脱、引きこもり宣言
無事にイカを仕留めた俺は、そのまま解体作業に取りかかった。
斬撃、刺突、固定式投射兵器の射撃まで、様々な攻撃を防ぎ切って見せるイカの外皮は貴重な素材であり、肉を取るためにも剥がす必要がある。
しかし刃物を通さないその強度ゆえに、作業には技術と根気が求められた。
胴体の裾から、皮と肉の隙間にナイフを刺し込んでせっせと切り剥がし、腕の長さの限界まで深く抉る。
手が届く部分を全て剥がせたら、生木から折り取った枝を支えやテコに使い、脱力したイカの死体をなんとかひっくり返す。
この時、既に剥がした部分を引っ張って、できる限り裏返しておくのがキモだ。
イカの胴体は縦長が四メートル以上あるので、裏表を交互に剥がしながら少しずつめくっていく。
ナイフを石に擦り付け、残り少ない刃の寿命をすり減らしつつ切れ味を回復させたり、腱鞘炎になりそうな腕を土で冷やしたりすることしばらく。
ようやく剥ぎ取りが終わり、食べる分の肉を削ぎ取って回収した。
本当は触手や触腕、内臓の一部にも貴重な素材が埋れているので、捨てていくのはかなりもったいない。
皮を剥いで肉を一通り取ったあとは、残りを全て炉にぶち込んで灰にするのが正しい処理方法である。
しかし俺の体重の十倍はあるだろうイカを丸々運ぶのは不可能だったので、外皮以外は諦めた。
というか、外皮だけでも死ぬほど重い。マッチョな大男の体重並みだ。
それを抱えて近くの川岸までえっちらおっちら歩き、岩場に投げ落として一息つく。
「あー、疲れた。一人でやるとかなり大変だな。やっぱり狩人さんたちは偉大だった」
イカとの戦闘は何度か経験しているが、今まではその道のプロが代わりに処理してくれていた。
自分でやってみると大変さがよくわかる。戦うだけでよかった頃が懐かしい。
俺は他人のありがたみを噛み締めながら少しだけ休憩し、作業を再開する。
次にやるのは簡易焼却炉の準備だ。広めの岩の隙間を探し、火床に適した場所を見つけ出す。
大岩と大岩の間、屈んだ俺がすっぽり入りそうなそこに、小岩を積んで燃料スペースを作った。
あとは粘土を取ってくればよりベストに近付くのだが、そんな元気は残っていないので上から岩を乗せるだけで我慢する。
力強い炎を得るのに必要なのは、充分な燃料と酸素と熱だ。
この簡易炉は側面下部から空気が吹き込んで火の勢いを強めてくれそうな感じになっており、高い火力が期待できた。
ただし空気が吹き込むということは温度も上がりにくいはずなので、火を安定させるのには苦労するだろう。
上に岩を置いたのは少しでも熱を閉じ込められるようにという努力だ。
まあ岩で作ったものなので、一度炉内が熱を持ってしまえば燃料が尽きない限り高温を維持できると思う。
乾燥した枝を大量に集め、ナイフで削ったり切ったりしてから炉内の燃料スペースに並べる。
ここに火を付けるわけだが、俺が愛用していた火打石は一ヶ月ほど前に紛失していた。
なので最近は、極めて原始的な火溝式で火種を得ている。
探せば代用の火打石くらい見つかるのかもしれないが、面倒だったのでこれで通していた。体も鍛えられることだし。
地面に固定した太い枝に全力の勢いで細い枝をこすり付けると、十数秒で煙が上がる。
細かく削り出しておいた木屑を煙の元に乗せて、少し待つ。煙が大きくなったところで静かに息を吹き込むと、小さな火が誕生した。
それを炉内の枝にくべ、数十秒もすれば立派な炎へと進化する。俺の火付けの腕も随分と上達したものだ。
いったいこれで何を燃やすのかといえば、たったいま持ってきたばかりのイカ皮だ。
このイカ皮には、巷で黒糸と呼ばれる高級物質が内蔵されている。不要なタンパク質を灰にして、それを取り出す。
それなりに時間をかけてキャンプファイヤークラスまで成長させた炎の中に、丸巻きにしたイカ皮を投入する。
この火力なら、完全に焼き尽くすまで三、四時間といったところか。燃料を絶やさないよう注意しなければならない。
簡易炉から二十メートルほど離れた位置に焚き火を作り、そこを待機場所と決めた。
金属製の水筒で川の水を汲み、蓋を閉めず焚き火の横に置いておく。沸騰したら川で冷やして飲む。
とりあえずやることは終わらせたので、森の中から果実を摘み取ったあと、下半身の革ツナギを脱ぎ捨てて川に飛び込んだ。
全身がイカの血とイカ臭にまみれて実に不快だった。綺麗好きな俺としては耐え難い。
水中でざっと汚れを落として浅瀬に戻り、さっき摘んだ果実をすり潰す。
これは果汁と水を混ぜると洗剤代わりになる便利な果実だ。すぐにふわふわと泡立ち、ややツンとした匂いが鼻腔を刺激する。
普段より長めの時間を使って体と下着を洗い終え、全裸で川岸に戻った。
革ツナギは後で灰を使って洗う。革製品の扱いとしては最悪だが、まあ今更だ。
タオルなどないので、裸のまま焚き火で乾かすしかない。暇なのでポージングしておく。サイドトライセップス。
下着の布がある程度乾いたら下半身に巻きつけて股間を覆う。二ヶ月も同じ物を使っていると、ちゃんと洗っていても嫌な気分になるな。
そして水浴びですっきりしたら腹がすいてきた。お待ちかねのイカ肉を調理しにかかる。
痛みに痛んだナイフで無理やり抉り取ってきた肉を更に切り分け、砕いた岩塩を塗り込んでから鉄串で刺し貫く。
それを焚き火で適度に焼き、火が通った側から口に放り込んだ。薄い旨味と塩味が口に広がる。美味い。
この巨大イカの肉は、海産のそれとは随分味が違う。なんというか、前世のオーストラリア旅行で食べたワニに近いかもしれない。
ワニと違うのは独特な食感があることだろうか。弾力に富んでいて食べ応えがある。
やや臭みもあるが、塩でごまかせる範囲だ。巨大なイカは臭くて食べられた物じゃないと聞いたことがあったのだが、こいつはそうでもない。
冷やした水筒から水を飲み。大きく息を吐き出す。
食事はいいものだ。孤独な森の中だと、娯楽なんて食べることくらいしかないからな。
だが、
「それも明日までだ」
俺は森を出ることを決めていた。理由はいくつかある。
前々から引きこもりを卒業したいとは思っていたが、やはりきっかけとなったのはイカの存在だ。
今まさに焼いているイカ皮からは、黒糸という繊維が採取できる。
これは黒糸蜘蛛の防御力や瞬発力、擬態能力などの根幹を成す物質であり、尋常ではない引っ張り強度と耐破断性を持つ。
具体的には、髪の毛一本程度の太さの黒糸で大人一人を完全に支え切ることができる。しかも動的な荷重でだ。
その性質から城や船などの建材として需要があり、場所を選べば大型船とも交換できる価値を持つ超レアアイテムである。
俺はこれを使って大金を獲得し、装備を一新しようと考えていた。
消耗の速いナイフを騙し騙し使うのにはうんざりしていたし、数年前に特注した革ツナギはボロボロで蛮族ファッションだ。
靴は擦り切れて使えなくなったので、破れたツナギの革を足に巻いて代わりとしている。
マントも失ってしまい、上半身裸のまま葉っぱに埋れて眠る生活を何ヶ月も続けていた。風邪を引いたら大変だ。
今の俺には、人の叡智の結晶である洗練された装備がただちに必要なのである。
それらを黒糸を売った金で購入したい。
実のところ、この異界森林には黒糸よりもレアリティの高い物品は結構存在する。それらを狩るのも難しいことではない。
ならなんで黒糸なのかと言うと、繊維であるために極めてコンパクトで運びやすいというのが主な理由だ。
巻き取るなり畳むなりしてしまえば、革ツナギのカーゴポケット内に収まる大きさなのが魅力。
一番近い人里まででも百キロメートル以上の距離はあるので、重いものを担いで移動する気にはなれない。
しかしそのコンパクトな黒糸とはいえ、今の俺の立場だと売却は容易なことではなかった。
俺は自慢ではないが指名手配犯だ。しかも一部の国では生死不問の賞金首。
まあ指名手配とは言っても、顔写真が出回り、普段から捜査されるような文明レベルではないので、街に短期間忍び込むくらいなら問題はない。
だが、このクラスの魔獣素材を持ち込んで買い手を探すとなれば話は別。確実に身元を探られ、下手をすれば面が割れる。
「どうすっかな」
異界森林西部のここから北に行けば、複数の部族が群雄割拠しながらも戦神によって治められる戦いの国、闘国がある。
南には、異界森林によって遮られた東西の流通を握る商会連合国家、商国がある。
西側には現在もっともイケイケフィーバーな帝国主義的軍事国家、将国がある。
南西方向に屹立する大山脈を伝っていけば、大山脈に守られるようにして地中海に浮かぶ半島都市国家群がある。
森を出てすぐに足を踏み入れることになるのはこの四国だが、いずれの国も俺を探し回っているはずだ。
特にヤバいのが将国。ほんの一年ほど前に、あそこの国家元首を殺ってしまっていた。
あれには深く悲しい事情があったわけだが、どう言い訳したところで頭を殺された配下たちが納得してくれるはずもない。
当然のように大軍を使って追い回され、この森まで逃げ込むことになった次第だ。
多分今も血眼で捜索を続けていることだろう。
しかしながら、距離的に楽なのも将国だった。
現在地から西に百数十キロメートル進めば、将国東部開拓領の領都、コイラに辿り着ける。
あそこの都市規模なら黒糸の売却も装備の特注も可能だ。
他の選択肢といえば南の商国になるが、数百キロメートルは走らなければならない。凄く遠い。
「やっぱ将国が妥当か」
風貌書程度なら、服装と髪型が違えば誤魔化せると思いたい。肖像画のモデルを全て断っていたのは我ながらファインプレーだった。
黒糸を相場で売るのは諦め、裏取引ができる相手に足元を見られつつ捌く。その金で人を雇い、正規市場で装備の注文を代行してもらう。
よく考えなくてもハイリスクな案だ。途中で俺だとバレれば即通報は間違いない。
装備の特注を他人に代行をさせれば金を持ち逃げされる危険があるし、そうでなくとも大口取り引きは目立つ。
それ以外にも、予期せぬトラブルはいくらでも出てくるだろう。
「でもまあ、そんなこと言ってたら何もできないしな」
行動しない理由を考えるのは簡単だが、それに従っていてはジジイになるまで森暮らしである。
何かを得るために苦労するのは当然のこと。想像上の失敗に縛られるのも馬鹿馬鹿しい。
背に腹は、とか虎穴に入らずんば、とか言うやつだ。ちょっと違うかもしれないが。
とりあえず将国で黒糸の売却を頑張る。
もし素性が割れたら金品を持って森に逃げ込み、南に抜けて商国で装備を作ればいい。
これでいくか。
だが、できる限り見つからないように注意はしようと思う。
一年前の戦闘では、ざっと百人以上を殺してしまった。わざわざ街まで出向いてその続きをするのは心が痛む。
相手の顔を覚えていられるサシの戦いならともかく、乱戦だと作業的に死体を積み上げることになるので申し訳なさが湧いてくるのだ。
「とりあえず今日は寝て、明日の夜明け前に出発するか。一日あれば森を出られるだろ」
そうして今後の方針を決めた俺は、炉に燃料を投げ込みながら明日のスケジュールを煮詰めていく。
――――
薄闇の中、木の上で寝ていた俺は目を覚まし、素早く全身の状態を確認してから飛び降りた。
岩場と森の境界で、川の水面を照らす月明かりを見ながら周囲の気配を探る。
不自然なところは……ない。朝を待ち望む独特の雰囲気だけが森を覆っている。俺が起きるのはいつもこの時間帯だ。
安全を確信したので、グッと体を伸ばして柔軟運動を始める。
活動の低下した内臓や筋肉、そして脳に血を巡らせ、すぐにでも戦えるように切り替えていく。
前世で見たことのあるヨガをストレッチに取り入れてみたが、なかなかいいものだった。
地面に膝をつき、上体を大きく仰け反らせて足裏に手を置いた姿勢。
ウシュトラーサナ、いわゆるラクダのポーズで静止すること十秒。先ほどまで寝床にしていた木が見える。
生えっぱなしの木の枝を使ってベッドを作り、枝葉を布団代わりに眠るのも慣れたものだ。
この森には強力な虫除け草があるので、虫害に悩まされることもない。
柔軟体操によって体を戦闘可能な状態にセッティングすると、空腹が際立った。さっさと朝食に入る。
昨日の内にスモークしておいたイカ肉をメインに、木の実や果実、香草を味わってから水で流し込む。
手軽な燻煙で保存食にするのは難しいが、一日くらいなら持たせられる。いいスモークチップがなかったので、あまり風味はよくなかったが。
食事を終えた俺は川で洗顔と歯磨きを行い、地面を軽く掘って排泄も済ませた。
いつもなら、この後は筋トレして獲物を探して戦って殺すという流れになるが、今日から楽しい旅行なので修行は一旦お休みとする。
代わりに、一晩中楽しみにしていた焼却炉へと向かった。
寝る前に焼却炉へ大量の石を投げ込んで消火しておいたのだ。もう炉内も冷えている頃合いだろう。
川岸に着いた俺は炉の中を覗き込み、昨日投げ入れた石を取り除く。
そして残った灰の中を木の枝で探り、引っかかったものを慎重にすくい上げた。
引っ張り出して灰を落とせば、黒く輝く網状のシートが姿を現す。これこそが、大型戦船とさえ交換できると言われた黒糸である。
こいつの採取現場には過去何度か立ち会っているが、やはり最初から最後まで自分が処理したものはワクワク感が違う。
しばらく感慨に浸っていたいところだが、今日の予定を考えると時間が惜しいのでさっさと片付ける。
黒糸を畳み込み、革紐でぐるぐる巻きにするとポケットに収まるサイズにまで小さくできた。
それを左太もものカーゴポケットに入れて、足の動きを確認する。これなら邪魔になることはなさそうだ。
空が白み始めたので、出発前に消耗品を確認しておく。
洗剤果実や虫除け花、消毒草に濾過フィルターになる木皮、岩塩の入った容器などなど。
これらの生活必需品を右のカーゴポケットに放り込み、腰ベルトの左側にナイフシースを付け、刃の傷んだナイフと鉄串を差し込む。
そしてベルトの右側に水筒を固定すれば準備完了。
もう間もなく夜が明けて、新しい一日が始まる。
目的地は将国開拓領最大の街。異界森林の魔獣を抑えるために生み出された不落の城塞都市、コイラだ。
俺は久しぶりの文明社会へと期待を膨らませつつ、西に向かって歩き出した。