111 忘却
「タロスどの、記憶が戻られたのか!」
勢い込んで話し掛けるニノフを、しかし、タロスは胡散臭そうに見ている。
「記憶が戻るとは、どういう意味だ? わたしを知っているようだが、おぬしはいったい何者なのだ? 髪と目の色は、わたしと同じバロード人のようだが」
ニノフはどう説明したものか、迷った。
いきなり真実を話しても、受け入れてくれないだろう。
それに、どこまで思い出したのか、逆に、ティルスであった時のことは覚えていないのか、全くわからないのだ。
「では、まず、自分のことを説明しよう。おれはニノフで、ここはおれの、まあ、家みたいなところだ。それに、この街は確かにバロードの王都バロンだよ。そして、あんたがタロスどのであることは、昔から知ってる。おれは事情があって、子供の時にバロードを出て傭兵稼業をしていたが、度々バロードに戻っていたから、ウルス王子さま付きの従者であるタロスという勇士のことは、当然知っていたさ。同じ武術を修行する者として、とても尊敬していたよ」
タロスは、ウルス王子の名前が出たところでビクッと体を震わせた。
「わたしのことなど、どうでもよい。王子はご無事か?」
ニノフは相手を安心させようと、笑顔を見せた。
「ご無事だ。今は沿海諸国のカリオテにいるはずだ」
実は、ウルス自身が、然るべき時が来るまで自分がガルマニア帝国に行くことを伏せるようスーラ大公に頼んだため、消息の情報がそこで止まっていたのである。
しかし、その効果は覿面で、タロスの険しかった表情は、フッと緩んだ。
「そうであったか。飛んで来た光によって河に落とされた瞬間、自分は死ぬのだと覚悟したが、王子のことだけが心残りであった。そうか、沿海諸国へ行かれたのか。すると、わたしは随分長いこと気を失っていたのだな」
「あ、いや」
どうやら、河に落ちた瞬間で記憶が途切れているようであった。
つまり、タロスはまだ、カルボン卿が謀叛を起こした直後の意識のままなのだ。
迂闊なことは言えないと、ニノフは用心した。
「まあ、おれの聞いた話では、タロスどのが河で見つかってから、凡そ三ヶ月ぐらいになるようだ。気を失っていた訳ではなく、普通に生活していたらしい」
タロスは愕然とした表情になった。
「わたしは、三ヶ月も記憶のないままに生きていたのか! 今、おぬしは聞いた話と言ったな。すると、わたしは、どこで何をしていたのだ?」
その時、入口の方から「ニノフいるか? おれだ、ボローだ。ベゼルさんが、ティルスどののお見舞いに来てくれたぞ」と声がした。
ニノフは覚悟を決めた。
「タロスどの。あんたが河で見つかってからどうしていたのか、よく知っている男が来た。本人から言ってもらった方がいいだろう」
ニノフは入口に向かって「今行く! そこにいてくれ!」と声を掛け、タロスに「あんたの記憶が戻ったことを簡単に説明する。少し、待っていてくれ」と言い置いて、入口の扉を開けて外に出た。
入口の前には、ごつい体格の男が二人並んで立っていた。
顔を覆う髭も、はだけた胸元からのぞく胸毛も、瞳も、全て黒いボロー。
身体中に傷跡があり、うねうねと波打つ癖のある長い黒髪を後ろで束ねて、瞳は焦げ茶色のベゼル。
この二人の前に立つと、金髪碧眼の優男であるニノフは、まるで可憐な少女のようであった。
「ティルスどの、というより、タロスどのが記憶を取り戻した」
ベゼルがパッと顔を輝かせた。
「おお、それは良かった。首領のルキッフも随分心配していたんだ。せっかくバロード共和国との同盟が成立したのに、肝心のティルスが何日も寝たきりじゃ、この先どうなるかと思っていたよ」
「そのことなんだが」
表情を曇らせるニノフを見て、副官のボローが「どうした、何かあったのか?」と訊いた。
「ああ。確かに自分が何者かという記憶は戻った。だが、その代わり、ティルスとして生きていた間の記憶が、全く無くなっている」
ベゼルが顔色を変え、「何だと、そんな馬鹿なことがあるか!」とニノフに詰め寄った。
見かねて、ボローがベゼルを抑えた。
「まあ、待て。とにかく、本人に会ってみればわかることだ」
ベゼルが落ち着いたと見て、ニノフが「但し、バロードの現状、特にカルボン総裁のことは、まだ言わない方がいい」と二人に注意した。
「わかってるさ!」
ベゼルはそう言って、待ち切れないように中に入った。
「ティルス、良かったな!」
だが、喜びに満ちたベゼルの表情は、すぐに凍りついた。
寝台から起き上がったタロスが、ニノフの細剣を抜いて構えていたのだ。
「騙されんぞ! おまえたち、カルボン卿の手下だな!」