ族のウォーサイスがザクッと音を立てて通り過ぎた。
馬は走り抜けたが、乗っている騎兵には、既に首がなかった。
遠目で確認したニノフは、「接近し過ぎるな! ウォーサイスの間合いに入らずに騎射しろ!」と指示した。
と、逆に猛然とクビラ族に迫って行く一団があった。
十字槍を持ったボロー率いる大熊隊の千名である。
「ニノフ! おれに任せろ!」
ボローはそう叫んで、自らクビラ族に突っ込んで行った。