ハナタオルモノ
このストーリーは以前投稿した
「WHITE ROOM」の外伝となります。
http://syosetu.com/pc/main.php?m=w1-4&ncode=N0383C
ストーリーの構成上、本編だけでも問題ないよう書きましたが、
詳細については「WHITE ROOM」をお読みいただければと思います。
早いもので、気が付けばそこいらじゅうはクリスマスの賑わいを見せていた。
無機質なイメージしか持ち合わせていないこの『デジタル・シティ』も、この時ばかりは華々しく着飾ったような装いを見せ、あたり一面、どこを見渡してみても緑や赤、金にきらめく電飾で彩られている。
――ということに気が付いたのは、つい今しがたの事だ。
道理で寒い訳だ。
心の中で毒付きながら煙草を咥え、火を点ける。
街は、騒々しいまでに明るく賑わっている。それが無性に腹立だしくなって、足早に塒へ向かう。この馬鹿騒ぎの一員からさっさと外れたかった。
*
もう、一年が経つ。
塒に戻り、再び煙草に火を点けて紫煙を深く吸い込んでから、改めてそう思った。
もう、一年も経つ。
曖昧な記憶を遡り、糸を手繰り寄せながら、今までに起こった様々な出来事を少しずつ思い出してみた。
脳裏に浮かぶ、質の悪いビデオ画像の巻き戻し。
途切れ、または酷く曖昧にぼんやりと……目の粗いフィルター越しに見るような場面。それらを少しずつ、鮮明な画像にしていきながら同時に、正確な位置に置き換えていく作業を繰り返すこと暫く。
そうしたコトをする自体、すでに自分が「そういう状態」で日々を過ごしていたのかが明白だった。認識し、そんな自分に多少の呆れを感じつつ、「そういったコト」が自分の身にも起こり得たのだと思うと、そんな自分にわずかに驚きを覚えた。
思っていたより人間臭い自分。
今まで知らずにいた、自分の中の一面。
もう少し、自分は冷静で、人間味の薄い人間だったと思っていたが、実はそうではなかったのだと思うと、「そういった状態」になった元凶は、少なくとも俺の人間臭い部分を引き出すことが可能なほどの出来事を俺の身にも振りまくことができたわけだ。
今まで俺の身に起きていた、この事態を何と説明する?
キョウガク。ショウスイ。キョダツカン。
そんな文字を思い浮かべる。……違う。頭の片隅で訴える声。
ショウゲキ。ドウヨウ。コンワク……。
残る違和感。なら。
シツイ。シツボウ。ソウシツカン。
少しずつ近付いて……。
喪失。何かが引っ掛かる。何を失った。
そして、突然浮かんだコトバ。
――達成感。
何に対して――自らに問い掛けて、すべてを鮮明に思い出した。慌てて壁を見る。
そして強い舌打ち。
この部屋には、時を知るものはなにひとつない。
外へ駆け出す。
奴との「約束」を、俺は守らなければならない。
* *
『今度ここへ来たら……向日葵でも海に向かって投げてくれ』
街へ赴き「今日」がいつかを新聞で知る。
12月24日。日付を見て、安堵した。
間に合った。そう、呟く。
安堵して、それから急いで花屋を探す。「約束」を守るために必要なものを手に入れるために。
あたりはどこも賑やかで、人が多くてうんざりするほどだ。がちゃがちゃと、がなりたてるようなクリスマス・ソングと、店の呼び込みのアナウンス。そして人の声。
昼の街は、こんなにも賑やかだ。
「時刻」というものではなく、内包的なものがまだ「昼」である街は、こんなにも賑やかしい。活気に溢れている。
「昼」の人間の支配する時間帯はまだ、あともう少しある。完全に日が落ち、濃い闇が漂い始め、極彩色のライトがちらつくまでは「夜」の人間に居場所はない。
だから裏の人間は、表の世界へ出てこられない。この場所に合わないと、知っているからこそナリを潜め、自分たちに似合いの世界が訪れるのを待つのだ。
自分とは相容れないものが、昼の街には多すぎる。
そう思いながらあたりを見渡せば、だれもかれもが幸福そうな顔して、多くの荷物を抱え擦れ違っていく。
俺には、関係ない。そう心で呟いて、辺りをゆっくり見回した。様々な電飾に彩られた数多の店と、そこに出入りする大勢。その間にぽつんと建っている、一軒の……。
そこにある、ありったけの「それ」を買い込んだ。真冬にも拘らず、それは置いてある。考えてみれば表のこの街は、「なんでも手に入る」がウリだ。その大前提すら、気にかけなかった。今更そんな事を考える必要もなかったがやはり、真夏の花を、いつ雪が降り出してもおかしくない季節に手にするというのもなんだか奇妙な気がした。
余りにも、不似合い。
両手で何とか抱えられるほどになった大輪の黄色い花束も。それを抱える俺も。
あたりはどこも冬の装いなのに、そこにいる場違いがたった一人。
昼に存在してはならない、夜の男が存在を固辞する。しかし誰もそんなものに興味を示さない。それだけが唯一の慰めだった。
街から……表の世界から抜け出す。もといる、自分の存在する場所へ。
遠くで、汽笛が鳴っていた。
人気のない、静かな埠頭。桟橋近くで車を止め、煙草を吹かす。軽く一服したそれを海に放り、続けて、花束を投げた。
放物線を描きながら、黄色い花束は海に落ち……流れもせず漂う。
汽笛が再び鳴る。
「遅くなったな」
呟いて、ついで口にしようと思った言葉を飲み込んだ。代わりに。
「今まで悪かった」
謝罪の言葉――それすら、俺にとっては珍しいことだが――を口にする。
言い訳する必要はない。したところで意味がない。だから……。
「何を話そうか……そうだな。あいつのことでも、話してやるか」
鮮明になった記憶と、その後急いで詰め込んだ空白を埋めるための膨大な情報。
奴が姿を消してから一年の間。殆ど自失に近い状態で過ごした曖昧な日々をクリアにして再度記憶に留めることができたのは、膨大な量の情報のお陰だ。
しかし、奴の喪失と俺の自失。その繋がりは、俺に大きく衝撃を与えるものだった。
奴がいなくなったことで自分の身に起きた自失の日々――しかも一年もの間、だ!――は、いかに奴が俺の意識に食い込んでいたかが窺い知れる。それは、俺にとって奴の存在が大きかったことをも示していて、その事実すらが、俺にとっては衝撃的なことでもあったのだ。
しかし、奴はいない。
それだけは、誰にも変えられない。何故なら――。
「それとも、まずは奴等のことが聞きたいか?」
思い出すようにそう言って、懐からシガレットケースを取り出した。一服する。
「誰から知りたい? JINか? 俺の次に付き合いが長いのは、あいつだったしな……JINは、お前がいなくなってすぐ、此処から別の場所へ行ったぜ。『また元の流離人に戻る』と言ってな」
言いながら、思い出す。JINが此処を去った時のことを。
* * *
あの日降った雪は、思っていたより積もった。
その雪がすべて融けた頃、JINはふらりと、いつもの店に現れた。
奴――J――が姿を消してから、今まで一度も顔を出さずにいたJINがだ。
普段なら、二人していつも決まった時間に酒を飲んでいた、その姿を見ることは、ここ久しく絶えていた。
「もとのおれに戻る」
来るなり、いつものカウンター席に腰掛け、いつもの銘柄の酒を注文み、短くJINは言った。お互い、余計なことを話すことはなかった。そんなものは必要ない。沈黙で分かり合える、その確信があった。
JINは、荷物らしい荷物すら持っていなかった。流離うには、荷物は不要だと……なにものにも縛られず、固執だとか、執着というものとは無縁だったJINには最も相応しい言い草だ……態度で示していたのを見て、その覚悟が理解できた。
潔いまでの決心。でもそれはJINらしい。
JINは、一杯の酒をゆっくり飲み終えると、立ち上がった。
「もう、行く」
「そうか」
それ以上の言葉はなかった。JINは一歩踏み出し、それから思いついたように俺の名を呼ぶ。
JINは普段の茫洋とした表情に、わずかに誇らしげな笑みを混ぜた顔をしていた。
「そういえば……いつもJが使っていたライターあるだろ? あれ、おれが持っているんだ、今。この間、おれに昔の話をしてくれたとき、J、置きっ放しにしてったんだ。……多分、Jのことだから、あまり気にしてないと思うけどな。もしまたJに会ったとき、渡すんだ。それをどんなカオで受け取るか、楽しみにしている」
そう言うと、JINは返事も求めず店から姿を消した。
漂う雲、流れる風のように。
それが、過去……奴と出会う前のJIN本来の姿だった。
「あの日…お前、ライター持っていなかっただろう。『どこかに置き忘れたかな』なんて、恍けたことヌカしてたけどな。――ライターなら、JINが持ってる」
告げて、思い出したようにまた、一服した。長く…溜息のように紫煙を吐き出して。
「JINは『元に戻る』と言っていたが……本当は、旅に出る口実だったんじゃないかと思う。お前を探すための旅に。それで流離うことを決めたようだ……そう感じる。本人はきっと、そこまで考えちゃいないだろうが。俺にはそう思えてならない」
JINは変わった。奴と出会うことで。しかし、JINははっきりと気づいていないままだ。それでも「元に戻る」と言ったJINの心境。なんとなくでも理解はできる。しかし、それを決心するのにどれだけの時間をかけたのだろう。どのような心の動きがあったのだろう。
きっと、迷ったはずだ。それでもJINは、決めた。流離うと。
* * * *
闇が、埠頭を照らしていた。
遠くに停泊している貨物船の小さな明かりは、ぼんやりと彼方に見える。眺めて、長く息を吐き出した。
「WONとVAGAは、結婚した。といっても、カタチだけのものだけれどな……戸籍のはっきりしない――まぁ、ない奴もいるだろうが――俺たちに本当の意味で〈結婚〉なんてものは、そもそも出来る筈はないんだが。きちんと、区切りをつけるために、結婚したぜ、あいつら。式もやった。綺麗だったぜ、VEGAのウェディング姿。そうそう、ちゃんとウェディングドレス着て、教会でやったんだ。……まぁ、やったといっても、夜中にこっそり忍び込んで勝手に式を挙げたんだけれどな。結局は3人だけの結婚式だった。神父は、仕方ないから俺が代役を勤めた。まるで子供の〈結婚式ごっこ〉みたいだった」
言って、笑みが浮かんだ。思い出して笑い声が漏れる。
喉を震わせ、笑い声を殺しつつ、言葉を紡ぐ。あのときの様子を思い出しながら。
「〈暴れ馬〉の異名を持つWONがコチコチに固まって緊張しながら、ヴァージン・ロードを歩いてくる様なんて、ホント可笑しかった。その隣を歩くVEGAのまた、もうこれ以上の幸福はないって顔がWONと対照的だった。見せてやりたかったな、お前にも」
もしあの場に奴がいたら。そう、想像する。
たった一人のためだけに行われる、真夜中の結婚式。きっとそんな風だ。
きっと奴は、正装して参加しただろう。もしかしたら「花嫁の父」を引き受けて、VEGAとヴァージン・ロードを歩いたかもしれない。幸福いっぱいの、満面の笑みで見つめあい、永遠の愛を誓うふたりに向かって珍しく笑みを浮かべて、そして心から祝福したに違いない。
「お前がいないのを、残念がってた」
* * * * *
突然VAGAは言った。
「あたしたち、ケッコンすることにしたの」
雪が融け、JINが去り。寒さが一段と厳しさを増した冬のある日のことだった。
「結婚?」
聞き返すと、はにかんだ笑みと共に首肯する。
「誰と誰が」
「モチロン、あたしと兄さん。ナニ、祝ってくれない訳?」
VEGAはわざとらしく唇を尖らせながら、それでも笑顔でそう言って、俺が口を挟む前に続けた。
「知ってるわよ。ホントの意味での結婚ができないくらい、あたしだって。それでも『結婚しよう』って兄さんが言ってくれて、あたしもその言葉が本当に嬉しかったから……だから、あたしたち、ケッコンするの。ちゃんと、式も挙げるつもり」
「そうか」
「アラ、おめでとうくらい言ってくれないの?」
「ゴケッコン、オメデトウゴザイマス」
意地悪く言うと顔を怒りで赤く染め、激昂寸前の形相で、きっ、と俺を睨み付けた。
「冗談だ。……おめでとう」
俺の言葉に、いままでの表情はどこへやら、
「アリガト」艶やかに笑んでそう返事をし、VEGAは続けた。
「実はね、兄さんのプロポーズ言葉を聞いてから、ウェディングドレス縫ってんだ、あたし。以外にマメでしょ。手先は器用なの。ガンバって、一針一針…もうすぐ出来上がるの。そしたら、式を挙げるのよ」
「どこでやるんだ、式」
「来てくれるの?」
「そんな面白そうなことにカオを突っ込まずにいられるか」
厭味たらしくそう言うと、普段ならここで喰ってかかるVEGAは笑みを濃くした。
「そう、嬉しい。一人でも多くの人に、祝福してもらいたいんだ」
いつにも増してよく喋るVEGAは、本当に幸福そうで。
此処――この狂った都市――にいる〈OWTLAW〉でも、夢を見、心を癒し……そして幸福になる権利はあるのだと、認めてもらえたような気がした。
普段なら、絶対に相容れない――何故だかVEGAは俺のことを毛嫌いしているようで滅多なことがない限り、自分から話し掛けてくることはない。そして俺も、能天気で頭の軽い印象の濃いVEGAと、あえて会話をする気にはなれなかった――筈のVEGAは俺に向かって話を続ける。幸福そうなカオで。
「できることならね、仲間とか呼んで、盛大にやりたかったの。いつもの店とか借り切って。やっぱ、たくさんの人に祝福してもらいたいもの。でも、教会でちゃんとした結婚式しようって、兄さんが」
「ノロケか」
煙草を吹かしてそう言うと、笑顔で「そうよ」と返された。
「兄さんが〈表〉の教会に予約入れてくれることになってるの。花嫁のときならあたしも、オモテの人間になれるんだわ」
――それはしかし、叶わなかったが。
VEGAは延々と、これからのことについて語った。
夢とか未来とか希望とか、俺たち〈OWTLAW〉と呼ばれ、そう名乗るものがとうに捨て去ったはずのモノについて、嬉しそうに語る。仕舞いには、WONとの出会い、それから馴れ初めまでを話し始め。俺はそれにいい加減に相槌を打ちながら、VEGAの口が止まるのかがいつかを考えていた。
本当に、女というものはよく喋る生き物だ。こんなに無意味なことばかり話し続けて、飽きないものか。
かなり呆れ果ててそう思い、ふと、これとよく似た光景を見たことがあると思い出す。
なにかを熱く語るVEGAと、相槌すら打たず、ただ黙ってそれを聞き続けていた……。
(そうか――本当なら多分、コレはJの役目だ)
それを今では俺が、引き受けている。もしかしたらVEGAは、いなくなった奴の代わりを求めていたのかもしれない。奴の次に適役はJINだ。それくらいのことはVEGAだってわかっているだろう。
しかしJINは此処から別の場所へ行った。そして残ったのは……。
「悪いが」
いつまでたっても終わらない会話を打ち切るように、俺は言った。VEGAがそこでやっと口を閉ざす。何かを言いたげな表情をし、しかしそれを無視して俺は言葉を継いだ。
「俺はJじゃない」
そうはっきり口にすると、VEGAは不機嫌な顔を作る。
「なによお。今まで黙って聞いてくれると思ったら」
頬を膨らませて俺をねめつけそう言ったVEGAを真っ向から見据え、俺は低く言った。
「話し相手なら他をあたりな。……俺はJの代わりにお前の下らん話を聞いてやる義理もない」
「…な……ッ!」
怒りの形相あらわに、顔に朱を昇らせたVEGAはその勢いで片手を振り上げた。
ヒュッ、という風を切る音と次の瞬間、振り下ろされた平手を、俺は甘んじて受けた。鋭く、俺の頬が鳴る。
直情径行。さすがWONの妹だ、とわずかに感心しつつ、肩で息を切らせたVEGAを冷たく見やる。
「気は済んだか」
言うと、侮蔑を含んだ目で俺を一睨みした。
「アンタなんて…ッ。Jの代わりにもならない」
「だから言ったろう。俺はJの代わりになぞ、なる気はない」
「そうよ、アンタって、そう言う奴だった。忘れてたあたしが馬鹿だったのよ。そうよ、分かってた。なのに……」
怒っていたかと思えば、すぐ違う表情をする。今度は、今にも泣き出しそうな顔をして呟いた。
「なんでJいないんだろう。ドコ行っちゃったんだろう」
VEGAの泣き言らしい泣き言を、俺は初めて聞いた気がした。
「DOG…アンタ、Jの居場所、ホントに知らないの?」
「…………」
「結婚するって、ホントは一番最初に、Jに伝えたかった。アンタ、もしJと連絡つくなら、伝えてよ。あたしが兄さんと結婚すること。もし来られるなら、式には来てって」
今にもしゃくりあげ、泣きそうな声で言うと、VEGAは席を立つ。
「アンタも、絶対来てよ。あたし、本当に沢山の人に祝ってもらいたいんだから」
「……結婚式当日。教会に忍び込む前のVEGAの残念そうな表情。『やっぱり来ないんだ』と呟いたのが哀れだった。結局、俺たちには結婚式すら堂々と挙げる権利すらないのかもしれない。だからせめて、心から祝ってくれる誰かを……お前を、VEGAは求めたんだろう」
――しかし、奴は来なかった。来なかったのではない、来られなかったのだ。
「WONも、それを気にしていた」
* * * * * *
なぁ、と、突然声をかけてきたWONは、最近誰も座らなくなったJINの席に腰を下ろし、酒を頼むと俺に向き合った。
VEGAから二人の結婚の話を聞いた、その数日後のことだった。
「Jとは、本当に連絡がつかないのか?」
そう言って、俺の顔を覗き込む。珍しく真摯な表情で。
「つけようがない。俺だって、奴がどこにいるか知りたいくらいだ」
俺の言葉に、明らかに落胆し、そうか、と呟く。カウンターに置かれた酒を、一気に飲み干して大きく溜息をついた。
「VEGAが、どうしてもJに来て欲しいって言ってるんだ。オレもそれを望んでいる。いけ好かない奴だけど、絶対祝福してくれるからな、Jは」
「…………」
「いま、オモテの教会に、予約を入れてるトコなんだ。VEGAがジューン・ブライドにこだわって、どうしても6月がいい、ってゴネるからキャンセル待ちでもいいからって、申し込みをしたんだけど……」
溜息をついて、WONはまた、酒を頼んだ。
「なかなかうまくいかない。……あんなにVEGAが楽しみにしているのに」
珍しく、WONが弱音を吐いた。それが驚きだった。
普段なら意味もなく強気で、根拠のない自信を振りかざし、暴れ回っているWONが、こんなところで弱音を吐いて愚痴っているのを初めて目にしたと思う。
「Jは何処へ行ったんだ。JINは、いい。元に戻ると言ったなら、そうなんだろう。でもJは……何も言わず、姿を消すような奴じゃあなかったはずだ」
「……お前、奴のこと毛嫌いしていたんじゃなかったか」
「あぁ、嫌いさ。今でもな。でも、あんないなくなりかたされれば、気になるじゃないか。いけ好かない奴だよ、本当に」
吐き捨てるように言って、カウンターに置かれたお替りの酒をまた、一気に飲み干す。
「何でこんなに気になるんだよ。他の奴なら絶対、いなくなったところで気にも留めない。JINが此処を去った時だって、そうか、で済んだのに、なんでJがいなくなっただけでこんなにモヤモヤした気分になるのかわからないから腹が立つ。DOGはどうなんだ」
「俺は……別に」
「そうか。そういうもんか」
「別に、どういった意味もないさ。Jが此処にいない。その事実は変わらない」
俺の言葉に、WONは大きく溜息をついた。
「愚痴を零したい気持ちも分からんでもないが、Jが此処にいないという事実は、変えようがない。もし、風の便りにお前らの話を聞けば、きっと飛んででも戻ってきて祝ってくれるだろう。そういう奴だろ、Jは」
「そうだな。……悪かったな、愚痴って」
「いや、いいさ。初めて聞いたもんで、少しは楽しめた」
言うと、苦笑した。
「お礼代わりに、何か一杯飲んでくれ。奢るよ」
言われたとおり酒を頼み、それを飲み干す間WONは少し照れくさそうに今回の結婚についてを勝手に語っていた。
VEGAと同様、殆どノロケだったが、元来の気性が荒いWONが幸福そうな、穏やかとも取れる表情で語るそれは、聞いていて気分のよいものだった(VEGAから聞いたそれと、内容は殆ど変わらなかったが、回り道をするような無駄な言葉の多いVEGAと違ってWONは簡潔にそれを話した分、聞くという作業はかなり楽なものだった)。
約二月の後、再びWONは、なぁ、と話を切り出した。
曰く、結婚式の予約はできなかった。
今度は別の愚痴をWONは零し、そして先日の借りを返してもらうとばかりに俺の奢りで酒を飲みながら、VEGAが如何に今回の結婚式を楽しみにしていたかなどを、延々と語る。途中、
「やっぱりウラの人間は、オモテに堂々と姿を現すことはできないのかよ」
吐き捨てるように言って、一気に飲み干したグラスをだん、とテーブルに叩き付けるということもあった。
酒の勢いを借りて、WONは愚痴を零し続ける。
「それがたとえ、ケッコンってことですら、オモテとは相容れられないものなのか、おれたちは。VEGAはあんなに喜んでた。それすら、罪なのか。JINはいない。Jもいない。残ったおれたちは、此処でどうやって生きていけばいいんだ」
血を吐くような、慟哭にも似た響きでWONは押し殺した声で呟き、2杯目の酒を頼むとすぐにそれを飲み干した。そして「お替り」。
「ムシャクシャする。暴れ回りたい。誰彼かまわず殴り倒したい。あぁ!」
髪を掻き毟りながら奇声に近い悲鳴を上げ、出された酒をまた、一気に飲み干した。
普段のWONならここですでにキレて、テーブルに載っているものすべてを凪ぎ払い、隣で飲んでいたという理由だけで突然相手を殴るだろう。血走った、獣のようにぎらついた目でひとところを睨み据えるWONが、わずかに身動ぎしたその瞬間に、俺は声を…冷たく、低く…掛けた。
「……VEGAには、このこと…もう話したのか」
その声は効力をあげた。暴れだそうとしていたWONは俺の声を聞き、びくりと身を竦めると、ゆっくりと時間を掛けて深呼吸をし……。
「まだだよ!」
そう、叫んだ。
「言える訳がないだろう! なんて言えばいい。『ごめん、やっぱりだめだった』。それとも『キャンセルは出なかった』、『今から他をあたろうか』? VEGAがそれを聞いて、どんな顔するのか分かるんだ。『そうか、仕方ないね』なんて、聞き分けのいい振りでそう言って、そのあと心の中でどんなにか悲しむのか分かるのに。言いたくない。でも、言わなくちゃいけない。……あんなに心待ちにしていたのに、あんなに嬉しそうにしていたのに、VEGAの表情を曇らせることが分かっている言葉なんて、本当は言いたくなんかないんだ……」
語尾を弱めたWONの言葉は、泣き言めいて俺の耳に届いた。俺はそれを、どこかぼんやりとしたまま聞き、長い一服を済ませてから……。
「仕方ない、引き受けてやるよ、その役」
そう言った、俺自身が実は一番驚いていた。WONもそれは同じだったのだろう、少し驚いた表情でこちらを見、何かを言い出そうとわずかに口を開いたが、深い溜息の後
「……頼むよ。悪い」
小さく呟くように言った。
――その数日後、VEGAを呼び出し、事の次第を伝えると、WONの言葉どおり
「そうか、仕方ないよね」と、寂しげな表情で呟いた。
そして結局、VEGAの意思を尊重して6月のとある日、結婚式を執り行うことにした。
深夜、人気のない、静まり返った教会の前の道で、この度晴れて新郎新婦となる二人は暫く彼方を眺め、奴が来ないかをかなり待っていた。
長い間二人はそうしていたが、結局現れる気配がなかったことで来ないことを悟ったのか、愁いを帯びた瞳で溜息を漏らし、思い直したように教会へ足を踏み入れることを決めたようだった。
侵入者を頑なに拒むように聳えた鉄柵を乗り越え、中に忍び込み――着替える手間を惜しんであらかじめウェディング・ドレスを身に纏っていたVEGAは、それをものともせず、ひらりと空を舞ったのには驚かされた――教会の扉を開く。
静謐な雰囲気に包まれた教会の中は、入れば敬虔な信徒でなくても誰もが厳かな気分に満たされてしまうほどの迫力がある。滅多に踏み入れることのない場所に忍び込んだ躊躇いか、3人とも僅かに足が竦んだ。
――急遽、神父役をすることになった俺が祭壇に立ち、お決まりの誓言を口にすると、WONは誇らしげに、VEGAは感動に瞳を潤ませて互いに「誓います」と宣言した。
それで儀式のすべては終了した。
当たり前だが呆気なく素っ気ない幕閉じの後、俺たちは教会を後にした。
俺とWONたちとはそこで別れることになった。
新婚旅行でもするつもりでいるのか、2人はこのままどこかへ行くらしい。VEGAは「シンコンリョコウに行くのよ、今から」嬉しそうに言う。
それに、照れ隠しのためかぶっきらぼうに「余計なことまで言うんじゃない」と嗜めるようにWONは言ったが、言葉とは裏腹にそれは、まんざらでもないといった表情をしていた。
そしていよいよ別れ際、WONは傍らで嬉々とした表情で浮かれているVEGAをよそに、ひどく真面目な顔でぽつりと
「今日は来なかったけど……どこかでおれたちのコト結婚…きっと耳に届くよな」
そう、呟いた。それが印象的だった。
「〈新婚旅行〉などと言いながら、2人はお前を探していたようだった。旅行といってもほんの1週間程度此処にいなかっただけだったが、帰ってくるなり『やっぱり見つからなかった』とWONが小さく、聞こえないほどの声で呟いていたのを聞いた。WONはそれで多少諦めがついたようだったが…それ以降、WONがお前のことを口にしなくなったからな…VEGAはどうだろうな。女って言うのは、いつまでもしつこいまでに憶えていたりするもんだしな」
あいつも、きっと――。
俺は、奴に係るもう一人の女のことを思い浮かべる……。
* * * * * * *
俺が一番心配していたのは、あいつのことだった。
春の陽だまりの中で育った花のような心を持つあいつは、此処――電脳都市の闇世界――がどんなもの世界であるのかを、まったくといっていいほど知らない。
どこにでもよくあるような、普通の裏社会と此処とでは、本質がまったく異なっていることを知る者は、しかしこの世界でも実は案外少ない。普通よくある裏社会なら、繁華街をうろつくヤクザたちや、それらで構成されている組織――たとえばそれは〈暴力団〉や〈ファミリー〉などといったものになるのだが――が、その大元を締めているのが通例だが、此処にそういったものはない。
俗に〈組織〉と呼ばれるものは存在するが、それらがこの世界を完全に牛耳っているということは、まずない。個々にある、犇めき合っている数多の寄せ集めの中で一番そこが大きく、そして大きいだけにそこの発言力がわずかにほかより強く、だから優勢に立つ、ただそれだけのことだ。
普通の裏社会とは、だからわずかに、しかし確実に違っている世界でもある。
ただ金やヒトやモノが絡み、なんでも金次第で手に入るというのなら、当然この〈電脳都市〉にも存在する。それは俺たちが〈裏〉と呼ぶ世界だ。しかし此処は違う。〈闇〉だ。
心に闇を持つものだけが、そして癒えない傷を持つものだけが此処に集う。
むしろ心に深く、癒えない傷を持つものでなければ、此処に棲むことはできないのだ。あいつは、それを知らない。知らずに侵入り込んだ。
それが、いかなる代償を伴うかは、誰にも分からない。あいつにも分からないだろう。
しかし、此処に来た奴はすべて、例外なく、「一番大切なナニカ」を代償として失うのだ。いや、もうすでに代償を負っているのかもしれない。あいつにとっての「一番大切なナニカ」が奴だとしたら、代償は支払われている。
それにより、どれだけ心が傷つけられようと、もうそれはどうすることもできない。
多分あいつは傷ついただろう。深く心に癒えない傷を付けただろう。そして、此処を訪れたほんの短い間に起こった、この狂った都市での出来事に、大きくショックを受けただろう。それがどれほどのものかを、俺が知ることはできない。
しかし、心配は無用だった。
そう思えるのは、あいつが此処を去り、元の世界へ戻ってからしばらくして、あいつが親父から引き継いだ大企業や、それにかかわるすべてのもので大きく業績を伸ばし、世界屈指の大資産家、という肩書きをはずし、世界ナンバーワンの座を手に入れたと知らされたときだった。
ありとあらゆるメディアが、この、若く、美しい大資産家を誉めそやし、ニュース番組に拘わらずどの番組でもあいつのことを取り扱うようになった。
表の街にあるいくつものビジネスビルに据えられている広告用の超巨大スクリーンには、常にあいつの姿が映し出され、その中で、インタヴュアーが差し出したマイクに向かって答えているあいつの姿は、内面から光を滲ませているように見え、俺の目には眩しく映った。
――色々と、大変な問題もあったことでしょうが、迷いはなかったのですか?
『ありました。けれど、信じていましたから』
――しんじる…それは、なにを?
『……わたくしを。そして――』
毅然とした態度で答えていたあいつは、そのときだけわずかに瞳を伏せた。しかし次の瞬間。顔をあげ、挑みかかるようにまっすぐ視線をカメラに向けて
『わたくしを信じてくださる、すべての方々を』
そう、言い放った。
しかし俺の耳に届いたのは、別の言葉だった。
『あの人を』。そう、聞こえた。
あいつの言う「あの人」とは、奴のことだ。奴を信じて待つ、それは、あいつと奴とで取り交わした〈約束〉だった。
それをあいつはいまだ守り続けている。だから、信じて待つ。その覚悟を決めたのだ、そう悟った。
それは、心が強くなければ絶対にできないことだろう。
あの日、俺があいつに言った言葉に不安を感じたはずだ。それなのに、決心したあいつの強さ。それには感服されられる思いだ。
――俺はいまだその傷に痛みを覚えているというのに……。
「そういった意味で言うなら、やはりあいつは、親父の子だということだ」
俺は所詮、紛い物でしかないのだ。それをあの時、はっきりと思い知らされた気がした。
呟いた言葉は、闇に溶け込んでいく……。
* * * * * * * *
「お前がいなくなったことで、此処には変化が起きた。〈組織〉はのさばり、このままなら、此処も奴らの手で牛耳られることになるだろう。それが近い将来、現実になるはずだ。他の奴らはナリを潜め、成り行きに任せている。お前に、この世界で生きていくうえで希望を見出そうとしていた奴は、お前とともにその希望を失った。此処にもう希望はない。心の拠所もない。そしてお前と親しい奴等ですら、それを目の当たりにして変化が起きた。JINは此処を去り、WONとVEGAは結婚して新たな人生を選択しようとしている。あいつは…お前を待つと言いながら、前を進んでいくことを選んだ。皆、変わっていく」
お前がいなくなったことで、奴と係わりのあった奴等にすら、変化が起こった。此処だけでなく、此処に住む奴等にまで。
俺は――。
変わらない。変われない。
いつまでも過去にしがみつき、此処で蹲っているだけだ。
周りの変化を、ただ傍観しながら、ただずっと――。
変わることはできない。
希望の光が潰えた今となっては、それは不可能だ。
それを知っているのは、俺だけだ。そしてその理由も。
あのときの達成感。思い出すだけで震え、恍惚すら憶える、あの瞬間。
奴に銃口を向け、トリガーを引き絞った刹那――。
――耳鳴り。
煙草の煙。たなびいて…。
汽笛。
エンジン音。車の。
吐いた息。白い。
波の音。
遠くの警笛。
カーラジオから流れた、あの曲。
睨みつける、鋭い眼光。
目に見えず飛び散った火花。
向けた銃口。
奴の口から紡がれたコトバ。
『イイサ……ウテヨ』
両手を広げた奴。
笑んで。
笑顔、満面の。
艶やかで。慈悲深く。
寒い。
体が震える。寒い。
銃声。
しかし途切れる、たったひとつ。
――奴の姿が、浮かばない。
奴の死が。
死に様が……なにひとつ――。
突然の、フラッシュ・バック。
閃光とともに脳裏に浮かんでは消える、数々の場面。
人気のない埠頭。遠くで鳴る汽笛。
乗り捨てられた車。シートに吸い込まれ、変色した大量の血。
車の中においてあったはずの、なくなった愛用のライター。
いつもの店の裏口。踏み拉かれた跡。
融けた雪の中から現れた、1本の吸殻。
初めて見つけた、奴の塒。
古めかしい扉。
空虚な部屋の中。
異質めいた、テーブルに置かれた鳥籠。
弱々しい声で囀る、籠の中のカナリア。
そして……。
灰皿に残った、数本の吸殻と、灰の中に紛れていた。
――ダイヤのピアス。
僅かに残る、女の残り香。
皺の跡が残るベッド。
思い出した――記憶の彼方に閉じ込めた――過去のカケラ。
頭の中に焼きついていた、しかし忘れかけていた数々の記憶の断片。
しかしやはり浮かばない、奴の……。
頭のどこかで声がする。
モシカシタラ、イキテイル――?
浮かんだ、ひとつの疑惑。
「……Jesus」
呟く。
その声に含まれたのは、希望か、それとも……。
「お前……本当は今もどこかで生きているんじゃないのか?」
海に向かって、呟いた。いない相手に向かって、もしかしたら呟いたのかもしれない。
しかし答えはない。そして答えなど、どこにもない。
呟いた声は、波の音に掻き消された。
「いや…。そんな訳ないな」
自嘲めいて、そう継ぐ。そう、奴が生きている、そんなことはありえない。
いくら奴がこの埠頭から塒へ帰れたとしても。
乗り捨てられた車の中の血は、発見した当時――裏の奴等の口コミで、それは26日、奴が姿を消した翌日の深夜に見つかった――まだ湿り気を帯びていた。
それで、どれだけの血がシートに吸い込まれたかが計り知れる。
あの大量の血。
あの寒さであれだけの血を流せば生きていることは難しい。
「そう。お前が生きている訳ないんだ。あの状態で……」
ひとり呟きながら、駆け巡る、幾つかの思い。願い。
奴は生きている。
いや、死んでいる。でも、もしかしたら……。
奴は死んだ。俺が殺した。
この場所で。去年。
寒い日だった。ここで俺は奴に銃口を向けて。
死んでいて欲しい。死んでいるはずだ。いや、死ぬべきだった。
俺の手に掛かって、その命を絶っていて欲しい。そうあるべきだ。
他の奴に殺される。そんなことは許さない。
お前は、俺以外の男に殺されてはならないのだ。
俺以外の手で殺されるお前なんて、認めない。
でも――。
生きていて欲しい。
あれから、奇跡的に生き延びて、そして此処へ帰ってきてくれればいい。
今度こそ「完全なる姿」として。本当のお前の姿で。
狂った電脳都市の闇の中で、燦然と輝き照らす〈俺たちOUTLAW〉の希望として。
闇を照らす、たったひとつの心の拠所として。
闇の中で異彩の闇を放つ絶対者として君臨すればいい。
此処に生きる奴らの闇の心に、月光のような優しい光を降り注ぎ、その傷を癒して欲しい。
俺の心に巣食った闇から救って欲しい。
それでも……。
お前を終わらせるのは、俺でありたい。
自ら育てた存在を、自らの手で終わらせる。
それは、創造と崩壊。
産み、育くみ、そして終わらせる。その総てを支配すること。
これほどの喜びはきっと他に無い。それを俺は味わいたい。
その存在を見つけたときの高揚感。
育てて覚えた満足感。
神がヒトを創り、その過程を見守る様に。あるいは園芸家が花を育てる様に。
奴を「J」として作り上げていく日のひとつひとつに、すべてに、心のどこかが満たされていくのを感じた。それは、いつかその手で、創ったモノを壊す日を想像してのことだ。
奴の存在。
奴の総てを統べることのできたものの最大の特権として、俺は奴の死を欲していた。
だからこそ、奴は俺の手で殺すべきなのだ。
その想いが強いからこそ、俺は奴の死に達成感を覚え(念願叶った嬉しさと)そして奴の死に絶望して(奴に救われることが叶わなかった悲しみと)自失の日々を過ごしたのだ。
反発する想いはどちらも同じくらいで。
矛盾にすら気付かないほど、それは強すぎて。
「……Jesus。…Jesus。そう、ジーザスだ」
――〈Jesus〉。
それが奴の正体だとしたら。
奴を拾い上げ育てたのは俺だ。それは奴も知っている事実。しかしその名を与えたのは俺ではない。 奴が名乗ったのだ。自ら〈J〉と。
由来を聞いたことはない。昔、JINが奴と初めて会ったとき、名を聞いたらやはり奴はただJとだけ名乗った事は聞いたことがある。
JACKでも、JOCKERでもない、ただのJ。
本当にそれは、ただのJだけなのだろうか。今更浮かんだ疑念。
〈J〉イコール、〈Jesus〉。その図式を思い浮かべてみる。悪くない考えだと、自分でも思った。
〈Jesus〉とは、救世主だ。そして死後、復活を遂げる事の出来た奇跡の人物。
俺たちOUTLAWを救う〈Jesus〉。それがJの本当の姿だとしたら。あの時、俺が銃口を向けたときの、慈悲深い笑みも分かる気がする。
ならば、死んでも復活することは――ありえるかもしれない?
『――どうしたDOG』
その声に、振り返れば奴がいた。朧げに立って、こちらを見つめている。
「J!」
『冴えないツラしてるな』
「お前、生きて……」
『飲みすぎてるんじゃ、ないのか?』
「いや。そんな事はどうでもいい。お前、本当は生きてたんだな」
奴は、微笑んだように見えた。慈悲深い、あの笑みで。
あの時、両手を広げたときの、無垢な笑みを……。
「J……俺を救ってくれ。この闇の世界から。この狂った世界から。心に巣食った闇の中から……」
気付けば、そんなことを口にしていた。
奴は、笑んでいた。笑みを崩さず――。
『お前の所為だ!』
『お前が俺をこんなにしたんだ』
『こんなモノを、俺は求めていたんじゃない!』
豹変して、奴は叫んだ。
それはいつか、奴の口から発せられたコトバ。
奴がJとして生きることになった直後のコトバ。
荒んだ笑み。あの頃の。
瞳に映るのは、剥き出しの憎悪の光と、狂った世界への怒りの炎。そして淀んだ闇色。
すべての感情を、俺への憎悪へと変えて生きていくしか術がなかった頃の……。
『俺にお前は救えない』
穏やかに――残酷に紡がれたコトバ。
――どこからか、忘れられないあの歌が流れる。
カーラジオからだ。警笛が鳴った。
我に返り。今のがすべて、幻覚だと知った。
「Jesus……。俺は、救われないのか……。なんてこった……」
忘れていたすべてを思い出した。
自失の日々は、記憶と情報ですべて穴埋めされていた。
すべてがまったき姿に戻ったその瞬間、俺は罪を自覚した。
『許されざる罪人』
そんなコトバが浮かんだ。
――俺は、奴に希望を見出していた。
この、心の闇がオモテに滲み出してきたような、荒れすさみ、狂った都市の片隅で。
わずかな希望を求めながら彷徨っていた俺が求めたのは、闇に染まらず、闇の中で闇色の光を放つ、存在だった。
それに気付かされた。
自分ではなりえなかった存在。
光の中で生きていくことが出来なかった俺。
光の中で生きていける義妹。
うらやみながら、自分にはそれが無理なことだと知っていた。
そして闇の中で異彩を放つ存在を探していた。
闇を照らす希望の光を。此処から救い出し、光へと導いてくれるものを。
闇の世界に咲く、ハナ存在を。
そう。奴は華だ。
闇のなかで光を放ち、壮大に咲き誇る華。
それを見つけ、育てたのは俺だ。
そして――。
手折ったのも、俺だ。
それを後悔する気はなかった。
奴のすべてを支配するには、奴をこの手で殺すのは絶対条件だった。
しかし、それが成就された瞬間に、俺は救いの手を断ち切られたのだ。
闇の世界で際立つやつ存在の絶対者でありたかった。
俺は奴の神になりたかった。
「DOG」ではなく、「GOD」に。
しかし実際はといえば、救世主を売り渡した裏切り者と成り果てたのだ。
自らのみの救いを求め、本当の意味での救いを失った間抜けな男に――。
――奇跡の華を手折った罪はどれだけ重いのだろう。
救世主を死に追いやった者はその後どうなったのだろう。
救世主は赦したのか。それとも許されることはなかったのか。
許されざる罪人への罪はいかなるものか?
しかし、せめて祈ることだけは許してもらいたい。
それしか、今の俺にはもう……することが出来ないのだから。
「――また、来る。今度こそ…本当の〈約束〉を守らないとな」
ひとり呟く。
人気のない埠頭は、寒々しく。
俺は、罪を意識したまま、重く圧し掛かったそれに押しつぶされそうな気分のまま、その場を後にした。
聖誕祭前夜。
聖女が身篭った日。
俺はひとり、大きな罪を負う。
その日に俺を救うはずだった奴を手に掛けた事実は消えない。
消えない疑問。――奴の正体。奴の生死。
消えない罪。――罪に対する罰の重さ。
タオラレタハナハドウナッタ?
ハナタオッタツミハ――ドウアガラウノカ?
その答えを知るものは、結局どこにもいない――。
知っているのは、奴だけだ。
そして俺の運命を握ったのも……。
――奴だけだ。