130 来訪(1)
同じ頃、ウルスラの許にも訪問者があった。
いや、ツイムが出掛けた後は人目を憚り、ウルスに戻っていたから、ウルスの許に、であろうか。
とにかく、まだ体が衰弱して寝台から起き上がれないため、朝餉はガルマニア人の女官が運んで来ていた。
女官と云っても、二の腕の太さがウルスの脚程もある赤毛の女丈夫で、要は、監視役である。
ウルスは何とか半身だけ起こし、ワゴンに乗せられた食事を見た。
黒パン、胡桃、山羊の乳、そして、野菜を裏漉ししたスープなどであるが、どうにも食欲が湧かなかった。
「せめてスープだけでも召し上がってくださいな」
身体つきに似合わぬ優しい声でそう言うと、女官はスープをスプーンで掬って、ウルスの口元に近づけた。
ウルスも覚悟して、その一口は呑もうと待ったが、一向にスプーンが動かない。
不審に思って女官の顔を見ると、愛想笑いのまま固まっている。
姿勢も、ウルスの口にスプーンを近づけようと中途半端に腕を伸ばした状態のままだ。
「どうしたの?」
ウルスは尋ねながらも、もっと異常なことに気づいた。
熱々の状態で持って来られたスープから立ち昇る湯気さえも、ピタリと止まっているのだ。
「ええっ、これは何? 何なの?」
静寂の中、自分の声だけが響く。
先程まで窓の外から聞こえていた小鳥の囀りも、往来の人々の気配も、全く聞こえない。
と、微かな、コツ、コツという音がこちらに近づいて来た。
誰かが杖を突いて歩いているようだ。
「この足音は……」
やがて、部屋の扉を通り抜けて現れたのは、枯れ枝のように痩せ細った老人であった。
高齢のため髪も眉も真っ白だが、瞳は黒いから南方の出身のようだ。
「あっ、あなたはあの時の本屋のご主人!」
その老人は、ウルスがスカンポ河を下っている時、途中の湊で立ち寄った本屋の店主であった。
ウルスは、そこでダフィネの面というものを着け、河に落ちたタロスが生きていることを知ったのであった。
「どうじゃね、ダフィネの面で見た連れには、逢えたかの?」
「あ、いえ、まだ、実際には。というか、何故それを知っているんですか。あの時、ぼくが何を見たかはわからないって。ああ、そんなことはどうでもいい。これは、どういうことですか?」
ウルスは、固まったままの女官を示した。
老人は首を振り、「そうではない。この女傑が止まっているわけではないぞ」と告げた。
「わしらが、時の狭間におるだけさ」
「時の、狭間?」
「そうじゃ。時間とは、究極は不連続なものなのじゃ。今は、謂わば、その隙間に潜り込んでおるのさ、わしも、おまえたちもな」
わからないことだらけであったが、ウルスは、老人の最後の言葉に引っ掛かった。
「おまえたち、と仰いましたね。ぼくたちのことをご存知なのですね」
これが、ガルマニアの、というより、ブロシウスの罠である可能性を捨て切れず、ウルスは慎重に言葉を選んだ。
「勿論じゃ。おまえたちは、アルゴドラスの末裔であろう」
「ああ、やはり、知っていたのですね、ぼくたちがウルスとウルスラだと」
だが、老人の答えは、ウルスの想定を遥かに超えていた。
「おまえたちのことは良く知らんが、アルゴドラスはよく知っておる。友だちじゃったからな」
ウルスは驚愕のあまり、体調も忘れて寝台から立ち上がりそうになった。
「ええっ、そんな馬鹿な! アルゴドラス聖王がお亡くなりになってから、もう二千年は経っていますよ!」
だが、老人は近所の噂話をするような穏やかな口調で肯定した。
「そうじゃな。如何に長命族とはいえ、わしも長く生き過ぎたわい。おまえには、わしの祖国の話はしたかな?」
「ダフィネですか?」
「いやいや、ダフィニアさ。あの時、そう言ったはずじゃよ。まあ、覚えておらんか。何千年も前、南の大海に大きな島があったんじゃ。島と云っても、今のバロード程の広さがあった。その島全体がダフィニアじゃ。様々な種族が一体となって暮らす連邦国家で、地上の楽園であったよ。それが、一晩で海に沈んでしまったのじゃ。生き残ったわしらは対岸に渡って、そこに移り住んだ。それが沿海諸国で最も古い小国ダフィネの始まりじゃ。まあ、色々あって、そこを出て中原に行った者も多い。わしやアルゴドラスのようにな」
「それでは、もしかして、アルゴドラス聖王もまだご存命なのでしょうか?」
「いやいや、あやつは違うさ。おまえたちと同じ両性族じゃからな」