5 息苦しい五月
本日二回目の更新
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朝、葵が登校しようすると、家の前で恭平が待っていた。
いつもは剣道部の朝練があるのでうっかりしていたが、進学校である私立音鳥学園は新学期早々学力テストがあるので朝練は休みなのだろう。つまり鉢合わせになる可能性は十分にあったという訳だ。
こんなことなら、送っていこうかという父の申し出を受けておくんだった。
昨日帰宅後に整形外科に行った葵は、軽度の捻挫と診断されていた。
固定すれば歩けるからと、気軽に請け負ったのがいけなかったのか。
葵は気まずい思いで歩を進めた。電車の時間があるので、まさか外に出ない訳にもいかない。
「足、どうしたんだ?」
昨日の事を聞くために待っていたんだろうに、あいさつの後最初に恭平が尋ねてきたのは明らかに負傷した葵の足の事だった。
「ちょっと、こけて捻挫しちゃって」
葵は茶化すように頭を掻いた。
しかし心配そうにする恭平の顔を見ることはできない。
先に行っていいというのに、恭平は葵の横をぴったりとついてきた。
ただ目の前の歩行者用の信号が早く変わればいいと、葵は一心に祈っていた。
「昨日、どうしたんだ」
沈黙の中で、質問が降ってくる。
「どうしたって、別になんでもないよ」
なんでもなくない事を、なんでもない風に言うのは難しかった。
しかしそれも、慣れた痛みだ。
葵は自分にそう言い聞かせた。
「ごめんね。置いてきぼりにしちゃって。ちょっと約束があったの思い出して…」
それは見え透いた嘘だったが、寡黙で優しい恭平はそれ以上追及してはこなかった。
それを嬉しいとも悲しいとも思いながら、葵は恭平と二人で電車に揺られ、学校へと向かった。
学校の最寄駅で降りると、同じ制服を着た沢山の高校生達が一様に高校へ続く道を歩いている。ゆっくりと歩く二人を、何人もの生徒が追い越して行った。時折剣道部の後輩なのか、恭平にかしこまった挨拶をして通り過ぎる後輩もいる。
「先いってって」
「いい」
「だって、遅くなるよ?」
「大丈夫だ」
これだ。
葵と一緒に剣道を始めて以来、少しずつ恭平は寡黙になっていった。葵だけは厳しい練習に耐え兼ねてすぐにやめてしまったが、恭平はのめり込む様に中学校でも剣道に打ち込んでいた。
人並みもまばらになってきた頃、ようやく校門近くにまで辿り付くと、どうもいつもとは様子が違っていた。
校門の中に、紫の腕章をつけた生徒が数人いる。
これは、平均して月に一回ほど行われる抜き打ちチェックだ。
髪の色が茶色かったり、スカートが極端に短い生徒などが、呼び止められて指導を受けている。
葵は慌てて鞄の中になにかまずいものが入ってなかっただろうかと考えたが、特に思いつく物はなかった。
そもそも進学校である音鳥学園は大らかな校風なので、成績さえ維持していれば少しのことなら見逃してもらえる。今校門の近くで捕まえられているのも、風紀に目をつけられている言うなればいつものメンバーだ。
足をひょこひょこさせながら葵と恭介が校門を通り過ぎようとすると、その時だった。
「ちょっと、あなた」
ぎくりとした。聞き覚えのある声。
「肩より長い髪は、黒か茶のゴムで括らなければならないのよ?ちょっと生徒手帳を出して」
振り向くと、そこには萩原環奈が立っていた。
―――ああ、まさか。
一気に血の気が引いた。
環奈が指摘した点は、確かに生徒手帳に記載されてはいるが教師も滅多に注意をしないような規則だった。実際、葵も入学から今までに一度も指摘されたことはない。葵の横を、派手なシュシュを付けた女生徒が通り過ぎていく。しかし環奈はそれを見てもいない。ただうっすらと微笑んで、葵をまっすぐに見つめている。
昨日、北嶋が負ぶっていたのが葵だと、環奈は気付いたのだ。それは髪形のせいであったのかもしれない、一瞬顔が見えたのかもしれないし、或いは足を引きづるように歩いていたからかもしれなかった。
恭平も、心配そうに事の成り行きを見守っている。
「はい…」
下手な抵抗は危険だと考え、葵は生徒手帳を差し出した。名前を確認した環奈が名簿をチェックしている。風紀委員からの注意を一度受けると1点。それが10点貯まると、生徒指導室での学年主任からのこわーいお叱りが待っている。
しかし葵は今までに一度も捕まったことがなかったので、まだ1点だけだ。それほど怯える事じゃない。
たとえ―――嫉妬深い風紀委員長に目をつけられてしまっていたとしても。
葵は何度も、心の中で自分に落ち着けと唱えた。
生徒手帳が返され、環奈から解放される。
葵はなんだかボロボロになった気分で、再び昇降口へ歩き出した。その髪は乱暴に、黒いゴムで一つくくりにされている。
「…気にするな」
恭平が気遣うように、葵の背中をぽんぽんと叩いた。
わかってるわよと、葵は減らず口を叩くこともできなかった。
それから数十回に渡って、葵は環奈から些細な注意を受け、名簿にチェックを付けられた。当然十点という持ち点は瞬く間になくなり、今では週に一度は生徒指導室の住人だ。
そんなに派手な外見をしていない葵に首を傾げながらも、環奈に絶対的な信頼を向けている学年主任は毎回葵をがみがみとしかりつける。葵はその嵐が過ぎるのを、いつも黙ってやり過ごすしかなかった。
葵があまりにも呼び出しを喰らうので、クラスメイト達は必要以上に葵に近づいてこなくなった。学年主任からよく見ておけと言われているらしい担任も、いつも葵に冷めた目線を向けてくる。
男子生徒達は、大人しそうな外見に見えて意外と―――という風に葵を見ていたし、女生徒達はついに萩原環奈の新しい犠牲者が―――という風に影でセンセーショナルに言い合っていた。
新学期から躓いてしまった葵の高校生活二年目は、そうしてひどく苦いものになった。
偶然かもしれないが、あの日前世とは違う行動をしたことがこれほど大きな代償を必要とするなんてと、葵は黙ってそれに耐えるしかなかった。
唯一恭平だけが、いつもと同じように葵に付き合ってくれる。
目立つからいいよといくら言っても、恭平は葵の世話を焼きたがった。
クラスで浮いてしまったことは辛かったが、恭平がそうして自分にばかり関心を向けてくれるのは、嬉しくもあった。
そんなある日のことだ。お昼休みに教室で恭平と向かい合ってお弁当を広げていると、ピンポンパンポーンという聞き慣れた音がして、校内アナウスが流れた。
『二年A組の、夏草葵さん。二年A組の夏草葵さん。生徒会室にきてください。もう一度繰り返します。二年A組の夏草葵さん。生徒会室にきてください』
聞き慣れない放送委員ではない声が、葵の名前を告げる。教室がざわめいた。
一般の生徒が、生徒会に呼び出されることなどほぼない。稀に呼び出しを受けるのは、居場所が分からなくなっている生徒会役員本人達くらいだ。
入学以来、その初の例外となった葵に、クラスメイト達からの視線が突き刺さる。
葵が食べかけのお弁当をまとめてよぼよぼと立ち上がると、恭平も同時に立ち上がっていた。
「一緒に行く」
「いいよ。恭ちゃんは一人でご飯食べちゃいなよ。お昼休みなくなっちゃうから」
「しかし…」
「大丈夫だって。別に何か注意されたとしても、殴られたりする訳じゃないんだから」
葵はもう注意されることに慣れ切っていたので、冗談めかしてそう言った。
他に呼び出される理由など思いつかない。環奈が生徒会にまで働きかけたのだろう。
こうなったらさっさと行ってさっさと終わらせてしまおうと、葵は足早に教室を後にした。
黒い髪を地味な黒いゴムで高めに結い、他の生徒よりスカートだって長いくらいだ。
恭平はそのまっすぐに伸びた背中を、苦々しい気持ちで見送った。




