132 偽りの戴冠式(1)
「タロスさまは、泣いておられましたよ」
ツイムにそう告げられて、ウルスラは胸が痛んだ。
ウルスの体調がかなり急速に回復して来たため、もっと食べ応えのあるものを用意してあげようと、例のガルマニア人の女官は張り切って街に買出しに行っていた。
それでも用心して、ツイムはドアを背にして立ち、万が一急に扉を開けられてもウルスラが見えないようにしている。
「そうでしょうね。本当は、わたしも一目逢って説明したいけれど、却ってタロスを危険に晒すことになるから、手紙にしたのよ。ちゃんと理解してくれたかしら?」
「恐らく。但し、納得はされていないようでした」
「あなたは?」
ツイムは苦笑した。
「いえ、そもそも読んでおりませんし、内容がわからずとも、ウルスラさまを信じておりますので」
ウルスラは淋しげに微笑んだ。
「ありがとう。わたしだって、これが正しいという自信があるわけではないの。ただ、そうせずにはいられないのよ」
「わかっておりますよ」
「それで、タロスたちは帰ってくれそうかしら?」
「いえ。少なくとも、戴冠式が終わるまでは、滞在するつもりのようです」
ウルスラは、心配そうに眉を寄せた。
「身元がバレないといいんだけど。戴冠式には中原の主だった国や自由都市の代表が来るみたいだから」
ツイムはウルスラを安心させるように、強く頷いた。
「それは大丈夫でしょう。タロスさまは、巡礼用のマントのフードをずっと被っておいででしたから」
「それならいいけど。ああ、そうだわ。そういえば、結局、ゲール皇帝は来ないんですって?」
ツイムはちょっと怒った顔になった。
「そうなのです。全く失礼な話ですよ。そもそも、格式ばった儀式が嫌いなのは有名ですが、場合が場合ではありませんか。バロードを軽く見ているのは、明らかでしょう」
「でも、わたしは、ちょっとホッとしたわ。ゲオグストで会った時、表面に出ていたのはウルスだったけど、わたしも本当に怖かったもの。それで、戴冠の儀は、誰がするのかしら? まさか、ブロシウス?」
ウルスラは、ゲールのことを言う時には恐怖を見せたが、今度は嫌悪感を露にした。
ツイムは皮肉な笑みを浮かべて首を振った。
「いや、ゲール皇帝の代わりは、エピゴネスという老魔道師が務めるようです。かつては長老の職にありながら、エイサを追放されたという曰く付きの老人です。余程引き受け手がなかったのでしょう。ブロシウスにせよ、宰相のチャドスにしろ、少しでも皇帝の座に野心があると見做されれば生命はありませんからね。たとえ形式だけであっても、皇帝の代行などは断っているようです」
「そう。それで、バロードからは誰も来ないの?」
ツイムは少し困ったような顔をした。
「それは、まあ、そうでしょうね。実質はどうあれ、共和国ですからね。王家との縁は切ったつもりでしょう。外交を担当するクジュケ参与だけでも来られるかと思ったのですが、それもないようです。恐らく、カルボン総裁が止めたのでしょう」
ウルスラは落胆したように「そうよね」と呟き、すぐに無理に笑顔を作った。
「わたしも馬鹿ね。バロードから人が来るはずもないし、来てもお互いに困るだけなのに。でも、平和なうちにニノフ将軍という方にだけは、逢いたかったわ」
ツイムは、異母兄であるというニノフへのウルスラの想いよりも、『平和なうちに』という言葉に胸騒ぎを覚えた。
その後、ウルスの体調は順調に回復し、愈々バローニャ公としてエイサに入ることとなった。
バローニャにあるバロード王家の居館が全面的に改修されているのは無論のこと、その隣には、何倍も大きな迎賓館が建てられていた。
戴冠式はここで行われる予定である。
その正面玄関の前に、珍しく軍師のブロシウスと宰相のチャドスが並んで立っていた。
「立派な建物ができたではありませんか」
皮肉な口調で褒めるチャドスに、ブロシウスは態とらしく薄くなった頭を下げた。
「畏れ入ります。何しろ急拵えですから、風格には欠けるでしょうが、まずまずの出来かと存じます」
チャドスは、細く吊り上がった眼を、更に細めた。
「ところで、内部の図面を見たのですが、矢鱈と衛兵の詰所がありますねえ。まるで、将来は要塞化する前提で造られているようではありませんか」
チャドスの鎌かけに、ブロシウスは寧ろ自分から乗った。
「勿論です。今後、わが帝国が中原の西部や南部に進出するための、拠点の一つにしようと考えておりますので」
チャドスは、大袈裟に喜んで見せた。
「おお、それは重畳! さすが稀代の軍師、ブロシウスどの! 抜かりはありませんなあ!」
甲高い笑い声を響かせて去って行くチャドスを見送りながら、ブロシウスは口を歪めて、「今に見ておれ!」と吐き捨てた。