酒盛りの約束
左のジャブを見せてから、大きくステップインして左フック。上体を沈めて躱される。
ダッキングによる回避を見越しての右ショートアッパー。後ろに引いてすかされる。
蹴りの間合いになったので、右腕を後ろに振り戻して右のミドルキックを放つ。両腕で防がれた。
しかし体重差を考えれば、蹴りを防がせた時点で俺の勝ちだ。
このまま組み付いて強引に押し込めば終わり――そう思っていた時期が、俺にもありました。
ミドルを防いだルマイダは一瞬で俺の右足首を極め、痛みで硬直した俺の軸足をムエタイ戦士のようなローキックで刈り取る。
無様にひっくり返った俺を見下ろし、ため息混じりにルマイダは口を開く。
「ライドって結構馬鹿だよね。右腕と肋骨が折れてるのに、組み手なんて普通しないよ。痛くないの?」
「痛い。でもちゃんと動いとかないと勘が鈍るし」
「それで骨が変にくっついたら元も子もないでしょ。本当にもう」
ルマイダはお怒りだ。今日はこのくらいにしておいた方がいいかもしれない。
だが負けっぱなしは性に合わない。いや、そもそも所詮はスパーリングなので別に負けたわけではないけどな。
あくまでちょっとした運動をしているだけなので負けたわけではないが、しかしこのまま終わるのは中途半端だろう。
俺は転がった状態から上半身を起こし、ルマイダに提案をする。
「なあルマイダ。もう一回だけやらないか?」
「……」
「ごめん。やっぱやめとく」
彼女の瞳に憤怒が浮かんだのを見て、俺は諦めた。まあいい。体が万全になってからまた頼もう。
何気なく周囲を見回す。よく手入れされた芝生は柔らかく、花壇には青っぽい花が植えられている。
ここは高域区の治療院、その中庭だ。俺はこの治療院で二日近く眠っていた。目を覚ましたのは三日前。
サイとの戦闘から、既に五日が経過している。
ルマイダによると、運び込まれた当初は結構危ない状態だったらしい。過労と失血の組み合わせは素人が考える以上にヤバいのだと教えられた。
それを生き延びさせたのはルマイダの手腕だ。大抵の秘術師は医療技術も修めており、お偉いさんの専属術師は医師の役割も兼ねることが多い。
サイを倒した俺は炎上する油品店の側で気絶していたそうだ。それを駆け付けたルマイダが救出してくれた。
緊急時とはいえ、高域区の治療院に不審な男を連れ込むのは骨が折れたことだろう。
俺の治療や下手人への尋問をこなす傍らで、役務官に説明を続けていたであろうルマイダにこっそりと感謝しておく。
目覚めて最初の一日はろくに体を動かすこともできなかったが、二日目で多少回復し、今では添え木で固定した右腕を振り回すこともできる。
そして検診を兼ねたお見舞いに来てくれたルマイダにスパーリングを挑み、見事に転がされてしまったのだった。
「ねえ、聞いてもいいかな」
「なんだ?」
ルマイダは腰の後ろで手を組み、倒れている俺を覗き込むようにして尋ねてきた。
なにそのポーズ。そんなのどこで覚えてきたのこの子は。惚れたらどうしてくれる。
「ライドは、なんでそんなに強さに貪欲でいられるの? 私は修行意欲の維持に苦労することが多いから、参考にしたいかも」
「んー、あれだよ。俺の場合、どうしても倒したい奴がいてな。そいつを思い出すたびに鍛えたくなる」
モチベーションは常に最大値である。むしろ焦燥感に突き動かされることも多い。
加護を持たない普通人な俺が身体能力を維持できるのは、せいぜい三十代の前半まで。
四十代になれば、おそらく直感等の瞬発的な思考能力も減退し始めるだろう。俺が満足に戦える期間はそう長くない。
「倒したい奴?」
「俺が生涯で唯一、敗北した相手だ」
「唯一? 私、たったいま勝ったけど」
「生涯唯一の負けを、なんとしてでも取り返したい。だから俺は強さに貪欲なんだ」
「無視された……」
うっせー。スパーリングの結果なんてノーカンだっつーの。
まあ、ガチの格闘戦でも勝てるアテはないんだけどな。ルマイダの加護を正面からの殴り合いで崩す方法は思い付かない。
格闘では、だが。
そうして芝生に座ったまま対ルマイダに思考を巡らせていると、彼女は俺の隣に腰を下ろし、真剣な顔で尋ねてくる。
「ライドを負かす相手なんて、本当にいるの?」
「いたな。瞬殺された」
忘れもしない十六の夏。俺が最も思い上がっていた時期だ。
自分から挑み、渋々応じた相手から逃げ回り、撤退すら許されずに瞬殺。
結果は三十二秒KO負け。湖ごと消し飛ばされたのは貴重な体験となった。
「世界は広いね」
「広いよ。だから楽しい」
「そうだね。その通りだと思う」
ルマイダは空を見上げながら同意する。会話はそこで途切れた。
しばらく二人で日向ぼっこと洒落込む。額に滲んでいた汗は、日光と風によってすぐに消え失せた。
「ところで、今回のことの背後関係とかはわかったのか?」
どれくらいそうしていたかはわからないが、沈黙に飽きた俺は話題を振った。
起きてすぐの俺は会話できる状態ではなく、ルマイダも忙しかったので、事件後の詳細は何も聞けていない。
「ん、大体はね。一人を除いた全員が、カドル様に雇われた人たちだったよ」
ルマイダは急な切り出しにも素早く対応してくれる。
だが、少し雰囲気が鋭くなった感じもした。
「その一人ってのが城館を吹っ飛ばした奴?」
「……そう。教国所属の秘術師、メィーツォ・ハル」
聞けば、そのメィーツォとやらは教国からの指令でルマイダとカルデニオを殺しにきた秘術師らしい。
メィーツォはフリーの術師を装い、北部領将のカドルにカルデニオ暗殺の話を持ちかけることで様々な支援を受けていた。
山貫犀を高官の私物の石像と言い張って持ち込めたのも、北部戦線領将認可の通商手形があればこそ。
将国にとって重要度の高いカルデニオはともかく、なぜルマイダが名指しで狙われるのかと疑問に思った俺だったが、その理由を聞いて唖然とした。
信じがたい話だが、ルマイダは教国の情報を引き出して将国に寝返ったスパイということになっているそうだ。それによって抹殺指令が出たと。
「多分、ペリアイント様……私が以前お世話になってた上級誓者様がそう言ったんだと思う」
「でも違約金を払うって話はしてたんだろ?」
「うん、手紙のやり取りはしてた。お金を貯めたらちゃんと払うって。返事はいつも『とにかく戻ってこい』だったけど」
未練タラタラじゃねーか。どれだけ惚れ込んでたんだよそいつ。それで勢い余ってスパイ認定とか笑えないな。
「……今回のことは、だから私のせいでもあるんだよね。ライドのおかげで被害は減らせたけど、それでも死んじゃった人はいるから」
ルマイダはそう言って顔を伏せた。かなり落ち込んでいる。
実際のところ、手紙で自分の居場所を晒していたのは落ち度と言えば落ち度になるかもしれない。
ルマイダにせよ、そのメィーツォという蟲使いにせよ、一流の術師というのは単身で都市を落とせるレベルの戦略兵器だ。
それが自国への敵意を持って敵側に所属していると報告されれば、教国の偉い人たちが看過できないのも当たり前だと言える。
将国と教国は百年前の独立戦争以来の敵同士であり、今は四度目の戦争を行っている真っ最中なのだから。
教国の首脳部である北主教殿の連中も馬鹿ではないので、スパイ云々は話半分程度にしか信じていないだろう。
それでもルマイダを殺しにかかったのは、上級誓者とトラブルを起こした時点で潜在的な敵になり得ると判断したわけだ。
要するにビビっている。恐れているから排除しようとする。それは何も教国に限ったことではなく、同じ状況なら大体の国がそういう反応を示す。
ゆえに強者はトラブル一つ起こすのにも頭を捻らなければならないわけだが、ルマイダはその辺りの事情をいまいち把握し切れていないように見えた。
幼い頃から大山脈で修行していて、人の社会に出てきたのは最近なのだから仕方ないといえば仕方ない。
しかしまあ、結局のところは敵国による戦時中の作戦行動、戦争の一環だ。ルマイダがやましさを感じる必要はないと俺は思う。
そんな感じのことをつらつらと考えつつ、ルマイダを慰めにかかることにした。
「確かにルマイダの過失は皆無じゃないけどさ、民間人に被害が出たのは敵の頭がおかしかったからだろ。普通あんな真似はしない」
「うん、でも……」
「つーか、ルマイダがいなくても遅かれ早かれカルデニオは狙われてたと思うぞ」
むしろ狙わない方がおかしいと言ってもいい。
あいつを殺って開拓領を混乱させれば、この国の生命線である商国との流通路を切断できるのだから。
「あんま落ち込むなよ。ルマイダに助けられた人間だって沢山いるだろうしさ」
「……うん、ありがとう。完全には割り切れないけど、ウジウジするのはやめとく」
目に浮かんでいた涙を拭いながら、ルマイダは顔を上げた。
この子の性格からすれば当分は悩みそうだが、あとは見守るとしよう。気持ちの問題は自分で解決するべきだ。
それよりも、俺には気になることがあった。
「それにしても、中層区に潜伏してた奴らをよく回収できたな。俺は寝てたのに」
「うん、ライドの代わりにティーちゃんが教えてくれたからね。特に問題はなかったよ」
「てぃ、ティーちゃん?」
誰だそれは。新手の魔獣か? いや、おそらく情報提供者のことだとは思うが。
ルマイダは名前を短縮化して愛称にした上に指小辞まで付けるので、元の名前が予想しにくい。
考え込む俺を見たルマイダは、更に衝撃的な言葉を発した。
「あ、ごめん。愛称は知ってるかと思ってた。テイトナのことだよ」
「テイトナ? マジで?」
テイトナがわざわざ公権力に協力したのか。そういうのは嫌がりそうだと思っていた。
最近は合法な仕事を選んでいるとはいえ、彼女はやはり犯罪者サイドなのだし。
「ティーちゃんも大変だったんだよ。暗殺者の仲間を捕まえたから尋問してくれって連れてこられてね」
「ああ、そういえば……」
テイトナには大鐘を乗っ取って大音量で鳴らすという仕事を頼んだのだったか。
意識喪失明けだったせいか、作戦後はうまく逃げ出しただろうと楽観的に考えてしまっていた。
あの状況であれだけ大それたことをすれば、そりゃ賊の一味だと思われて厳重に包囲されるわな。
「テイトナは大丈夫だったのか?」
「うん。私の尋問は相手が無傷な方が都合いいし、兵士さんたちもそれを知ってたから何もされてなかったよ」
「ならよかった」
緊急だったとはいえ、後のことを考えてなかったのは完全に俺の失態だ。テイトナには謝り倒す必要がある。
この街に来てから謝る相手が増え続けている気がした。
「ティーちゃんから事情は聞いたけど、大鐘を使って山貫犀を止めたんだね」
「まあな。あれがなかったらもっと派手に戦うことになってた」
「あれより派手に、か」
「そういえば、死人の数はどれくらいだったんだ?」
ルマイダに尋ねると、やや辛そうな雰囲気ながらも教えてくれた。
確認できている分には死者十九名、負傷者二百名弱というところらしい。死者の半数以上は城館の倒壊に巻き込まれた人間で、残りが街の住人だ。
裏地区での死者は現時点で七人。ゼロだとは思っていなかったが、やはりあの戦闘で死者が出ていたとわかるとヘコむな。
負傷者が異様に多いのは大鐘のせいらしい。警告なしに最大音量を鳴らしたので、騒音性の難聴になった人間が多かった。
死人が増えるよりは難聴患者が増えた方がマシだとは思えないので、これまた気分が落ち込む。
さっきルマイダに説教をかました俺が沈んだ顔を見せていても仕方ないので、表情には出さないが。
「……それでさ、ライド。そのティーちゃんのことなんだけど」
ルマイダが気を使うように話を変えた。気配から、俺の内心を読まれてしまったらしい。
加護ってズルい、などと考える俺に触れることなく、彼女はゆったりと言葉を続ける。
「聞いてみると、ティーちゃんもかなり手伝ってくれてるよね。金柱貨五十本だと少ないんじゃないかな」
「ああ、それは俺も思ってた」
テイトナは俺的にMVP級の活躍だった。あれだけ働かせておいて俺たちの儲けの数十分の一というのは何か違う。
「だよね。それで分け前について話し合いたくてね。三人でお酒でも飲みに行きたいなと思ったんだけど、どうかな?」
「おっ、いいねぇ」
飲み会に誘われたときのテンプレートで返事をする。いい提案だと思ったのは本当だ。
酒が好きというわけではないが、女の子二人と飲めるならさぞや楽しいことだろう。
いや、ルマイダとテイトナは随分と仲良くなっていそうな感じなので、俺だけ浮いてしまう可能性もなきにしもあらずだが。
「あー、でも事後処理とか大丈夫なのか?」
「大丈夫だよ。閣下が私の分も全部やってくれるって言ってた。任せろって」
「相変わらずだな。あのオッサン」
言いながら、俺は立ち上がる。芝生を撫でる強い風に髪をボサボサにされたので、手櫛で適当に直す。
「冷えてきたし、中に戻るか」
「そうだね……あっ」
返事をしながら立とうとしたルマイダが、突然変な声を出した。彼女は何かを思い出したように目を泳がせたあと、じっとりと顔を伏せる。
まるで納期の伝達をミスったことに気付いた若手社員みたいな動きだ。凄く怖い。
「ど、どうしたんだ?」
「その……閣下にライドのことバレちゃったんだ。ごめん」
「マジでか」
「ごめんね。隠そうとはしたんだけど、報告が不自然だって言われてあっさり見抜かれちゃった」
見抜かれちゃったか。
あれでもこの辺で一番偉い人間だからな。政治家というのは嘘に敏感だ。誤魔化しきれなくとも仕方がない。
「あ、でも、この場所は知られてないよ。ライドに渡した入区証もこっそり作ったし」
「それだけ気を使ってくれてるなら大丈夫なんじゃないか。まだ死んでないし」
二日も寝ていて、その後もしばらかくは動けなかったのだ。
魔人を殺す千載一遇の機会だった。俺の負傷と居場所を知っていたなら、それを逃したりはしないだろう。
「それと、閣下がライドに会いたいって言ってた。話がしたいんだって」
「……勘弁してくれ」
ルマイダの言葉を聞き、俺はげんなりした声を出してしまう。
今の体調で、『城壁の』カルデニオ率いるコイラ軍とやり合うような根性は持ち合わせていない。
まあ、街中という戦場は俺の有利に働くので、手段を選ばなければ確実に勝てるわけだが。
しかしそれをやると市民に被害が出てしまい、なんのためにサイを倒したのかわからなくなる。文字通り骨を折って頑張ったというのに。
「でも、閣下はライドと戦うつもりはないみたいだよ? 話し合いも、多分前向きな内容だと思う」
「それ本当か?」
「うん。私はそう感じた」
ルマイダがそう感じたなら事実なのだろう。彼女がその気になれば、嘘も誤魔化しも無意味なのだから。
にしても、国賊テロリストな俺と今さら話すことなんてあるのか。まさか国政元帥の殴り心地を語れというわけでもあるまい。
まったく乗り気にはなれなかったが、じっと俺を見つめるルマイダにノーとは言いにくかった。
賞金首である俺が無防備に寝ていたのに、官憲に突き出すどころか匿って治療してくれた子だ。
どうせバレたならと、領将に弁明する機会を作ってくれたのかもしれない。それを撥ね付けるのも気が引ける。
とりあえずは保留にしておくか。怪我が治るまではルマイダを頼ってこの街に居座るつもりなので、時間はまだある。
今はそれよりも腹が減った。
「一応考えとくよ。それよりルマイダ、なんか食べに行かないか? 入院食はもう飽きた」
「ダメだよ、そんな贅沢なこと言っちゃ。ここのは美味しいって評判なのに」
「確かに美味いけどさ、肝肉ばっかりはちょっと……」
「血を増やすには肝肉が一番なんだから我慢しなさい」
そんな会話をしつつ、俺たちは中庭から院内に入る。
ルマイダは笑っていた。こんな表情を見られるのなら、怪我も案外悪いもんではないなと俺は思った。




