襲撃と迎撃
俺の特技の一つに、自分の動きを記憶しておくことで移動距離を測れるというものがある。
歩数は常に無意識に近い領域で数えており、減速や停止、加速や跳躍の回数も覚えている。
その特技は、今の時点で五十キロメートルほど消化したと俺に伝えていた。先ほど太陽が登り切ったばかりなので、かなり順調なペースだ。
これなら予定通り、今日中に森を抜けられるだろう。森を抜けても街までは結構な距離があるので、到着するのは明日になるが。
ちなみにキロメートルとはいっても、この世界にメートル法があるわけではない。
前世と比較できる物や人間の身長などを見て、俺の主観で大雑把に判断しているだけだ。
こちらにも当然さまざまな単位が存在しているが、頭の中で考える時は前世のものに換算してしまうことが多かった。
生まれ変わって二十年以上経過していながら、以前の感覚が強く残っているのも不思議な話だ。
生まれ変わりというのはそういうものなのだろうか。
そんなことを考えつつも、俺の動きが鈍ることはない。人が踏むには適していない足場を機械的に処理していく。
襲いかかってくる獣はまったくいなかった。
この辺までくると凶暴な奴が少ないというのもあるが、俺の全身に染み込んだ魔獣の死臭が主な理由だろう。
昨日倒したイカはもちろん、それ以外にも小型なものから大型なものまでを殺しまくっている。
それらの血の匂いが忌避剤のような効果を発揮して、雑魚を遠ざけているわけだ。
道のりが楽でいいなと思いながら、木の実を口に放り込んだ。
更に果実を握り潰して果汁を飲み、軽快に歩を進めていると、ふと違和感に気付く。
「なんか、気配が偏りすぎてないか?」
つい、ひとり言を口にしてしまう。孤独に慣れるとこういう癖が付いてしまうのが困り物だ。
「何かいるのか。それにしても不自然だな」
大型の魔獣などがいる場所からは多くの動物が退避する。それによって森の生息音が偏るのはよくあることだ。
しかし俺の視線の先から感じる音の偏りは、どうにも極端すぎるように思えた。
大抵の動物は狙う餌が決まっている。虫や小動物、中型生物までも見境なく食らい尽くすようなのは滅多にいない。
それゆえに、一定の範囲にいる全ての生物が逃げ出すようなことはそうそう起こらないのだ。特殊な何かをされない限りは。
その特殊な何かとは、まさに昨日イカがやっていたような識別型威嚇音であったり、排除用の忌避剤を散布することなどが該当する。
その手の能力を持つ魔獣が来ているのかもしれない。昨日もなぜかイカがいたし。
「いずれにしても、今の俺にはあんまり関係ないか」
現在の俺は街を目指してハイキングしているところだ。喧嘩を売ってくるなら買うが、積極的に挑発するつもりもない。
何かいるっぽい場所はここから見て北西の方向だ。無視して進めばぶつかることもないだろう。
俺は気にせず移動を続けた。
――――
少し進むと広めの川を見つけたので、ここで休憩することにした。ひときわ巨大な岩に腰掛け、水を飲みながら一息つく。
昨日の川もそうだったが、周囲には岩が多い。元は今よりも川幅が広かったのだろう。
この異界森林では川の水量変化が多いのか、こういう開けた岩場になっている地形が結構ある。
緩やかな川の流れを見つめながら、甘い蜜の出る花をむしゃむしゃと噛みしめる。甘みと香りの強いこの花はおやつに最適だ。
いくらか飲んだところで水筒が空になった。さっさと水を補給してしまおうと岩から飛び降り、川に近付く。
乾かした木の内皮を、水筒の口に被せて水を汲み、そのあと水筒に消毒草の絞り汁を一滴入れておいた。
こうすればわざわざ火を焚いて沸騰させなくとも安全に飲むことができる。
絞り汁を混ぜたことで強い苦味を含むが、それも甘い花を噛みながら飲むことで丁度いい塩梅となるのだ。
ひとしきり休憩したので、ついでに食事にしようかと思い立つ。時間的にも丁度いい。
森の適当な木から長さのある枝を折り取り、ナイフで小枝を払ってから先端を尖らせることで、即席の槍を作った。
ざっと三メートル近いそれを逆手で肩の上に持ち上げ、川岸にて水面を注意深く探る。
キラっと光った瞬間、素早く槍先を突き出す。結果は……外れだ。
小癪な魚め、と気合いを入れ直し、再度狙いを定めて木槍を突き込む。外して、また突く。
それを何度か繰り返し、やっと一匹を獲得した。
川岸から水中の魚を突く漁法は極めて難易度が高く、食料を得る手段としては非効率だと言い切ってしまってもいい。
しかし魚の動きを予測しながら攻撃に繋げるのはいい訓練になるので、俺はこのやり方を好んでいた。
加えて、この川の魚は活きがよく、動きが鋭い。思いのほか楽しかったので熱中してしまう。
そうしてしばらく魚獲りに興じ、数匹の魚を確保したところで焚き火の準備をすることにした。
火付けが面倒に感じたが、美味しい焼き魚のためだと思えばさほどの苦でもない。
俺は燃料を求めて森の方へと歩き出し――ほんの数歩で動きを止めた。聴覚に意識を集中する。
およそ気配と呼ばれるものの中で、音は特に重要な情報だ。目を閉じ、より感覚を研ぎ澄ましていく。
気配を探り終えた俺は、ふと空を見上げる。
太陽の位置からして、俺の足なら夕暮れ前には森を出られたんだろうなと思った。
もしかしたら近くの集落まで行けたかもしれない。もう無理そうだが。
なぜなら、例の奴が凄まじい勢いでこちらへと向かってきているからだ。生物の逃げ惑う音が嫌でも接近を伝えてくる。
「なんでこっちに来るんだよ」
ため息が漏れた。
どういうわけか、その気配は俺が通ってきた方向から近付いてくる。どこかで匂いでも見つけたのだろうか。
先ほど俺とすれ違ったこいつは、進んだ先で俺の通り道に差し掛かり、そこで匂いを感知して反転してきた。
おそらくはそんなところか。強力な魔獣の死臭が染み込んだ俺を狙う辺り、こいつも結構な大物なのだろう。
このままならもうすぐ対面することになる。
逃げるのは容易だが、挑んでくる敵と戦わないのは俺のルールに反するので、ここで迎え討つことにした。
先ほど腰掛けていた大岩に近付く。直径が俺の身長の倍以上あった。川からそこそこ離れていて、岩場の高い位置に鎮座している。
接地面は斜めになっていた。下にも更に岩があり、地面にめり込んでいるわけではなさそうだ。
これならいけるだろう。相手がどんな奴かは知らないが、この岩を上に落として潰せば多分死ぬ。
問題はこれを動かせるのかということだが、そういうのは馬鹿正直に自分の力でやる必要はない。
魔獣は大抵パワーに優れるので、今こちらに向かっている奴に殴って転がして貰えばいい。
そして『運悪く』下敷きになってくれたなら、それで終わりだ。上手くいけば、大して時間を取られず済むかもしれない。
悲観的になっていた俺の心に光明が差し込んでくる。ありがとう大きな岩さん。
感謝をしつつ、俺はご機嫌で来訪者を待った。今から潰されるのだとも知らずに哀れな奴だ。
少しして、そいつは姿を現した。森から抜け出て岩場に立ち、こちらを凝視している。
闇色の滑らかな毛並み、毛皮に覆われていながらも隠しきれない膨大な筋肉、刃物のような牙と爪、そびえ立つ巨躯。
ひとたび人の地に踏み入れれば、千や二千は容易く殺害する怪物。街一つを滅ぼすこともある、天災と同列に語られた恐怖の獣。
それは鋼身熊と呼ばれる魔獣だった。俺は鎧クマと呼んでいる。
「何故こんなところにいるのか」
昨日も同じことを思った気がした。異界森林の生息分布はボロボロ。いや、それは元からか。
本来こいつは南西の大山脈か、異界森林の深部に住むはずなので、こんな浅瀬にいるのはおかしい。
生息地から移動してきたにしても、この辺りまで来るなら北東か南東からだ。こいつさっき北西から進んできたぞ。
まあ、そうは言ってもいるものはどうしようもない。予定が大きく崩れるのも確定したことだし、諦めて相手をしよう。
「おう、かかってこいよ」
一応、自分ルールに従って声はかけてみたが、既に全力疾走でこちらに向かってきているので意味はなさそうだ。
直線距離で残り六十メートル前後。奴は起伏の激しい岩場を駆けているが、それでもここまで五秒はかからないだろう。
俺は先ほどまで遊んでいた木枝の槍を掴み、大岩の上に駆け登った。実に三秒強という自慢の早業だ。
直後、クマが大岩の下部に着弾する。発破でも行ったのかというような爆音が響く。
もし岩に乗ったままなら、衝撃で足が使い物にならなくなったかもしれない。しかし俺は既に跳んでいた。
他の岩を経由して数メートル離れた位置に降り立ち、更に数歩跳んで、傾ぐ大岩から距離を取る。
当然のように追いかけようとするクマだったが、たったいま自分が体当たりし、衝撃で滑り落ちた大岩に潰された。
鈍く大きな音が辺りに満ち、粉塵が巻き起こってクマの姿は見えなくなる。
あの大岩は綺麗な球体ではないが、大雑把に球形と考えて計算すればざっと八十トンくらいの重さはあるはずだ。
それに押し潰されて生きていられる動物は多分いないだろう。熊であるならば、平べったくなって死ぬだけだ。
以前の世界でなら、だが。
土煙の中で影が動く。実はギリギリ避けていたとか、そんなオチではないとわかる。
奴は、八十トンの大岩に下敷きにされた状態で体を動かしている。
いや、体を動かすなんて生易しいものですらなかった。
風が吹き、視界が晴れたそこには、大岩を力尽くで持ち上げて脱出しようとしているクマがいる。
奴が動かしているのは岩そのものだった。既に大きく傾いており、あと数秒で横に転がりそうだ。
クマと目が合う。怒りに燃える瞳だった。
それを見た俺は、クマに背を向け全力で走り出す。
川に飛び込み、泳ぎ出したところで後ろから衝撃が届く。岩を転がし、斜面の下に落として脱出したのだろう。
続いて咆哮が聞こえた。随分とお怒りらしい。俺が中ほどまで泳いだ辺りでクマも川に入ってくる。
熊は猛獣の中でも泳ぎが上手い部類に入る。全身が鎧のようなあのクマも、それは変わらない。
さほど流れの早くない水面をグングンと近付いてくるのがわかる。俺の方は、普段よりもかなり遅かった。
俺はそこで泳ぐのをやめて奴に向き直った。もはや目の前、五メートルも距離はない。緩やかに流されながら、迫り来る巨体を見つめる。
足の着かない川の中ほどで、奴は俺を殺すために口を開いた。頭と胴体が、水面に対して平行になった状態でだ。
その瞬間、俺は水中に隠していた木槍を突き出した。
口を開けたクマの喉からその奥まで、一気にねじ込む。悲鳴を上げることもできないだろう。
呼吸のタイミングを見極め、咽頭側に押し付けるよう突っ込んだ槍が、何かを通り抜けたような感触を伝える。
うまく気管に入ったらしい。これで終わりだ。
身体中を満たす反応硬化液によって筋肉や皮膚を鋼の骨格と変え、眼球ですら刃を通さないこいつにも弱点はある。呼吸器だ。
クマが自由に動ける状態なら口の中を攻撃しようとしても反撃されるし、そうでなくとも呼吸器を狙うのは難しい。
しかし泳いでいる状態で口を開かせれば、喉の奥が丸見えになるのでこういう攻撃が可能になる。
喉に異物を押し込んだのでかなり苦しいだろう。そして苦しさに暴れて頭が水に浸かれば、弁が開きっぱなしになった気管から肺に水が流れ込む。
そうして必殺の一撃を加えた俺だが、しかし僅かに驚いていた。クマの目から戦意が失われていない。
喉の内側を攻撃されても泳ぐことをやめず、水面に浮かび続けていることに驚きはない。
鋼身熊は嘔吐反射や屈曲反射というような、生理的な防御反応を強引に抑え込む能力を持っている。
だがそれは苦痛に対して強いということでも、怯まないということでもない。むしろこいつらは予期せぬ痛みや不快感にとても弱い。
理由は単純で、防御能力が高すぎてまともにダメージを受けることが滅多にないからだ。
ゆえに苦痛を感じたときの反応は過敏。よほど興奮していても一気に逃走へと転じるくらい精神的に打たれ弱い。
にもかかわらず、こいつは少しの恐れも見せることなく、渾身の殺意を秘めた目で俺を見つめている。
今も苦痛が理由で襲いかかってこないわけではない。単に喉に突っ込まれた木槍を俺が持っているので、これ以上近付けないだけだ。
次の瞬間にはその短剣のような爪で障害物を切断し、俺を引き裂こうとするだろう。
水面に浮かび、俺が先に流されているこの位置関係では、前後左右に泳いで逃げるのは不可能だ。一瞬で追い付かれる。
俺は両手で掴んでいた木槍から手を離す。これで両者を遮る物はなくなった。
そして奴の動きに先んじて体を反転させる。前後ではなく、上下にだ。
熊は泳ぎが得意だが、人間だって負けてはいない。
様々な生物を模した泳法。それらの技術の蓄積は、人体での高度な水中機動を可能とさせる。
全身を波打たせるようなイメージで、しかし上体は極力揺らさない。
波打つ感覚は骨格筋の躍動であり、流線型を崩すことなく下半身に力を伝える。
骨盤から下を尾ビレに変え、高サイクルで水を押し出す反作用は圧倒的な推進力を生む。
これこそが日本にて考案され、潜水距離に制限を付けられなければ世界記録を量産する泳法、ドルフィンキックである。
俺が知る限り、人間が水中で行い得る最速の泳ぎ方だ。
クマには俺が消えたように見えただろう。奴の爪が俺を捉えるよりも速く水中へ潜り込み、真下を抜けて後ろへ出た。
俺が水面に顔を出した音が聞こえたなら、奴もこちらへ振り向こうとしているかもしれない。
それを確認することなく、そのまま岸まで泳ぐ。飛び出した木に掴まり、川から上がって振り返ると、力尽きたクマが沈んでいくところだった。
肺が水で満たされたのだろう。俺を追おうとして動いたのがトドメになったな。
俺は水面を見つめながら、なかなかにガッツのある敵だったと感じ入る。
戦闘自体は読み通りに進んだので特に焦りどころもなかったが、あの真っ直ぐな殺意には多少ビビらされた。
久しぶりに尊敬の念が湧いたので、見えなくなったクマに向かって短く黙礼しておく。
それにしても、魚獲りのために木槍をこしらえていたのはかなり運が良かった。あれがなければ結構苦労したはずだ。
泳ぎで撹乱して注意力を奪い、溺れさせて沈める持久戦を選んでいたなら、おそらく疲労で一時的に動けなくなっていた。
それでは困るのだ。今から飼い主に会いに行く必要がある。
見上げれば、デカい鳥が彼方へ消えていくところだった。あんな鳥は見たことがない。これは確定だな。
俺はずぶ濡れの体に構わず走り出した。鳥が飛び去った方向ではなく、北西に向かって。
久し振りの対人モードに精神を入れ替えて木々の間を駆け抜ける俺は、抑えきれずに笑みを漏らしてしまった。