151 ワルテールの会戦(1)
ゾイアが『暁の軍団』の砦を陥落させた、その夜。
予定戦場をワルテール平原と見越し、いち早く陣を張ったニノフは、本営の天幕の中、一人で周辺の地図を拡げながら訝しんでいた。
「おかしい。何かある」
そこへ、副将のボローが来た。
「ニノフ、いるか?」
室内に一人で居る時に黙って入って来られるのをニノフがとても嫌がるため、必ず声を掛けるのが仲間内の不文律となっていた。
「ああ、いいぞ。入ってくれ」
ボローはごつい身体に薄い胴着だけ身に着けていたが、胸が開けて、黒い髭と胸毛が繋がっているように見える。
「夜分にすまんな。ランプの灯りが見えたから、まだ起きていると思ってな」
男くさいボローに比べ、ニノフは金髪碧眼の優男で、とても軍人とは思えぬ程ほっそりしている。
だが、剣の腕でも、馬術でも、ボローも含め機動軍五千人の中に、ニノフに敵う人間はいない。
「いや、ちょうど良かった。眠れずに地図を見ていたのだが、おかしなことに気づいたのだ」
「おかしなこと?」
「ああ。地図を見てくれ。ここが、今われわれのいるワルテール平原だ。少しでも戦術眼のある人間なら、ここが予定戦場になることは自明だと思う。そして、ほぼ真西に『暁の軍団』の砦、それから、北西に現在の蛮族の野営地がある。つまり、蛮族たちはわざわざ遠回りをしているのだ。そのため、ワルテール平原に来るには、一旦南下して、途中で東に向きを変えねばならん。そのため、行程が一日余計にかかるのだ」
「今いる場所が、野営に適していたんじゃないか?」
「いや、野営地の候補は他にも沢山ある。その中で、わざわざ一番北寄りのところを選んでいるのだ」
ボローは「うーん」と唸って頭を抱えた。
「その、なんだ、北方が故郷だから北にいる方が落ち着く、とかじゃないのか?」
ニノフは苦笑した。
「気候が変わる程離れちゃいないさ。何か他の理由があるはずだ」
「北ねえ。そこの北はもう山岳地帯で、行き止まりだ。背後から襲われるのを避けるため、とかかな?」
ニノフはハッとしたように「山岳地帯?」と呟いた。
ニノフの反応に、言ったボローの方が照れた。
「まあ、そんな大袈裟なものじゃないがね。その辺りから徐々に標高が上がったり下がったりしながら、最終的にはベルギス大山脈にぶち当たるんだ。そんなところを大軍は通れないから、安心と云えば安心だろう」
「大軍は、ということは、少数部隊なら通れる、ということだな」
ボローは訳がわからないらしく、「どういうことだ?」と問うた。
ニノフは考えながら、地図を指した。
「ボローは蛮族が北寄りに野営したのを、護りのためと解釈してる。だが、おれは逆だと思う」
「逆?」
「ああ。スカンポ河を渡った時もそうだが、先に北長城を三千人規模で攻めたという。カーンという男は、陽動作戦を得意としているのだ。おれはよく知らんが、父もそうだったと聞いたことがある。つまり、今度も一万二千の大軍は陽動で、別動隊が山岳地帯に入ったのではあるまいか」
ボローは呆れたように、目を見開いた。
「いや、いくら何でも山岳地帯を多数では動けん。精々数百の規模だろう。それが、わが軍の背後に回ったとしても、大勢に影響はない。何なら、おれの大熊隊の十字槍の餌食にしてやるさ。第一、兵数は圧倒的に向こうが有利なんだ。そんな姑息な真似はせんだろう。考え過ぎじゃないか?」
ニノフは少し黙って目を瞑っていたが、「そうかもしれんが、いや」と首を振った。
「念のため、明日、『荒野の兄弟』に伝令を行かせててくれ。かれらの縄張りは山岳地帯に近い。斥候を出して様子を見てくれと」
「わかった。ついでに、こっちも野営地の蛮族の動きを探ろう。南下を始めたことは間違いないが、ワルテール平原に到着する正確な日時を見極めたい」
「そうしてくれ。おれは、もう少し策戦を練る。そう言えば、ゾイア将軍の副将の到着は、いつ頃になりそうだ?」
「ああ、明日の夕刻には、とのことだ」
「おれの予測では、蛮族軍もおそらくそのくらいに着くだろう。となると、開戦は、明後日の早暁か」
ニノフは、グッと唇を噛んだ。
しかし、ニノフの予想より早く、翌日には戦が始まってしまったのである。
先制攻撃を仕掛けたのは、『荒野の兄弟』のルキッフであった。