100 探索行(3)
「うぷっ、なんなんだこの臭いは!」
翌日の夜明け前、北方探索用として用意された衣装を前にして、ロックは鼻を抓んだ。
それを聞いて、準備を担当したペテオが、顔色を変えて怒った。
「贅沢を言うな! 一番目立たないシトラ族の服を、一睡もせずに長城内を駆けずり回って人数分掻き集めた苦労が、おまえにわかるか!」
「だって、鼻が曲がりそうだよ!」
更に文句を言おうとするロックを、ゾイアが笑って止めた。
「臭いぐらい我慢しろ。シトラ族に限らず、蛮族の服には大蒜が擦り込んであるのだ。北方は瘴気が強いから、昼間でも腐死者が襲って来る。ところが、連中は何故か大蒜の臭いが苦手で、寄って来ないらしい。尤も、夜はンザビの活動が活発になるから、それだけでは防げない。一晩中火を絶やさず、交替で見張りに立たねばならん」
「うわあ、なんか大変そうだな」
ロックの態度に業を煮やし、一発殴ってやろうかと身構えるペテオを、こちらはマーサ姫が抑えた。
「ペテオ、出発前から仲間内で喧嘩など許さぬ。それから、ロックとやら、皆で着てしまえば、臭いなどすぐ慣れる。心配いたすな」
そう言いながらも、マーサ姫自身も溜め息を吐いて、一纏めにした髪に、大蒜の臭いが染みついた頭巾を被った。
そこへ、マリシ将軍と最後の打ち合わせに行っていたアーロンが、何故か二人一緒に戻って来た。
アーロンが一歩前に出て説明を始めた。
「出発前に将軍と話し合って決めたことを伝えるが、その後に、将軍御自身から直接お話しになりたいことがあるそうだ」
アーロンはマリシに頷いて見せると、話を続けた。
「それでは、わたしから決定事項を話す。まず、少人数とはいえ、命令系統が混乱せぬよう、指揮命令権はわたしが持つことにする。探索の間は、全てわたしの指示に従って行動するように。それから、今回の目的は飽く迄も情報の収集にある。蛮族との無用の争いは避けてくれ。シトラ族は、北方蛮族の中で唯一交易を生業としている。他部族と出会った際には、交易を意味する『キャンゴーエ!』と言えば、大抵そのまま通してくれるそうだ。それ以外は何も喋らぬ方がよい。ああ、それから、シトラ族のやり方に倣って、馬は荷物の運搬用に一頭のみ連れて行く。わたしからは、以上だ」
アーロンが下がり、入れ替わってマリシが前に立った。
「これは娘が一緒に行くから言うのではないが、決して無理をするな。ここ数年、蛮族の動きに異変が起きていることは、わしも薄々感じておった。そして、遂に先日、予兆である風花が降った。五百年に一度の穐が来たのだ。しかも、蛮族たちは古来になかった動きを見せている。これから何が起こるのか、わしにもわからん。よって、おまえたちの役目は重大だ。必ず有益な情報を持ち帰ってくれ。無事を祈る!」
ゾイアたち四人全員が「はっ!」と敬礼した。
その後、アーロンの指示を受けながら、慌ただしく出発の準備を整えた。
出発間際になって、ロックがペテオに「ところで、風花って何だい?」と訊いた。
ペテオは面倒くさそうに「天気のいい日に降る雪さ」と答えた。
「へえ、そんなことがあるのか。っていうか、考えてみたら、おいらまだ普通の雪ってのも見たことねえや」
「ほう。おまえ、南方の生まれだったな」
「ああ、カリオテっていう、ちっこい国さ」
「ふーん。おれの先祖も、元を辿れば南方らしい。尤も、もう何代も前の話だが」
「辺境の生まれかい?」
「ああ。クルム城の近くだ。家は百姓をやってたが、知ってのとおり辺境は土地が痩せてて、碌な作物は獲れん。口減らしのために、十五の年に北方警備軍に志願した」
「へえ。でも、北方警備軍って、割といいもの食ってるよね。そんな土地ばっかりじゃ、辺境伯って貧しいんじゃないの?」
ペテオは唇に指を当て、アーロンが聞いていないことを確かめると、苦笑しながら小声で教えた。
「おまえは知らんだろうが、北方警備軍には、今でも細々ながら中原の主だった国や自由都市から食糧などの援助が来るのだ。北方蛮族は辺境だけの問題ではないからな。それだけに、今回中原侵攻を許してしまったことの責任を、将軍は痛感されているのだ」
「そうだろうね」
いつのまにか親しげに話しているロックとペテオを嬉しそうに見ているゾイアの傍らに、身支度を整えたマーサ姫が立った。
「さあ、いよいよね」
「うむ。われもこの目で確かめたい。北方の秘密をな」
五人が揃って、突撃門の横の小さな木戸の前に立った。
人がやっと一人通れるぐらいの間口しかないため、荷物を積んだ馬は先に表に繋いである。
隠密行動のため、見送りなどは一切ない。
アーロンがその場で振り返って、抑えた声で「行くぞ」と声を掛け、四人も控えめに「おう」と応え、順々に木戸を潜った。