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グルメ再建請負人 馬井三瀬也  作者: ンジャバダ・ンジャバダ
1/2

 男は鋭い眼光で見据える。

 太い眉をピクリとも動かさず、口を真一文字に結び、睨みをきかせる。


 視線の先には、古い中華料理店。開店当時は燃えるような深紅だったはずの暖簾は、風化か長年の油汚れによるものだろうか、あちこちが黒ずんで汚くベトついていた。

 出入口のガラス張りの引き戸も汚れが目立つ。埃や汚れで店内の様子は窺えない。何年も掃除がなされていないであろうその店の前を見て、「入ってみたい」と思う客はいない。


 男は店の前で腕組みをしたまま、約三分間じっとして動かなかった。ピュウ、と一度風が吹くと暖簾は揺れ、ビニール袋はどこかに飛んでいった。だが、男の短い角刈りは風になびかなかった。強い天然パーマであるために、その角刈りは見る者にタワシを想起させるのだった。


 男の名は馬井三瀬也といった。飲食店のプロデュース・経営の立て直し・コンサルティングを専門とし、これまでにいくつもの破綻寸前の店を窮地から救ってきたとされている。

 いつしか、業界内でついた異名は「グルメ再建請負人」。どんな状況でも黒字転換、立ち上げに参画すれば大ブーム。飲食店経営のカリスマといわれている。


 今回、馬井のクライアントとなったのは、この古い中華料理店。

 馬井はじっくりと店の外見を観察したのち、軋んで不快な音を立てる入口の引き戸に手をかけたのだった。




「いらっしゃいませ!」

 客の来店を告げる、古い引き戸がガラガラ音を立てると店主の麓真実は明るく出迎える。

 カウンター席で談笑していた常連客達も、出入口へ目を向ける。


 馬井は店内を一瞥するなり喝破した。

「この店はダメだ!!」

 野太い怒声が響いた店内は静まり返った。入口に立ったまま入ろうとしない、やたら黒光りする革ジャンを着た角刈り男の出現に驚きを隠せない様子だ。

「一名……さまですか?」

 真実はおそるおそる声をかける。が、馬井は意に介さない。

「まず、店先が汚い。中華料理を扱う店ははただでさえ油のために汚れやすい。店先が汚いと、店内はもっと汚いのでは、と客は想像してしまう。だからこそ、開店前には料理の仕込み以上に店の前や店内の掃除が必要なのだ」


 店内に入る様子も見せず、腕組みをしたまま馬井はもっともらしいことを語り始めた。

「入ってみると予想通り、店内も汚い。赤いカウンターもテーブル席も見るからにシミや汚れが目立ち、とても座って食事をする気にはなれない。こんなところで食事ができるのは、まさに衛生観念のカケラも持たない不衛生な年寄りだけだ」

「なんだぁテメェは!?」

 常連客の一人が馬井に怒鳴る。七十代くらいの老人は眉を寄せている。

 一緒にいた二人の老人も黙って馬井を睨むと、馬井は視線をそらさずに睨み返す。

「そして何より問題なのは、この常連たちだ!!」

 馬井は視線をそらさずに断言した。

「近所の常連たちが朝も夕もなく居つき、身内だけで井戸端会議に花を咲かせる。自分たちは楽しくても、ふらっと訪れた見知らぬ一見客はどう思うだろうか? 自分もその輪に入りたい、そう思う人間がいるだろうか? 常連の年寄りだけで集まってカウンターでバカ騒ぎをしている、そんな店に新規顧客は訪れない。ただでさえ客単価が低い業態だ、回転率の悪い老人たちがドッカリ腰を据えて居座っているとそれだけで店にとっては大迷惑、大問題だ」


「あなたなんなんですか?」

 店主の真実も眉をひそめる。

「私の店の悪口はかまいません、ですが大事なお客さんの悪口は許せません! だいたい誰なんですか、お客さんでもないようですし――」

「そのとおりだ、私は客ではない」

 馬井は真実の言葉を遮った。

「私は『グルメ再建請負人』馬井三瀬也だ。今回、依頼を受けてこの店の再建にやってきたのだ。私の手にかかれば、こんな油ギトギトなドブネズミの巣みたいな店でも大繁盛間違いなしだ。……お前が店主の麓真実だな、さぁ望みどおりに再建を――」


「はぁ? 待ってください、私は再建なんてお願いしてませんよ?」

「えっ!?」

 真実が訝しむと馬井は目を剥いた。

「再建なんて頼んでません、あなたの勘違いです。だいたい、あなたのことなんて知りませんし、馴染みのお客さんを悪く言う人なんてお客さんでもなんでもありません、帰ってください」


 真実がキッパリ言うと、途端に馬井の声が上ずり始め、

「いや……、え!? ちょっ、ちょっまっ、待って、待って!? たの、頼んでない? マジで!?」

 しどろもどろとなり、キョロキョロと真実と常連たちを見比べる。

「け、けど本当に手紙貰ったんだけどなぁ……あれ、住所間違ってないよな、うん、ここだよな、『中華ふもと』」

 ガサガサと懐から紙きれを取り出した馬井は、覗きこみながら一人頷く。真実は表情を変えず、

「そんな手紙も知りません。お帰りください、今すぐに」

「えぇ~? そんなぁ、わざわざ東京から来たのにぃ?」


 スッカリ当初の勢いを失った馬井は泣きつくような顔と声だったが、真実は全く動じなかった。

「あなたが大迷惑です、早くお帰りください」

 言われた馬井が背を向けようとした時だった。


「待っとくれ、真実ちゃん」

 カウンターに陣取っていた、一人の老人が立ち上がった。

「その手紙を出したのはワシだよ」

「山中さん……!?」

「シゲさん、どういうことだい?」

 真実と常連仲間は呆気にとられた。


「真実ちゃん、意地を張らなくていいんだよ。ワシにはわかっとる」

 山中と呼ばれた老人は厨房の女店主に語りかける。

「親父さんの店を潰すまいとたった独りでよく頑張ってくれた。その気持ちはワシにもよくわかる。だから協力させてほしいんだ、ワシもこの店が好きだから」

「山中さん、お気持ちはありがたいですが……だからってなんで」

「いつも気丈に振る舞ってくれてはいるが……隠さなくていい、もう限界なんだろう?」

 山中の、柔らかく包むこむような問いかけに、真実は思わず目を背けた。


「え、なに? どういうこと?」

 無神経な馬井の問いかけに、常連客は冷たい視線をそちらに向けた。


 山中は無視して、

「親父さんが一人でやってきた店を一緒に手伝い始めたのは三年前だったかな。ワシらも嬉しかったよ、二十年も通ってきた店でまさか親子が一緒に厨房に立つなんて。だけどすぐに親父さんが倒れちまって……同時に客入りもずいぶん減っちまったね。ワシが一番わかってるつもりだ。真実ちゃんの焦りや落ち込みは増していくばかり、経営はどんどん悪化していく。そして何より――」


 一旦言葉を切り、改めて、

「何より、味が落ちた。常連も一人、また一人と減っていき、今じゃもうワシら三人くらいだ。だからワシは馬井さんに立て直しの依頼をしたんだ。この店をまた、親父さんが健在だったころのように、賑やかな店に戻してほしい、と」

「山中さん……」

 真実は言葉に詰まり、目を赤くした。

「シゲさん、そんなことを考えてたんか……」

「真実ちゃん、シゲさん、ワシも協力するぞ」

「みなさん、ありがとう……」

 店内は和やかなムードに包まれた。


 だがそれを打ち破ったのは、ゴホン、という馬井の咳払いだった。

「えー、それじゃ、私に仕事を依頼する、ということでよろしいようだね。料金は……通常のコンサルティングで、このクラスの店だとFランクだから1.8倍として……」

 馬井は懐から電卓を取り出し、ブツブツ呟きながらはじくと、

「手数料とチャージ代と燃料サーチャージを含めて――しめて四百八十五万円だ」


「四百万!?」

 真実は目を剥いて、

「そんなお金ありませんよ!! 無理、無理です、結構です!!」

「四百万じゃないよ、四百八十五万だ。まぁ、今回は初回サービスとして端数はオマケしてあげてもいい。四百八十万だ」

「五百万近いお金……あるわけないです!」

「私は一流なんだ、一流の仕事にはそれだけの価値があるのは当然だろう? 再建に成功して店が繁盛すれば、五百万程度のコストなんてすぐに回収できる。ここは幸いにも駅から徒歩三分もしない好立地だ、客入りは簡単に増やせる」


 馬井は調子を取り戻して胸を張ったが、真実は肩をすくめた。

「そんなお金用意できませんし……銀行も貸してくれませんし……」

「じゃあやっぱ無理だな、これ以上は一円もまからん。こっちは一流なんだからな。わざわざ東京から来てやったってのに、だいたいコンサル料も引っ張ってこれない貧乏人が依頼してくんじゃないよ全く――」


 悪態をつきながら馬井が立ち去ろうとした瞬間、


「待ってくれ」


 立ち上がったのはまたも山中だった。

「ワシの退職金を使ってくれ」

「山中さん!? どうして!!」

「簡単さ。この店が無くなるのは見たくない、ただそれだけだよ。嫁も娘もいないワシにとって、親父さんや真実ちゃんが家族のようなもんだからな。金を余して死んだって意味がない。お願いだ、使わせてくれ」

こうして再建は始まった。


* * *


「これを見たまえ」

 おもむろに、馬井が取り出した一冊のムック本。

 ゴテゴテと過剰な飾り文字のタイトルは、『△△究極ラーメンガイド』と読めた。


 馬井はパラパラとページを繰り、目当ての記事を広げてみせた。

「この店の問題点はすべてこの1ページに集約されている」


<中華ふもと 総合評価 Z>


 常連の一人が眉をひそめた。

「なんだぁ? こりゃあ」

「この本では△△県内のラーメン店、全254店をS~Fの8段階で評価している」

「あれ、うちの店はZですよ? どういう意味でしょうか」

「『行く価値なし』だ」

「なんだと! 真実ちゃんの店を貶しやがって!! 

「誰だこんなデタラメ書きやがったのは!!」


「黙れ!」

 憤慨する常連を馬井は一喝した。

「目次の解説を見せてやろう……ここにある通り、この本は独自に行ったネット調査や県内各地の飲食店・駅や市役所などの公共施設・商業施設に設置されたアンケート用紙の結果を集計して編集されている。もちろん、編集部の恣意はあるだろうが、客の素直な感想がこの本には反映されているといっていい。

 つまり、この店を訪れた客はみな、口には出さずとも『行く価値なし』という冷酷極まる判断を下しているのだ。今の中華ふもとにとって、これに勝る教科書は無い。先程のページには詳細に問題点が列挙されているぞ、よく読むといい」

 沈痛な面持ちで真実は捲っていく。




<総評:創業25年の老舗も、今は見る影なく終焉の刻を静かに待つのみ。昔ながらの中華料理店らしくラーメン・チャーハン・餃子と一通りメニューは揃っており、懐かしの味といえば聞こえはいいが、ハッキリ言ってただ古臭くだけで何も進歩がない。

 冷凍食品やインスタント食品が溢れており、飲食チェーン店が幅を利かせる現代においては、わざわざ訪れてわざわざ金を払ってまで食べるようなレベルではない。黒ずんだ油汚れが落ちきっていない暖簾に象徴されるように、衛生やサービスの面も最低。さっさと保健所に飲食店営業許可を剥奪されてほしいくらいだ。この本が出版される頃にはすでに潰れていてもおかしくはない、△△県下最悪の迷店。そういう意味では逆に激レア。肝試しのつもりで行くなら◎>


<みんなの声:

 「マズイ!!!」(50代女性)

 「行ったことはないです。店の前を通っただけなんだけど、汚いし入りたくない。中の様子が見えなくて人がいるのかいないのかもわからず、怖い」(30代女性)

 「いつもお爺さんがたむろしていて近づきにくい」(30代男性)

 「中華料理店なのに牛丼とかパスタもあって明らかに迷走してる。でもカレーはおいしかった」(20代女性)

 「ウソ!? まだやってるの? 廃墟じゃないの???」(40代男性)

 「こんな店に行くのは金をドブに捨てるようなもの。むしろ、時間と食材をムダにしないだけ、実際に金をドブに捨てた方が遥かにマシ」(40代女性)

 「うちのヨシコはここのチャーハンが大好きだから、週に一回はテイクアウトしてるよ。いっつも喜んで食べてくれる。でも塩分が多いから猫のエサとしては良くないんだよね……えっ、あの店、ペット用の料理屋じゃないの!? ダメだよ、あんなの人間が食うもんじゃないよ! ……ちなみにヨシコはアメリカンショートヘアで3歳なんだけど(以下略)」(50代男性)>

 


「……」

 一通り目を通した真実は俯いたまま本を閉じた。そして小刻みに震え始めた。

「……こりゃひでぇなぁ」

 真実の手から本を取り、目を通した常連の一人も怒る気力を失っていた。


「けど、これが本当のことなんですよね……本当だからこそ、吉田さんも何も言えないんですよね……?」

「い、いやぁ真実ちゃん、そんなことは……」


「そのとおりだ」

 たじろぐ常連客を制して馬井が口を挟んだ。

「見たくない現実と向き合い改善する。これが再建へ最も近く、また唯一無二の道だ。――訊こう、店主よ。これを読んで感じ取った、この店の問題点は何だ?」


「えーと……まずやはり、店の外見でしょうか?」

 真実はおそるおそる、言葉を選びながら答えたが、

「違う」

 即座に否定された。

「え……では味でしょうか、ラーメンのスープとか――」

「違う」

「じゃあ……メニューを増やすとか――」

「違う。全部だ」

「ぜ、全部!?」


「そうだ、この店の何もかも、全部だ。メニューだ外見だとそんな小手先の問題ではない。建物をぶっ壊して地盤から作り直さないといけないようなものだ」

 沈黙が流れる。馬井の言葉に、言い返す者は無かった。

「だが、何もかも根本から作り変えていく余裕は無い。店主には金が、私には時間が。たった数百万ぽっちで請け負える仕事でないし、こんな店に長期間構っていられるほど暇ではないからな。そこで、だ」

 馬井は懐からメモ帳を取り出し、ペンを走らせ始める。

「私が請け負うのは、メニューの改定のみ。ラーメン一種類だけに絞り、店主に伝授さし上げる」


「ラーメンだけぇ!?」

 声を上げたのは出資者である山中だった。

「退職金全部つぎ込んだんだぞ! もっとやれることはあるだろう!? たかがラーメン一杯、作り方だけで五百万も――」

「黙れ!」

 またも馬井の一喝。

「今お前は『たかがラーメン一杯』と言ったな、素人めが。飲食店はその一杯、その一皿のために身を賭し、心血を注いているのだ。だからこそ客が客を呼び、名店へと成長していくことができる。それがわからぬ者に口を挟む資格はない!」

「……馬井さんの言うとおりだと思います」

 真実が静かに言った。

「私は右も左もわからないうちに、父の店を継ぎました。未だにこの店をどうしていいかもわかりません。馬井さんに教われば、それがわかるかもしれない」

「……真実ちゃんがそう言うなら、ワシはなんも言わんよ」

 真実の決意の前に山中が引き下がる。

「よし。それでは早速ミーティングを始めよう。……お前ら部外者はとっとと出て行け」

「なんだとぉ!?」

 言われた老人たちは反射的に腹を立てる。

「この店の核となる、コンセプトやメニュー、経営方針についてのミーティングだ。やすやすと部外者に聞かせられるわけがないだろう?」

「馬井さん、そんな言い方しなくても……みなさん、お願いします。そういうわけだそうですから」

「……真実ちゃんがそう言うなら帰るしかないか」

 矛を収めた常連たちは揃って立ち上がると、揃って小銭を机の上に置いて出て行った。


* * *


 暖簾をしまい、『臨時休業』の張り紙が入口に掲げられていた中華ふもとだったが、そんなことをしなくても訪れる客は滅多にいない。

 

店内では真実と馬井が並んで腰かけていた。油でベタつくカウンターにペタペタと指で触れながら、独り言のように馬井は語り続ける。


「――慣れてしまっているために、意外と自分では気づかないものだが客にとっては不愉快極まりない。中華料理店・ラーメン店の床や机のベタつきは百害あって一利なし。本当は定期的にクリーニングを入れるべきだ。だが、開店から何十年もたつ個人経営の料理店ほどそういった習慣はない」

 

 その横で真実は、一言一句漏らしてはなるまいと必死にメモを取り続けていた。

「入店してから何度も、私は掃除について言及しているだろう。基本中の基本だが、疎かにしがちな点だからだ。くだらないと思うだろうが、これを軽視する人間はこの世界で大成することはない。――大手チェーン店などでは、本部が提携業者を用意し、格安で店舗のクリーニングを行うことは珍しくないが、個人経営ではそうもいかないのが現状だ。今回は、私が信頼する業者に店内フロアと入口のクリーニングを依頼しておく。費用は私が受け取る報酬から差し引いておこう。一人でもできるメンテナンス方法を教えるように、とも業者には言っておくからしっかり勉強したまえ」

「ありがとうございます!」


 真実は夢中でペンを走らせながら言った。

「一つ訊く。なぜこの店をやっている?」

「えっ……?」

 真実の手が止まった。


「そ、それは……父が亡くなって、それで――」

「それで仕方なく、か。ならば、今までの話は無かったことにさせてもらう。再建など止めだ。早く潰れてしまえ」

「えっ、ちょっ、馬井さん、どういうことですか!?」

 突然立ち上がって吐き捨てた馬井に真実はたじろいだ。


「父が亡くなったから仕方なく。ラーメン屋をやっていたから仕方なく。潰れそうだけど仕方なく。お前はそんな程度の考えでこの店をやっていたのか?」

「ちっ、違います……」

「私にはそう聞こえたが。何か勘違いしているようだから言っておく。この店の、今の現状を招いたのは店主、お前自身だ」

 馬井は真実に指を突きつける。


「そんな……」

「亡父から嫌々店を継がされ、辛く苦しい情況の中でも健気に頑張る可哀想な自分。今のお前はシンデレラごっこで自分に酔っている幼稚な小娘にしか見えない」

「なんで……? 酷い――」

「その証拠に何の工夫も努力もこの店には感じられなかった。人気のない空き家が廃墟に移りつつある、その最中に私は立ち会っているような気がしている。もっと言うとだな、店主、お前からは自分の意志が全く感じられない」

「私の意志、ですか?」

「ここをこうしよう、ああしよう、良くしよう、という改善の努力の痕だ。そういったものが全く見えない」」

「でも私、やってますよ!? いろいろ新メニューも考えたし。――ほら、さっきの雑誌にだって、見てくださいよこれ! 『カレーはおいしかった』って」

 真実は本を開きながら弁解しようとしたが、馬井はハァ、と呆れたように息を吐いただけだった。

「そんなものはただのママゴトだ。一時の気紛れだ。遊びだ。奇をてらっているだけで、客の心を引き付け続けられるものではない。本当にお前がしたいことはなんだ?」


「えっ……それは……」

 真実は黙ったまま考え込んでしまった。

 馬井も黙ったまま待ち続けていた。


 だが3分ほど経つと、

「遅い」

 馬井が口を開く。

「時間ほど貴重なものはない。一分一秒のロスが命取りになるのだ。もし麺を茹でていたなら、茹ですぎで台無しになっていた。もし金を借りていたなら、払う必要のない利息が一円ずつ増えていた。行動が遅いことが愚かなのではない。決断が遅いことこそが、最も愚かなのだ」

「すみません……」

「口だけの謝罪なら誰でもできる。それは、私が最も嫌いなことの一つだ。今お前は、簡単にその言葉を口にして、自分が落ち着こうとした。何の解決にもならない偽善だ。そもそも謝罪など必要がない。お前がすべきことは謝ることではない。この店を立て直すことではないのか? 本当にやる気があるのか? 口だけの謝罪でこの場をやり過ごそうとしているだけではないのか?」


「あっ、う……」

 真実は俯いたまま、虚ろな目で口をパクパクさせるほかなかった。

「言ってみろ。お前は何がしたいんだ?」

「えっ、えっと……」

「言葉に詰まるようなことじゃないだろ」

 馬井はため息をつくと、

「なぜそんな程度のことも言えない? なんの信念も意志もなくお前は厨房に立ち続けていたのか? 何も思わず、何も考えずに人様に料理を出していたのか? 客に失礼だと思わないのか? 一見客だけではない、あの常連のジジイ共にもだ。何も考えず周囲に流され、自分から行動を起こそうとはせず、そのくせ一人前に現状を憂う。お前のような人間に飲食店を営む資格はない」


 一方的に言われ続けていた真実は、黙ったまま目を真っ赤にし始めると次第に目元に光るものが浮かんできた。

「うっ……ち、ちが……」

「なにか違っていたか? 私が間違ったことを言ったか? なら言ってみろ。反論してみろ」

「う、ううっ……」

「泣くだけで何か変わるのか? 私が救いの手を差し伸べ、すべて解決に向かうと思っているのか? 甘えるな。毎日毎日、ジジイ共にチヤホヤされてすっかり思い上がっていたようだな。再建はあきらめてさっさと畳むか? あの退職金は建物の取り壊し費用にするか? もっとも私ならそうするがな、損失を最小限にできる」

「わっ、あっ、わた――わたしは……」

 泣き続ける真実は過呼吸になりかけながら、ゆっくり一音ずつ発し始め、

「おっ、おとうさんの、……あじ……っ、味を……」


 馬井は口を閉じ、真実を見つめて頷く。

「また、……作りたい……。お父さんの、ラーメン……」

「――そうか」

 馬井は承知した、と言わんばかりに改めて深く頷いた。


「店主、お前が作りたいという父の味はどんなものだろう?」

 その問いかけは、冷酷に突き放す先程までの口調は対照的に、柔らかな響きを持っていた。

「おいしかった、優しい味だった、あったかかった」

「もう少し具体的な情報が欲しいな。――それでは、質問を変えよう。何か思い出はあるか?」

「思い出……あります」


 真実は目をこすると、一瞬迷った様子だったが、黙り込むことはせずに語り始めた。

「小さい頃、お父さんが寸胴鍋を一生懸命かき混ぜていた。それが、一番古いお父さんの思い出。その時はもう、お母さんはもう亡くなってたけど」

「母親の記憶はないのか?」

「……はい。ちょうどその頃ですね、お父さんになんて言われたかは忘れたけど、お母さんがもう帰ってこないってことだけがなんとなくその時わかってて。厨房で懸命に鍋に向かっているお父さんがしっかり記憶に残って。お母さんが亡くなって、独りで私を育てるために必死にラーメンを作ってくれてたんだと思います」

「そうやって毎日鍋に向かっている姿を見ていたなら、なんとなくでもスープの味や作り方はわかっているんじゃないのか?」

「いえ、違うんです」


 真実は少し眉をひそめると、

「実は父が亡くなる何年も前から、スープを仕込んでいる様子を見ていなくて……。見ていない、というか見せてくれなかったんです。私がいない時を見計らって、こっそりと仕込んでいたようでしたし」

「父君は店主を厨房に入れなかった、ということか?」

「入れなかった、というかはぐらかされた、というか。私が厨房を手伝おうとした時も決まって、『そうだ、ネギが足りないから買ってきてくれ』とか言いだして私を追い出そうとしたり」

「成長するにつれて、子供に後ろめたさを感じる親は少なくない。特に、ラーメンの命はスープだからな。その中身を見て『こんなものか』と思われるのを恐れていたのではないかな」

「かもしれません。茶目っ気があって恥ずかしがり屋でしたから」

「父君と一緒に店をやっていた時期もあったのだろう?」

「はい、ほんの二年くらいでしたけど。お父さんは私に店を継がせたくなかったみたいでしたし、私も東京で別の仕事をしていましたから。だけどお父さんが体調を崩してしまったので、戻って一緒に店をやることになって……」


そうか、と馬井は満足気に頷いた。

「――一度、別の仕事をやったからこそ、本当にやるべきことが見つかった、と言えるのかもしれないな。東京から戻って3年、父君が亡くなってから約1年、だったな」

「ええ、そうです」

「……まずは父君のスープを再現してみよう、そこに手を加えていくことで店主自身の味として、愛される味になっていくのだ。この厨房には、父君の痕跡が数多く残っているはずだ。早速、一緒に探してみよう」

「はい!」

 二人は立ち上がり、厨房へと入っていった。

 真実の目にもう涙はなかった。

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