少女の勇気とお仕事
テイトナ・パルバットは上機嫌だった。彼女は久しぶりに屋台の菓子を買い、それを味わいながら歩いている。
「あの店の果実巻きホントおいしい。店主が代替わりしてから絶対に生地が変わったよ」
テイトナは誰に言うでもなくひとり言を口にしながら、筒状のそれを噛みしめ、飲み込む。
果物の甘さと焼き生地の調和が幸せな気持ちを運ぶ。以前と比べて歯ごたえが柔らかくなっており、テイトナの好みの食感だった。
「しっかし、あのオジサン金払いよかったなー。金欠だったから助かった」
テイトナの機嫌がいい理由はそれだ。今回の仕事は極めて実入りのいいものだった。
客は、中層区の娼婦に入れ込んでしまった高級役務官。昨日の昼頃に依頼を受けた。
出張でこの街に滞在している彼は、妻の目が届かないのをいいことに連日ハメを外して享楽に耽っていたそうだ。
もちろんただの夜遊びのつもりだったのだが、気まぐれで立ち寄った中層区の娼館にて火がついてしまったらしい。
そこで出会った美しい黒髪の娼婦に心を撃ち抜かれ、毎夜その姿を想い、眠れぬ日々を過ごしていたのだとか。
その役務官は意中の娼婦の気を引くために方々で情報を集めて回り、挙句に裏地区まで飛び込んできてしまった。
渋い風貌の浮浪者を相手に『金はあるから手を貸してくれ』と泣き付く哀れな彼をテイトナが見付け、相談に乗ったという流れである。
仕事内容は単純かつ容易なもので、娼場の事情に詳しい知り合いを片っ端から当たり、話をまとめて報告しただけで終わった。
働いた時間は昨日の昼から夜までの半日。それで金旋貨を四本だ。情報収集の経費は別で受け取れたので、まさにボロ儲けである。
これだけあれば、かなり贅沢に暮らしてもひと月は持つ。しばらくは遊んで生活できそうだと考え、テイトナはだらしない笑みを浮かべた。
ここまでおいしい仕事をテイトナのような若手が取れたのは、現在この街が軽い緊張状態にあるからだった。
北から流れてきたという黒糸蜘蛛の噂は、市民から高官までを怯えさせており、先輩たちは揃ってそちらの仕事に手をかけている。
他人が怯えている瞬間こそが一番の稼ぎ時なのだと、テイトナの先輩は言っていた。安心には高値がつくのだとか。
それ以外の連中も、数週間前に謎の巨大石像を運び込むという怪しい仕事で大儲けしていたので、しばらくは娼館に入り浸りだ。
裏地区の孤児広場近くに置かれたその石像は、今にも動き出しそうな不気味さがあり、ほとんどの住民から避けられている。
そういった要素が重なった結果、今回の件がテイトナの手元に転がり込んで来たのである。
実に運がよく、時宜を得られたものだと彼女は思った。それは自分だけの話ではなく、あの役務官にとってもだ。
もし彼が先輩たちに見つかっていたなら、酒や葉っぱによって機密から夜の趣味までを全て聞き出され、街にいる間は脅され続けていたことだろう。
あの手の頭がよろしくないお偉いさん、しかもこの街の住人ではない外様というのは、裏地区の悪党にとって最高の獲物なのだから。
一人の愚か者を破滅から救い、その上で大金を得られたことに満足しながら通りを歩くテイトナは、ふと、見知った姿を視界に捉えた。
「ボヌじゃん。なにやってんだろあいつ」
テイトナの視線の先には少年がいた。二つ年下の後輩で、名前はボンデン。少し前からスリなどを始めたらしい。
後輩とは言っても、彼は駆け出しと呼ぶのも厳しい見習い未満なので、仲間内では同業者と認められていないのだが。
そのボンデンは、建物の影に身を隠して何かを観察しているようだった。獲物を狙っているのだろう。
「まーた無謀なことしてるんじゃないだろうな」
彼はとても危なっかしく見えるので、テイトナは普段から注意して見てやることにしていた。
会話をするたび胸糞悪い気分にさせられるので弟分として見ることはできていないが、それでも多少の仲間意識はある。
実のところ、年齢の割に腕そのものは悪くない。もともと手先が器用だったらしく、人混みのなかではかなりの成功率を誇る。
それでも見つかる時は見つかるものだ。子供なら見逃されることが多いといっても、相手次第で危険なのは間違いない。
テイトナは静かにボンデンの背中へと向かった。足音を立てず接近する。
そしてボンデンの真後ろについて軽く肩を叩くと、彼は跳ねるように振り返った。
「んなッ!?」
「獲物を探すときはもっと自然にやれって何度も言ってるでしょ。ボヌ」
心臓でも取られたのかというような焦り方をしていたボンデンだったが、相手がテイトナだと知り、余裕を取り戻して鼻を鳴らした。
「んっだよ、ティーじゃんか。ビビらせんなよな」
「こんなことでビビってるようじゃすぐに死ぬよ。いや、ビビってもいいからせめてニワトリくらいの注意力は持てば?」
そう言われたボンデンは面白くなさそうな顔をテイトナに向ける。言い返したいが、背後を取られたのは事実なので何も言えないのだろう。
だがボンデンは突然なにかを思い出したような表情になり、やや低めの声を発した。
「ところで、ティーって今日はかなり羽振りがいいらしいじゃん」
「なんだ、もう広まってんの? ちょっと食べ歩きしただけなのに、卑しい話だなー」
「金欠だって騒いでた癖に、いきなりどうやってそんな儲けたんだよ?」
どういうわけか、責めるような口調で聞かれてテイトナは戸惑う。まさか独り占めに腹を立てているわけではあるまい。
この街の裏界隈では、早い者勝ちも一つの約定だ。人の仕事を奪ったり妬んだりするのは裏地区共通の流儀に反する。
疑問に思いながらも、テイトナは適当に誤魔化すことにした。わざわざ教えてやる理由がない。
「あんたには関係ないでしょ。稼ぎ方は自分で覚えるものじゃん」
「……もしかして、売ったのか?」
「は?」
何を聞かれているのかわからず、テイトナは一瞬考え込む。そして少しして、その意味に思い至った。
次の瞬間、ボンデンの腹部にテイトナの拳が叩き込まれる。テイトナは膝から崩れるボンデンの襟を掴み、ゆっくりと着地させた。
「売らねーって言ってんでしょ。いい加減にしなよ」
ボンデンは呼吸困難に陥っているらしく、四つん這いのまま返事もしなかった。
彼は十三という年頃のせいなのか、こういった話をよくテイトナに向けてきた。その度に注意しているのだが、なかなか治らない。
「ホントに……そんなことばっかり言ってると女の子に嫌われるよ。実際、私にはもう嫌われてるしね」
テイトナはそう言いながら、先ほどまでボンデンが立っていた場所から通りの先を覗き見た。
この下品な少年にも命はあるのだ。分不相応な相手にちょっかいをかけ、殺されてしまうのは流石に可哀想である。
慣れるまでは自分が獲物を選んでやった方がいいのだろうかと考えつつ、通りを観察していたテイトナの全身に、突如緊張が走った。
そこでようやくボンデンが回復し、体を強張らせているテイトナに気付くことなく文句を漏らす。
「いってぇ、クソ、ありえねぇ。ティーさぁ、いちいち殴ってくんなよ。冗談なのわかるだろ」
「ボヌ。あんたが狙ってたのって、花屋の横に立ってる商人っぽい男?」
テイトナはボンデンの言葉を無視して、自分の質問を叩きつけた。ボンデンは驚いた表情を浮かべながらも、なんとか返事をする。
「え? ああ、そうだよ。商人っぽいっていうか商人だろ? 話しかけて注意を逸らしてから荷物盗るのを試そうと思ってさ」
ボンデンはそう言いながらヘラヘラとしているが、テイトナは男から目が離せなかった。
確かにぱっと見はただの若い商人だ。不自然なところはない。あえて特徴を挙げるなら、長身で体格がいいというくらいか。
雰囲気からすれば、あそこで待ち合わせでもしているのだろう。
だが、彼女の勘は違うと言っていた。多様な犯罪者が巣食う裏地区で、少女を今日まで生き抜かせてきた感覚が危険を訴えかける。
「ボヌ……あれは、やめといた方がいい」
「はぁ? なんでそんなことティーに指図されなきゃなんねーんだよ。関係ないだろ。俺の仕事だぞ」
「……」
先ほどの自分の言葉を返されてテイトナは腹が立ったが、正論だとも感じた。他人の仕事に口を出すべきではないと。
なによりも、あの男が危ないというのはただの勘だ。根拠はどこにもない。あやふやな感覚で人の行動を邪魔するなど論外だろう。
そんな思考から、テイトナは無言を続けるしかなかった。
「ま、見とけって。一発で盗ってくっからさ。多分商談の前だろうから、かなり持ってるはずだぜ。なんか奢ってやるよ」
意気揚々と建物の影から出ていったボンデンを、テイトナは追わなかった。ただの商人ならば、実際いい経験にはなる。
まあ荷物を丸々盗むのはやり過ぎなので、もし成功すれば中身を少し抜いてから返させるつもりだが。
テイトナは何かあった時に助けられるよう、準備だけしながら動向を見守る。
男の前にボンデンが立ち、話しかけた。男は笑顔を浮かべて応対しており、傍目には和やかな様子だ。
二人はそのまま会話を続けるが、男に不自然な動きも反応も見受けられない。待ち合わせの時間潰しに子供と話す、ただの商人だ。
テイトナが自分の早とちりかもしれないと思い始め、安堵と恥ずかしさを感じた時、ボンデンは男の荷物に手をかけた。
――早いって!
あまりにも性急すぎる。注意を逸らすならもっと時間が必要だ。男は別方向に顔を向けているが、すぐにボンデンの方を見るだろう。
一瞬先には取り押さえられるのを想像し、それも一つの勉強かと、テイトナは諦めにも似た感情を抱いた。
だが、
「へっ?」
意外なことに、男は気付くことなく別の方向を見続けている。
いったい何をそんなに熱心に見ているのかと思えば、いささか露出の多い服を着た女性が通りを歩いていた。
「……」
男は女性の足に釘付けらしい。
確かに女の自分から見ても、しなやかで美しい足ではあるなと、テイトナは思った。緊張が一気に霧散する。
これは本格的に自分の勘違いだったようだと思い、強いバカバカしさを感じながらボンデンを見た。
彼は足取りも軽くこちらへと向かってきている。これはまた腹立たしいことを言われるのだろうとテイトナが覚悟した、その時だった。
ボンデンの姿が、消えた。
「は? なに!?」
いや、そうではない。ボンデンを見ていたテイトナはギリギリ視認できた。
あの商人風の男が突如としてボンデンの背後から迫り、彼を抱えて路地へと引きずり込んだのだ。
そんな異常なことが行われたにもかかわらず、通行人は誰もそれを気にしていない。おそらく見えなかったのだろう。
あの男は、周囲の人間が自分とボンデンを視界から外す、その一瞬を狙って動いたのだ。テイトナも同じような技を使うので理屈はわかる。
しかしそれをあの開けた場所で、あの人数を前に成功させるというのは、とてもではないが人間業とは思えなかった。
そしてそれができるということは、テイトナが見ていたことも男は知っているはずだ。
「どう、しようか」
行くか、逃げるか。テイトナには関係ないのだから、逃げるのが最上の選択なはずだ。だが彼女は迷っている。
ボンデンは正直に言ってあまり好きな性格ではないが、あれが身寄りのない子供特有の自棄なのだとテイトナは理解していた。
生い立ちを聞けば、どこにでもいる不幸な少年だ。それがここで死んだとしても誰が気にするわけでもない。
よそと比べれば比較的治安がいいと言われるこの街においても、浮浪児が消えるくらいは日常の出来事だ。
「いけすかないガキだけど、見殺しは寝覚めが悪いなー」
だからこそ、自分が気にしてやろうではないかとテイトナは思った。彼女は路地に向かって走り出す。
嫌な気持ちを引きずって明日から先を過ごすくらいなら、危険に飛び込んだ方がマシである。それがテイトナの答えだった。
テイトナはいきなり路地に飛び込むことはせず、距離をおいて安全を確認してから足を踏み入れた。
あれだけの腕を持つ男だ。不意打ちなどせずともテイトナを殺すことは造作もないだろう。
しかし不意打ちされないように動けば、目の前に出てきてくれる可能性は増す。そして出てきてさえくれれば交渉できる。
テイトナは戦って勝とうなどとは思っていなかった。話が通じるなら対話で解決したいところだ。
自分の庭のような路地裏を進んでいくと、倒れているボンデンと樽に腰掛ける男をあっさり見つけた。
テイトナはゆっくりと近付き、両手を相手に見せることで敵意のなさを示してから話しかける。
「そいつ、殺しちゃった?」
「殺してない。気絶させただけだ。後遺症も残らないようにした」
予想外に気安い声色で話す男は、ボンデンの無事を告げる。確かにテイトナが見る限りでは死んでいない。
ボンデンの安否を確認し、会話を成立させたことで二つの山を越えた。とりあえず即死させられることはなさそうだと安心する。
「よかったよかった。そんな奴でも死んだらアレだしね」
「君はこの子の上役か?」
男はテイトナに目を合わせながら、そう聞いてくる。
もし上役だと答えたらどうなるのかと彼女は密かに震え上がり、ありのままの事実を答えることにした。
「そいつは半人前以下の素人だから上役なんていないよ。私は未熟な小僧が死なないように見てただけの、近所のお姉さん」
「死なないよう気にかけるならスリをとめてやれよ」
そう言って、男は小さく笑う。案外話しやすい奴だとテイトナは思った。これなら平和的に解決できるかもしれない。
「そいつが生きていくためには収入が必要なわけよ。シャレにならない範囲まで盗らないようにすれば、スリなんて物乞いみたいなもんだし」
「商人の荷物をかっぱらうのはシャレにならない範囲だと思うけどな」
「……そこはちゃんと教育するつもり。それでさ、ガキのやらかしたことだし、見逃してやってくれない?」
テイトナの頼みを聞いた男は、樽から立ち上がる。そしてテイトナに向かって歩き出した。
近付いてくる男にテイトナは怯んだが、ここで引いては女が廃るとの思いから足に力を入れる。
「俺は別にその子をどうにかするつもりはない。ただ、君の方にお願いがある。……結構大変なことかもしれないけどな」
怪しい笑みを顔に貼り付けて、男はそんなことを言ってくる。
これは、つまりそういう展開なのだろうかとテイトナは思った。
女の身である以上、その手の厄介ごとは避けて通れない。容姿に優れているならばなおのことだ。
テイトナは才能と運に恵まれていたために今日まで避けて通ってきたのだが、それも終わりかと諦念が浮かんでくる。
「う、恨むよ、ボヌ」
テイトナは小声で囁いた。男は目の前まで迫っている。抵抗はしないでおく。
口では恨むなどと言ったが、ボンデンのせいにするつもりはなかった。彼女は、危険を承知の上でここまで来たのだから。
男はテイトナの肩に手を置き、頬を引きつらせている彼女に告げた。
「仕事を頼みたい。成功報酬で金柱貨五十本だ」
こうしてテイトナは、昨日の儲けの実に数十倍という大仕事を引き受けることになった。