彼女の怒りと理性
アグタ・ルマイダ・ボルデットは、使獣である虹翼鳥が伝えたその報告を信じることができないでいた。
「ごめんね、ルンちゃん。もう一度確認するよ。セルくんはどうなったの?」
ルンドと名付けられた虹翼鳥は鳴き声を漏らしながら、広げた翼の色彩を使って必死に情報を伝えている。
「殺された」「人間」「一人」「セルボード」
しかしそれはやはり、ルマイダにとって信じがたいことだった。
――殺された? 鋼身熊のセルくんが、たった一人の人間に?
セルボードはルマイダが黒糸蜘蛛を狩るために連れてきた切り札だ。災厄とまで呼ばれる黒糸蜘蛛を、森林という環境で仕留め得る天災。
黒糸蜘蛛との戦いで敗れることなら彼女も僅かに考えていたが、人間がセルボードと一対一で戦い、そして倒すなど想像の埒外だった。
それ以前に、なぜこんなところに人がいるのだろうかという疑問が湧く。
混乱し、手で額を押さえているルマイダの頬を、護衛のナダロスが優しく舐めた。巨体を精一杯縮こまらせて擦り寄っている。
ルマイダはなんとか笑みを浮かべて、その大きな狼を撫でる。乱れていた気持ちが少し鎮まった。
「ありがとうね。ナディ」
確かにこういうときこそ冷静になるべきなのは間違いない。ルマイダはなんとか意識を立て直す。
そして落ち着かせてくれたナダロスに短く礼を言って、再び思索に入った。
今の時点ではっきりとわかっているのは、戦いはほぼ遭遇戦であり、仕掛けたのはセルボードからであること。
その戦いでセルボードが敗北し、命を落としたこと。そしてそれをやった人間は一人で、しかも無傷だということだけだ。
普通ならとても納得できる内容ではないのだが、他ならぬルンドがここまで言うのならルマイダは信じるしかない。
虹翼鳥は優れた知能と記憶力を持つ大きな鳥だ。成体では人の身長ほどの翼幅となる。
自在に変化する翼の色彩を利用した意思疎通を行い、その群れは高度な社会性を持つ。
そして周囲を飛行する際には地形や危険地を憶え、それを仲間と共有して地図を作り出す。
記憶力に関しては人間を上回ると言われていた。彼ら彼女らの作る地図は、見た映像をそのまま記録しているとしか思えない精度だからだ。
つまりルンドが伝えている状況はそのままの事実であり、恐怖などで話が誇張されているというわけではない。
ルマイダは再びルンドから話を聞いてみたが、戦闘の細かな流れについてはいまいち正確に掴めなかった。
「使った」「岩」「川」というような、事前に取り決めた色彩や手信号による単語の組み合わせで、ルマイダとルンドは会話する。
基本的な伝達ならそれで支障はないが、岩や川を具体的にどう使ったのかというような、特に精細な描写をするのは難度が高い。
あるいはルンドも、正確に目視できたわけではないのかもしれないとルマイダは思った。
そもそも、岩や川を使って鋼身熊を倒す方法がルマイダには想像できなかった。
鋼身熊は自分の百倍に届く重量さえ動かしてみせるし、泳ぎにも熟達している。
それらはセルボードの武器になるだけだ。セルボードを前にして水の中に逃げ込んだなら、一瞬で食い殺されてしまうだろう。
しかし、と、彼女は自分の考えの甘さを見咎めた。秘術師であるならば、川を使って鋼身熊を倒す術がないとは言い切れない。
極めて大量の幻惑薬か何かを吸わせてから水中に誘い込めば、溺れさせることは不可能ではないのかもしれなかった。
それを突発的な戦闘で、馬より速く走るセルボードに襲われながらできるのかといえば、ルマイダには無理だ。しかし彼女の本業は獣操である。
凄腕の秘術師ならば可能性があるのだから、その方向で相手を想定しておくべきかと、ルマイダは相手の戦力を思い浮かべていく。
仮に鋼身熊を倒すほどの秘術師が相手なら、ルマイダが全力を尽くして戦っても勝てるかは微妙なところだ。
彼女の知識にない秘術を使われれば、下手をすると近付くことさえできず精神を操られてしまうかもしれない。
事前情報がなければ極めて対処困難なのが秘術というものである。
そうして相手の強さを推し量ろうとしているルマイダだったが、それに大きな意味があるとは言えない。
ルマイダが今ここにいる目的は黒糸蜘蛛の討伐だ。切り札を失った彼女が考えるべきなのは、いかに素早く撤退するかということ。
それはルマイダ自身も、頭では理解していた。
「セルくんがやられちゃったなら、逃げるしかないよね……悔しいけど」
セルボードが殺された。それを明確に実感すると、ルマイダの胸は軋みを上げる。
彼女とセルボードは十年近い付き合いだ。十八の時に仲間となって以来、多くの時間を共有してきた。
長らく自身に付き従い、忠誠を誓っていたセルボードのことを、ルマイダは家族だと思っていた。
先に襲いかかったのはセルボードだ。返り討ちにされたことを恨むのは明らかに筋違いだろう。
それがわかっていてもなお、割り切ることができないのは人間性と言うべきなのか。
ルマイダは沈静用の粉末術薬を取り出し、手の甲に乗せて鼻から吸引した。煮える激情を胸の奥へと沈めようとする。
背筋が凍りつくような感覚と共に怒りが鈍る。そうして無理やりに冷やした頭で、彼女は撤退を決めた。
任務の達成が不可能になった以上、とにかく一度コイラに戻り、雇い主に状況を伝えるのが先決だ。
セルボードの遺体を置いていくのは辛かったが、今は耐えるしかない。必ず戻ってきて弔おうと彼女が誓った、その時だった。
バキバキという何かが折れる音が辺りに響いたあと、真後ろで鳴った着地音を、ルマイダは聞いた。
「……え?」
ルマイダの口から間抜けな声が漏れる。状況を把握できていない。
ただ、背後を取られたことはわかった。何者かの手が彼女の肩に置かれているからだ。
「な、なにが……」
咄嗟に振り返ろうとしたが、ルマイダの体は動かなかった。肩を押さえつけられているのかと考えて、しかしそうではないと気付く。
単に、体が恐怖で凍りついているだけだった。
それを理解した彼女は、なんとか視線だけを動かして使獣達を見る。
ナダロスとルンドもまた動かず、その場で威嚇音を出している。いま動けば、主人の命が刈り取られることを理解しているからだ。
極めて知能の高い一匹と一羽は、状況を打破する方策をなんとか捻り出そうとしていた。
「鋼身熊は精神的に脆い」
ルマイダの背後に立つ何者かが自然な口調で喋り出した。
男、それも意外なほどに若い声だ。
「体液装甲越しの衝撃にはある程度慣れてるが、それ以外の強い刺激を感じるとすぐに逃げ出す」
話しているのは西部通商語だった。雰囲気は穏やかで、害意があるようには思えない。
しかし、
「そんな鋼身熊が、極度の苦痛に曝されても戦意を失わなかった。つまり獣操術師に調教された使獣ってことだ」
男の言葉を聞くルマイダの体に、力が入っていく。
緊張が理由ではない。沈めていた激情が浮かび上がってきたからだ。薬物による鎮静効果の残滓さえも、今はなんら意味を成していなかった。
――こいつが、
「その鋼身熊の近くに見慣れないデカい鳥がいれば、それも使獣だと思うよな。だから……」
「あなたがセルくんを殺したの?」
被せるように言い放った。彼女の中にあった恐怖はなりを潜め、残ったのは敵意。
ルマイダは体を動かさず、指先だけで手首に仕込んだ磁器筒を取り出している。相討ちになら持ち込めるかもしれないと考えて。
「……セルくんってのは、あの鋼身熊のことか?」
「そうだよ」
ルマイダが死ねば、ナダロスとルンドは確実に男と戦う。秘術で動きを鈍らせることができたなら、使獣たちを死なせずに済むかもしれない。
そんな合理的にも見える思考は、実際は戦闘の正当化でしかなかった。この状況で最善を選ぶならば、まずは交渉だろう。
だが、既にルマイダの体は切り替わっていた。彼女に備わった才能が発現する。
他者の気配を正確に知覚し、掌握する能力。彼女が強者である理由の一端。
空気が張り詰める。男もルマイダの変化には気付いているはずで、開戦は一瞬先だと予見する。
手の中の磁器筒が、砕かれるその瞬間を待っていた。
「俺が殺したよ。挑まれたからな」
その言葉を聞いて、ルマイダの体が再び固まる。
気負いのない、ただ事実を伝えてくるその言葉が、彼女の理性を殴りつける。
「あいつは俺に戦いを挑んだ。逃げることは簡単だったが、それは俺の誓いに反する」
そしてそれが決定打となった。
極限まで張り詰め、一つの目的に向けて研ぎ澄まされていた感覚が萎えていく。
力が一気に抜け、彼女は危うく磁器筒を落としそうになった。なんとか掴み直す。
割れてしまえばとても大変なことになる。一瞬前まで、とても大変なことにしようとしていたのだが。
ルマイダは、もう自分から仕掛ける気にはなれなかった。怒りに我を忘れたところで事実が変わることはない。
彼女には、何よりも先に言わなければならないことがあった。
「……私の使獣があなたを襲ったことは謝るよ。ごめん」
最低限、そこについて謝罪しておくのが筋だろうと彼女は思う。
未だに胸の内の敵意は燻ってとどまらないが、それでも人として必要な礼儀はある。
理性を失った自分を、セルボードは好いていてはくれないだろうと、ルマイダは感じていた。
「別に謝らなくていい。もし敵討ちがしたいなら相手をしてやるぞ」
男は軽い声でそんなことを言う。
言葉だけ見れば冗談なのだが、その気配はルマイダの才能を通して見るまでもなく、明らかに本気だ。
もしかしたら北の闘国の戦士なのかもしれないと彼女は思った。
こんな割り切りの過ぎる死生観、戦闘観を持っているのは、あの国の人間くらいのものだと。
「……敵討ちは、やめとく。それは筋が通らないし」
ルマイダは努めて冷静な声を作りながらそう言った。凛としていることが、ここで自分が張れる唯一の意地だと思っていた。
彼女は体ごと振り返り、獣のような姿の男を強く見つめながら付け加える。
「あなたが私を殺そうとしてくれるなら別だけど」
そんな冗談のようで本気の意思を込めた言葉をぶつけ、それをとりあえずの意趣返しとしたのだった。