113 彼は昔の彼ならず
ニノフの稽古場を出たベゼルは、付設されている野外の格闘場に向かった。
通常、こういう施設は中庭に作られることが多いが、兵士を募る意図もあって、表通りから見えるようになっている。
柔らかく均された土が敷き詰められており、そこで素手の格闘や木剣の練習試合などが行われるが、今は誰もいない。
ベゼルは、その横に設えられた木の腰掛けに、ドカリと腰を下ろし、俯いて地面を見つめた。
一纏めにされたうねうねと波打つ癖のある長い黒髪が、解れて風に靡く。
少し遅れて来たボローは、何も言わずに横に座った。
ベゼルは顔を上げずに、「一人にしてくれ」と言った。
ボローは、態と聞こえなかったふりをして、自分の髭を撫でながら話し始めた。
おれがニノフを初めて見たのは、まだお互いに傭兵に成り立てのガキの頃だった。
今でも優男だが、その頃のニノフはもっと細っこくて、とても傭兵なんぞやる柄じゃなかったよ。
だけど、あいつがその辺の雑魚と違うということは、すぐにわかった。頭が良くて、身の熟しもすばしっこくて、木剣の模擬試合では、おれ自身も含めて誰も敵わなかった。
そりゃあ、おれも最初は反発を感じたものさ。
しかし、次第に惹かれていった。
剣の腕も然ることながら、何よりもあいつの凄いところは、為すべきことをやり遂げる意志の強さだ。
おれは最良の朋友と出会えたと思った。その頃はな。
ベゼルは俯いたまま、「今は違うのか?」と訊いた。
一度言葉を途切らせていたボローは、フッと息を吐いてから続けた。
勿論、今でもニノフを大事な友人だと思ってる。
だが、先王の遺児だとわかり、将軍となった頃から、時々ついて行けないと思うことが多くなった。
恐らく、あいつは中原全体の未来を考えて行動している。
おれの水準を遥かに超えてしまったんだ。
今では朋友というより、気がつくと己の上官という気持ちで接している。
それは淋しいことだが、仕方のないことだとも思っているよ。
ベゼルもまた、顔を上げてフーッと長い息を吐いた。
そのまま、ボローの方は見ずに、喋り出した。
おれと似ているようでも、おまえはやっぱり兵隊さんだな。
おれたち闘士はもっと孤独だ。
常に一対一で闘うから、仲間同士の繋がりなんて、薄いもんさ。
それどころか、状況によっちゃ、仲間同士で闘うことだってある。
おれはずっと友なんていなかったし、欲しいと思ったこともなかった。
ティルスを最初見た時も、生意気なやつだから叩きのめしてやろうと思っていた。
ところが、逆に、ぐうの音も出ない程やられちまった。
そこで、技術を盗んでやろうと思って接近した。
あいつは惜しみなく何でも教えてくれたよ。
そうして共に練習を重ねるうち、あいつの人柄に惚れ込んだ。
おれは首領のルキッフには大恩があるし、尊敬もしているが、こんな気持ちを持ったことはねえ。
おれは、生まれて初めてダチができたんだと、喜んだ。
それなのに……。
その時、稽古場の扉が開いて、ニノフが、続いてタロスが出て来た。
タロスの手にはもう細剣はなかった。
ニノフはすぐに座っている二人に気づき、微笑んでこちらに歩いて来た。
タロスは少し呆然としたように、その後をついて来る。
ニノフは二人の前に立って、「待たせたな」と笑った。
「心配をさせたが、タロスどのはわかってくれた。もう大丈夫だ」
だが、ベゼルの顔は晴れなかった。
「わかってくれたといっても、もうティルスじゃねえんだろ?」
その質問には、ニノフに追いついたタロス自身が答えた。
「すまぬ。凡その事情はニノフどのから聞いた。河で溺れているわたしを救ってくれたのだな。礼を言う」
ベゼルは少し悲しそうに、「おれじゃねえよ。助けたのはルキッフだ」と答え、視線を逸らした。
タロスは戸惑いながらも、話を続けた。
「そうだとしても、身元もわからぬわたしに良くしてくれたのだろう。わたしが寝込んでいる間も、随分心配してくれたと聞いた。本当にありがとう」
チラリとタロスの方を見たベゼルは、そのまま空を見上げて言った。
「礼なんかいらねえよ。あんたは、もう、おれのダチのティルスじゃないんだろ。立派な王家の家臣なんだ。『荒野の兄弟』のことなんか忘れていいんだぜ」
タロスは深く息を吸い、ベゼルだけでなく、ニノフやボローにも聞かせるように、キッパリと言った。
「世話になったのに、本当に申し訳ないとは思う。だが、わたしは一刻も早くウルス王子の許に行かねばならん。この場から、沿海諸国に向かうつもりだ。許してくれ」
ベゼルはフンと鼻を鳴らし、「許してもいいが、条件があるな」と告げた。
タロスは少し驚いたようだが、笑顔を作って頷いた。
「おお、何なりと言ってくれ。わたしにできることならば、だが」
ベゼルはニヤリと笑い、「条件は、ここで模擬試合をやっておれに勝つことだ!」と言いざま、タロスに飛び掛かって行った。