97 記憶
「タロスどの!」
ニノフはそう呼び掛けたが、『荒野の兄弟』の使者だという男は、何故か顔を顰めて額を押さえた。
「申し訳ございません。その名を聞くと、頭が割れるように痛むもので」
弱々しく説明する男に、ニノフは微妙な表情で「失礼した」と詫びた。
「おれは、バロード機動軍を率いるニノフです。あなたは?」
「わたしは『荒野の兄弟』の闘士、ティルスと申します。首領のルキッフの名代として参りました。予めお断りして置くべきだと思いますが、わたしはスカンポ河で溺れ、記憶を失くしてしまいました。この度、ルキッフがバロードへ使者を送ると聞き、もしかしたら記憶が戻るかも知れぬと自ら志願しました。ところが、この為体で、行き倒れかけているところをボローさまに助けていただいたのです」
ニノフがボローを見ると、黙って頷いている。
「そうですか。お辛い中、折角お出でいただいたが、おれは一介の将軍に過ぎません。使者の用向きならば、カル」
ニノフがそこまで言ったところで、ボローが「その名を言うな!」と止めた。
「さっきも、それでティルスさんが動けなくなった。漸く歩けるようになったんで、ここに連れて来たんだ」
「そう、か。うん、それは、そうだろうな」
ニノフも同情するように頷き、「だが、使者のお役目は、どうなさる?」とティルスに尋ねた。
「はい。万が一を考えて、別経路で同僚のベゼルがこちらに向かっております。追っ付け参るでしょう。情け無い話ですが、使者はベゼルに任せるより他ありません」
「そうですか。しかし、バロードに縁があると思い出されただけでも、良かったですね」
慰めるように言うニノフに、ティルスは自嘲気味に笑って、首を振った。
「ああ、いや、それも自分で思い出した訳ではないのです」
「ほう。誰かバロード出身の者に逢われたのですか?」
「いえ。わたしにバロードへ行くように勧めたのは、蛮族の帝王を名乗る人物です」
「なんだと!」
思わずそう叫んでしまったが、すぐにニノフは詫びた。
「あ、いや、失礼しました。その話、詳しくお聞きしたい。宜しければ、座って薬草茶でも飲んで行かれませぬか?」
「おお、それは有難い」
ボローは、後から来るという使者を探してみると出て行った。
ニノフは、頭痛に効用のある薬草を煎じて茶にしたものを、ティルスに飲ませた。
「ふーっ、生き返るようです」
漸く人心地がついた様子のティルスは、砦にやって来た蛮族の帝王の様子と、話した内容のあらましをニノフに伝えた。
聞き終わったニノフは暫く黙って考えていた。
やがて、ポツリと「やはり、そうか」と呟いた。
ティルスは、不安げに「やはりとは?」と訊いた。
「ああ、すみません。これをあなたに伝えると、また頭が痛くなるかもしれませんが、その蛮族の帝王とは、恐らく、おれの父でしょう」
「お父上?」
「はい。新バロード王国の王、カルスです」
その名を聞いた途端、ティルスはガタガタと震え出し、椅子から落ちて気絶してしまった。
その蛮族の帝王がいるはずの『暁の軍団』の砦では、大規模な改築が行われていた。
元々、滅びた小国の古城であったものを、大した手入れもせずに使っていたのだが、壊れた石垣や埋まってしまった濠などが次々に整備された。
楼台の上には新たに建て増しされた物見櫓があった。
その天辺に、沢山の灯火を焚いて、周囲を照らすような構造になっていた。
陸の灯台である。
そして夜の訪れと共に、その明かりに集まる蛾のように物見櫓の周辺に飛んで来た白いノスフェルが、ヒラヒラと団長のバポロの部屋に入った。
中では、バポロがご機嫌な様子で葡萄酒を飲んでいた。
また、鼻が赤くなっている。
窓から入って来た白いノスフェルに気づくと、「おい、約束を忘れたか!」と叫んだ。
ノスフェルはその場でクルリと宙返りして、白い服を身に纏った妖艶な美女に変身した。
見事なプラチナブロンドの長い髪に、神秘的な灰色の瞳をしている。
「この姿で、よろしいかしら?」
態と女らしい言葉で喋ってみせているようだ。
「ああ、無論だ。ほれ、突っ立ってないで、酌ぐらいしろ!」
だが、美女は笑って首を振った。
「そんな悠長なことをしている場合じゃないわ。愈々『荒野の兄弟』の方からバロード共和国に接近を図り始めたのよ。こちらも早急に手を打たないと」
「そ、そうか。余は、どうすればいい?」
バポロには、自分で対策を考えるつもりはないらしい。
「これからカーンさまに今の情報を伝えに行くわ。追って、何らかの指示があるでしょう」
嫣然と微笑むと、美女は再び白いノスフェルに変身して、窓から飛び去った。