141 魔性
その少し前。
蛮族の帝王カーンによって、『暁の軍団』は完全に支配下に置かれていた。
ところが、殆どの団員は、寧ろそれを歓迎したのである。
砦が城であった頃の玉座を改装し、蛮族風の鉄の玉座にしたカーンは、いつもの派手な仮面を着けたままそこに座り、平伏する元の団長バポロに皮肉を言った。
「おまえは下の者に好かれておらなんだようだな」
「ははあーっ! 余の、あ、いえ、わたくしめの不徳の致すところにござりまする!」
カーンに酒を飲むことを禁じられているバポロは、赤味がなくなった鼻を一層青白くしながら、その鼻先から脂汗を滴らせていた。
「まあ、よい。お陰でこっちはやり易かった。北方蛮族の戦士たち一万名も、ほぼ到着した。よって、そろそろ始めようかと思っておる」
バポロは、何を、と尋ねようとして止めた。機嫌を損ねるのが恐ろしかったのだ。
が、逆にカーンに問われた。
「何を始めるのか、聞かんのか?」
「あ、いえ、何をでございましょう?」
恐る恐る聞くと、怒声を浴びせられた。
「そんなこともわからんのか!」
「ああっ、お赦しを!」
自分が聞けと言ったくせに、とは言えなかった。
その代わり、心の中で、今に見ていろと報復を誓った。
「わからんなら教えてやろう。愈々バロードに攻め込むのだ。カルボンに、目にもの見せてくれるわ!」
「あ、しかし」
まだ兵力が足りないと言いかけて、バポロはまた口を噤んだ。
バロードは、シャルム渓谷の戦いの後、大幅に兵力増強を図り、今では全兵力凡そ二万八千という。
一方、蛮族と『暁の軍団』を併せても、精々その半分の一万四千であり、砦を空にするわけにはいかないから、出撃できるのは最大でも一万二千であろう。
それだけではない。
この砦の背後にはバロードと手を結んだ『荒野の兄弟』が二千五百名程おり、更に北方警備軍一万も続々と渡河しつつあるという。
ウルス王のバロード奪還軍が三万ぐらいは来るだろうという見込みは、即位そのものが流れた今、雲散霧消したというのが大方の見立てであった。
今バロードに攻め込んでも、下手をすれば孤立無援となりかねない。
それを、この蛮族の帝王を自称する男は、個人的な復讐に目が眩んで、無謀な賭けに打って出ようとしているのではないかと、バポロは思ったのである。
その時は戦いに行くフリをして逃げようと考えていると、「何を考えている?」とカーンに訊かれた。
「その、どのような、あの、戦略であろうか、と」
カーンは含み笑いで「最初に決めたとおりよ」と告げた。
「え、でも、ウルス王が」
カーンは少し不機嫌な声になった。
「ふん。臆病者のウルスがおらずとも、ガルマニア帝国軍は遠征して来るさ。ちゃんと三万ぐらいの軍勢でな。なあ、おふくろどの?」
カーンが誰に話し掛けているのかと、バポロが振り返ってみると、窓からヒラヒラと白いコウモリが入って来るところであった。
いや、よく見ると、白ではなく、灰色であった。
灰色のノスフェルは、カーンの前でクルリと宙返りすると、妖艶な美女となった。
いつもの白いノスフェルの時より、やや年増のようである。
髪は銀というより白髪に近く、体型もふっくらしている。
美女というより、美熟女、であろうか。
バポロを見て、ニンマリと笑った。
「ああ、そのとおりぞえ。率いるのは、あの軍師ブロシウス。総勢は三万じゃ。ちょうど今、慌ただしく出発の準備をしていたのう。ところで、おまえ、丸々と太って旨そうじゃな」
パクッと開いた口の中に、ビッシリ生えた鋭い歯が見えた。
すると、カーンが「これこれ、おふくろどの、そやつをあまり脅すな。また床が汚れる」と笑った。
本当に洩らしそうになっていたバポロは、グッと堪えた。
カーンがおふくろどのと呼ぶ美熟女はバポロに「冗談じゃ」と告げると、ホホホと笑った。
カーンは改めて美熟女に向かって、「実は、軍を束ねる者が足りぬ故、おやじどのの方に御出馬をお願いしたいのだが」と頼んだ。
美熟女は小さく溜め息を吐いて、「仕方ないのう」と言うと、立ったまま半眼となって俯き、ゆっくり呼吸した。
と、長かった髪が徐々に抜けて薄くなり、地肌が透けて見えるようになった。
それと伴に身体つきがごつくなって、筋骨隆々とした男の体に変わっていく。
パッと顔を上げて目を見開くと、薄い灰色だった瞳はコバルトブルーになっていた。
すっかり年配の男の姿に変わると、ニヤリと笑った。
「この姿となるのは、何年ぶりかのう、息子よ」
その時、バポロの「ああっ、もう、だめだ」という情けない声と同時に、水が流れるような音がした。