4 転校初日-放課後のターン3
―――思った以上に、時間が掛かっちゃった!
紬は焦っていた。なぜなら、通常とは違う西村とのイベントのせいで、ゲームの中でも貴重な初日の時間を、二時間も消費してしまったからだ。
アプリのシステム上取り決められた放課後の活動時間は、三時間のみ。一人のキャラクターにその中の二時間も使ってしまったので、今日中に済ませておくはずだった出会いイベントの一つを諦めなくてはいけない。
ちなみに、二時間も使った割に西村とはあまり交流を深めることが出来なかった。部活があるという彼を無理に引き留めて好感度を下げる訳にもいかなかったので、教室についた後は泣く泣くすぐに別れたのだ。貴重な時間を使った割に新しいスチルがある訳でもなく、期待し損だと紬は内心で膨れていた。
彼女は今、旧校舎に向かって走っている。
そこでは腹黒キャラの生徒会副会長である北嶋が、生徒会活動をサボって昼寝をしているはずだからだ。
北嶋との出会いイベントでは、旧校舎を立ち入り禁止と知らない(ていの)主人公が、好奇心に負けて入った先で腐っていた床板を踏み抜いてしまう。また、その衝撃で北嶋が昼寝をしていた教室のドアが開かなくなってしまい、それに怒った北嶋が素で主人公を怒鳴りつけてしまうというシーンだ。
―――普段は温和な副会長が、主人公の両手を抑えつけるアングルが絶品なんだよね!
内心で高揚しながら、紬は足取り軽く旧校舎へ向かった。
しかし旧校舎で彼女が目撃したのは、既に踏み抜かれた床板と乱暴に倒された引き戸だけだった。
***
「ちょ、大丈夫だから下ろしてください!」
葵は必死に訴えたが、葵を背中に背負った主は耳を貸そうとはしなかった。
「じゃあここに放り出していけってのか?外聞を考えろ」
北嶋は他の生徒に聞こえないように押し殺した声でそう言った。
保健室に向かう為におぶわれた状態で校内の敷地を歩く彼らには、さっきから少なくない生徒の視線が集中している。
葵はそんな人々に顔を見られないように、必死で北嶋の肩口に顔を埋ずめた。
スカートの下にスパッツをはいておいたのが、せめてもの救いだ。
それにしても、北嶋がおぶった人物が自分だなどとばれたら、葵は再び上級生に痛い目に合わされることになるだろう。そう思うとげんなりした。
なぜなら北嶋は校内では“王子”とも呼ばれ女生徒から絶大な人気を誇っており、更には誰しもが『あの二人ならお似合いだ』というような完璧な彼女がいるからだ。
その彼女と言うのが、また問題で―――…
「あら、玲じゃない」
その声に、葵はびくんと震えた。
―――まさかそんな、よりにもよってこんな時に!?
「その背負ってるのは…あら大変。酷いけがをしているわ」
「そうなんだ。だから今保健室へ連れて行こうと思って」
顔を隠すために俯きながら、これって挨拶すべき!?どっち!?と葵は恐慌状態に陥っていた。
挨拶をしなければ失礼な二年だし、挨拶をして顔を見せれば今後睨まれることは間違いなしなんて逃げ場なしだ。
なんで今日はこんな不幸な事ばかり起こるのだろうと思いながら、葵は顔が見えないように俯いたまま会釈した。それも深く、そして勢いよく。
その時に見えた、“風紀委員”と書かれた紫の腕章。
間違いない。北嶋に声を掛けてきた人物こそ、風紀委員長をしている北嶋の彼女。萩原環奈その人だった。
サラサラロングのクールビューティである彼女は男子生徒の憧れであり、教師受けもよく学力もトップクラス。更には風紀委員長まで務める才色兼備だが、実は彼女にはもう一つの顔があった。それは全女生徒の間でまことしやかに囁かれている絶対の掟。
曰く―――萩原環奈のオトコには絶対に手を出すな!
以前、北嶋とは別の環奈の彼氏が風紀委員で忙しい彼女への当てつけに、グループデートに参加したことがあった。それを後から知った環奈は、彼氏とは別れた上でそのグループデートに参加した女生徒を一人一人呼びつけねちねちと訓示をし、その後は半年近くにも渡って風紀委員の特権を使い小さな校則違反を指摘し続けたという。
新たに北嶋を彼氏にしてからはその異常行動も止んだらしいが、それを知っているからこそ、女生徒は必死で北嶋に近づかないように気を付けているのだ。
今も、その場面を目撃した女生徒が、驚きと恐怖の目を三人に向けている。
「呼び止めてごめんなさい。お大事に」
優しい声を掛けられ、葵は更に深くお辞儀した。もう最低である。どこかに隠れられるものならばそうしたい。
北嶋が再び歩き出す。運動部に所属したこともないのに、その足取りはしっかりしていた。
すっかり静かになった葵を背負ったまま、北嶋は保健室まで黙々と歩く。
―――今日は厄日だ。ちゃんと自分の役目をこなさなかったから、バチが当たったんだ。前世の記憶の中では一度もこんなことがなかったのに。
じめじめと落ち込んでいると、気付けば保健室の前まで辿りついていた。
保健室の前でようやく下ろされたので、しばらくぶりの地面の感覚にほっとする。旧校舎に入った時に履いていた外履きは昇降口に置いてきたので、靴下で降りると床はペタリと冷たかった。夕日を反射してリノリウムの床が、プールの水面のようにテラテラと光っている。
「失礼します」
二人は保健室に入ったが、保険医はあいにくの不在だった。
隣から北嶋の舌打ちが聞こえる。
「座れ」
苛立ったような北嶋の声に気圧されながら、葵は木製の古びた椅子に腰かけた。
すると向かい合ってベッドに腰掛けた北嶋に、怪我をした足を取られる。
「わっ」
葵が慌ててスカートを押さえた。傷を見るなら見るで、足を持ち上げる前に一言かけてほしかったとは、冗談でも言えない空気だ。
紺のハイソックスを手早く下ろし、北嶋が葵の足首を凝視している。
よく知らない男子に足を取られているという恥ずかしさに、葵は必死で耐えていた。
これがもし医者なら、いくらイケメンでも恥ずかしいとは思わないのに。
西日に照らされる端正な北嶋の顔を盗み見て、葵は泣きそうになった。
「…傷は、それほどひどくないな。木の破片も入ってないみたいだ。ただ、捻挫で腫れ上がっているから医者には行った方がいい」
北嶋は呟くようにそう言うと、慣れた手つきで足首に出来た擦り傷を消毒した。流石にテーピングは出来ないということで、傷口にはそっとガーゼを当て、後は保険医を待つことになった。
「あ、じゃあ一人で待てるので、ええっと先輩はどうぞ、生徒会の方に…」
戸惑いながら葵はそう言ったが、北嶋はベッドに腰掛けたまま帰ろうとはしなかった。
ただ黙って、葵を睨みつける。普段は温和な表情しか見たことのない相手だ。葵は竦み上がり、言葉を失くした。
二人の間には重い沈黙が横たわる。遠くにはランニングをしているどこかの部活の掛け声が聞こえた。たまに保健室の前を通りかかる、人の足音。誰かの笑い声。
静かになったことで、葵は否応なく数時間前の出来事を思い出していた。
背中に置き去りにした幼馴染と、可憐な転校生。
可愛くない減らず口ばかり叩く自分より、恭平だってあんな女の子がいいに決まってる。
そんなことを考えていたら、また泣きたくなった。
一体この世界はなんなのだろう。どうして何度も何度も、同じ相手に失恋を繰り返さなければならないのだろう。
そんな悲壮な考えに取りつかれていた時だ。
「お前、二年の夏草だろう」
北嶋の呟きに、葵は目を見開き顔をあげた。
まさか北嶋が、自分の名前を知っているとは思わなかったのだ。
「どうして、名前…」
「どうしてって、一年の時に文化祭実行委員の中にいただろうが。委員会の席には、生徒会役員もいた」
確かに、文化祭の実行委員会にはオブサーバーとして当時生徒会で書記をしていた北嶋も参加していたが、だからと言って一クラスから二名ずつ選出され、総勢で三十人以上いた実行委員の中からまさか自分を憶えいているとは思わなかった。
「お前、一年の癖に最後まで二年の出し物に食って掛かってたな」
過去の失態を指摘され、葵は羞恥で顔を真っ赤にした。
北嶋が指摘しているのは、去年の実行委員会での騒動だ。葵のクラスの出し物と二学年のあるクラスの出し物がカブってしまい、年功序列の慣例に従って二学年が優先となろうとしたところで、葵は徹底的に反対意見をぶつけた。
今ならば、なんとなく空気を読んで場を収めるべきだったと分かっている。
でもその時は、必死だったのだ。折角クラスの皆で話し合って決めたのだからと、どうしても折れられなかった。クラスに戻って出し物がダメになったと言ったら、クラスメイト達は落胆するだろう。その顔を見たくなかったのだ。
結局当時の生徒会長の執り成しで、葵のクラスは出し物を変更する代わりに優先的に人通りのある場所を確保することが出来た。
無茶をするなと、当時一緒に実行委員をしていた恭平に、後から窘められたのを憶えている。
―――こんなにも、恭ちゃんの記憶でいっぱいなのに。
再び悲壮な気分になって俯くと、しばらくして近寄ってきた北嶋に強制的に顔をあげさせられた。
もう大人である骨ばった手が、葵の顎を持ち上げる。
「うっ」
「なのにどうして、今日はずっとそんな顔なんだ?」
その質問をどう受け取っていいのか、葵は分からなかった。
目じりには涙が浮かんでいる。確かに泣きぬれた顔は酷い状態だろう。
「こんな顔で、悪かったですね」
「ちが―――」
その時ガラッという音がして、保健室の戸が開いた。北嶋はさっと葵から離れ、何事もなかったような顔をしている。
「あらあら、怪我なの?遅くなっちゃってごめんなさいね」
入ってきたのは中年の女性保険医だった。
北嶋は旧校舎については触れず葵の怪我について説明した後、お大事にという外行きの笑顔を置いて保健室を出て行った。




