巨獣と人間
戦闘開始から体感で約四分。現在地は民家の屋根の上。
中層区南部の交流市場方面に向かって移動する俺は、本格的な疲労に襲われ始めていた。
足場の民家へと凄まじい速度で突っ込んでくるサイを見て、俺は隣の屋根に跳ぶ。
背後から倒壊の衝撃が突き抜けてくるが、振り向くことなく地面へと飛び降りた。並んでいた数軒の建物がまとめてなぎ倒される。
明らかにアフリカ象並みの体重がありそうな癖に、まるで鈍重さがない。突進を外しても素早い切り返しで追撃してくる。
しかし今、サイは瓦礫に埋れたまま動きを止めていた。建物が崩れる音で俺を見失ったのだろう。
光のない巣穴で活動するせいなのかどうかは知らないが、山貫犀という種は視力を持たない。
それを補っているのが極度に発達した聴覚。おそらくはエコーロケーションのような方法で周囲を知覚している。
それゆえに、大音響や強い振動に晒されている間は周囲を認識できなくなるのが山貫犀の弱点だ。
直前に確認した敵の位置と動きを覚えているらしく、見失っても短距離なら追撃してくる。だがその裏をかけば捕捉を外すのは容易い。
こいつを倒すのは簡単だ。ある程度距離をとって遠くから挑発を繰り返し、大きな高低差のある場所まで誘導する。
そして突進の位置を調整して落下させ、自分で登らせては、また落とす。これを繰り返せば数回で死ぬ。
爆薬系の秘術が頭に直撃しても耐え切る山貫犀だが、鋼身熊と違って慣性による内部ダメージには弱い。
外部からの衝撃を無効化する体を持っていようとも、落下して頭部から着地すれば急減速による脳の変形は起こる。
一度目で強い脳震盪を起こし、二度目でセカンドインパクトシンドロームに見舞われる。そこで死ななくとも数回同じことをやればいいだけだ。
山貫犀は過去に二体仕留めているが、強敵だという印象はない。外皮への攻撃無効というだけなら、やりようはいくらでもある。
……タイマンであればの話だが。
「さっさと避難してくれよな!」
俺は距離を稼ぐこともせず、わざわざ大きな声を出した。数十メートル先に腰を抜かしている男がいたからだ。
一筋縄ではいかない理由がこれ。逃げ遅れている市民を庇うために近くで注意を引かねばならず、サイから大きく離れられない。
動きの速い巨大猛獣と近距離戦を続けている俺は、ほんの四分ちょっとの間に二回ほど死にかけていた。
俺の声に反応したサイは一気にこちらへと振り返り、地面を砕きながら走り寄ってくる。
俺はその鼻先に向けて射箱を叩き込む。金属矢は狙い通り角に当たり、サイの動きにほんの微かなブレが生じた。
ブレと足の動きから視界の揺らぎ方を予測し、左に避ける。かなり際どいところを長い角が通過していく。
飽きずに建物を粉砕しながら突入するサイを横目に、最速で手近の家屋に飛び込む。外からは連なるように爆音が轟いた。
棚をひっくり返して火打石を見つけ出し、二階に登り、そして窓を伝って屋根に這い上がっていく。
屋根の上に立って下を見ると、サイは空に向けて角を突き出していた。
山貫犀の知覚の起点は角だ。それを掲げたあの姿勢は、広域探知のポーズである。
そうして獲物《俺》を見つけたサイは破壊行為を繰り広げ、俺が必死に逃げ回るという流れが数分続いた。
俺たちの通り道には砲爆撃でも受けたかのような爪痕が残り、長い時間を積み重ねたであろう生活の痕跡も失われていく。
裏地区を抜けて町並みの色が変わり始めた頃、やかましい鐘の音が聞こえてきた。
これは大鐘による非常警報だ。魔獣の出現が警備兵たちに知らされたということか。
予想よりもかなり早い。まだ十分と経っていない上に、城館の崩壊というバッドステータス付き。この状況で即応できるのは大した練度だ。
一定のリズムで鳴り響く鐘の振動によって、サイの動きが少し鈍った。しかしそれも長くは続かない。
この程度の音では、驚いて数秒困惑するのが関の山。慣れれば気にもしなくなる。だがその数秒はかなり貴重だ。
俺は少し離れた場所にある屋台に駆け寄り、置いてあった飲み物を掴んでゆっくりと飲み干した。
潰した果物を布に包んで絞り出した果実水のようだ。あまり美味しくはなかったが、全身に水分が染み渡る感覚が心地いい。
ふと気付けば、俺の全身は汗で濡れそぼっていた。足は苦痛を訴えており、過剰労働させられている心肺からの悲鳴が止まない。
俺は持久力には自信がある。短距離走で前世の世界記録に勝てるかは微妙だが、マラソンなら軒並み塗り替えられるだろう。
高効率のペース配分、適切なタイミングでの補給、瞬間的な休息。それらによって、森林の中を百キロメートル以上走り続けることも可能としていた。
そんな俺でもやはり限界というものは存在する。
今日は連戦に連戦を繰り返し、かなりの距離を動き回った。そのツケが纏めてのしかかってきている。
「キツイな、これは」
荒れた息を、深い呼吸と短い呼気の組み合わせで鎮めながら逃げるが、サイが撒き散らす瓦礫の散弾を避けきれなくなっていた。
石礫を腕で弾くたびに、体の芯まで衝撃が走る。痛みは根性で耐えられるが、打撲が蓄積すればいずれ物理的に動けなくなる。
遠くない場所に、死が見え始めていた。
「でもまあ、ここで死ぬつもりはない」
都合十七発目の射撃でサイの軌道をずらし、突進を躱して安全圏に逃れる。
建物をぶち壊して暴れ続けるサイは、俺を見失っても動きを止めなくなっていた。さぞや怒り狂っているのだろう。
通常なら大きな音や衝撃に晒されると、それが収まるまで待つものだが、激昂して我を忘れた今ならそうはならない。
仕込みは万全ということだ。俺側の準備は整った。キルゾーンが一つ向こうの通りにあるのも確認済み。
あとはテイトナからの合図さえあれば勝てる。
既に警報音が止まり、静かにそびえる大鐘の塔を見やりながら、俺は言葉を発した。
「早めに頼むぞ、テイトナ」
今から二分だけ待つ。それでなんの連絡もないならテイトナは失敗したと判断し、こいつとの戦いは中長期戦に移行する。
周囲に気を使わなくなれば被害は大きく増えてしまう。それを敗北だとは思わないが、やはり気分のいいことではないのでギリギリまで粘りたい。
約百二十秒が接近戦を続けられる限界。そこを越えればまず助からないし、運次第ではそれより早く死ぬこともあるだろう。
まあ、だからこそ面白いのだが。
「来いよ。どっちが死ぬのか試そうぜ」
動きを止めて叫んだ俺に、暴風の如く接近するサイ。十九発目の金属矢をぶち込んで回避し、後ろの建物に埋れさせる。
間髪いれず飛び出してきたサイを相手に、撃ち、走り、登り、跳び、落ちた。三十秒経過。
射箱が使用限界に達したので投げ捨てる。
進行方向に避難中の人間を見つけ、強引に進路を変えたせいでサイの接近を許す。
一メートル横を通過する致命打を死に物狂いでやり過ごし、遮蔽物を利用して凌ぎ続ける。五十秒経過。
木片や石に体を削られ、大小の傷から血が舞い散ったが、動脈性出血はないので気にしない。七十秒経過。
そして八十三秒。ついにそれは来た。
ゴン、ゴゴン、ゴン、ゴゴン、というリズムが街を駆け巡る。テイトナからの合図だ。大鐘を制圧できたらしい。
鳴り止んでいた鐘が再度打ち叩かれたことで、サイは怯んだ。俺はその隙をついて家屋に飛び込み、裏口から向こう側の通りへと移動する。
眼前には開けた空間と、その中央に建つ油品店があった。
この国の都市部では、食用油や燃料油などの生活用油は地域ごとの油品店で一括に管理、販売されることになっている。
万一の火災でも延焼させないために、広い保安距離を確保した土地にて纏めて管理させているわけだ。
ここからが最後の山場。脇目も振らず油品店へと疾走する。
油品店の倉庫に駆け込み、大量に積み上げられた油壺を適当に倒して火打石で火を点けていく。遠くから破砕音が聞こえてきた。
さっきよりかなり復帰が早い。おそらく二度目なので慣れたのだろう。
瞬く間に大火災へと発展した倉庫から外に出て、俺を探しているサイと対峙する。距離は四十メートル未満。
背後からは凄まじい熱気が吹き出し、真正面には大型魔獣。周囲は開けた地形で、射箱も失った。
「まさに絶体絶命だな。俺以外なら」
背中をジリジリと熱されながら、俺はクラウチングスタートの姿勢を取った。
スターティングブロックがないので、これによる加速は僅かかもしれない。だがその僅かが往々にして生死を分ける。
漫画のように地面をぶち抜くイメージで一歩目を蹴り出す。
腕をキッチリと振り、腰筋の駆動で骨盤を捻り切って歩幅を稼ぐ。
集中力は極限に達し、こちらを目指すサイの動きが精細に視認できた。
サイは頭を下げ、角で地面を抉るかのように突撃してきており、足の間を抜けるのは不可能だ。左右は論外。
ならば活路は上しかない。俺は残り十メートルで右足を踏み切った。
このサイの体高はぱっと見でも二メートル半はある。前世の走り高跳び世界記録が二百四十センチメートルだったか。
それを今の俺の身体能力と技術で超えられるのかと言えば――――まあ、無理だ。
俺の体はサイの背部側面に接触し、回転しながら吹っ飛んで地面に落ちた。
突っ込んできた自動車を避けようとジャンプしたら、天板にぶつかったみたいな状況に似ている。
頑丈な革製の荷袋を盾にしたので肉をこそぎ取られることはなかったが、衝撃で完全に戦闘不能だ。脱臼か骨折をしているかもしれない。
なんとか首だけ動かしてサイを見ると、燃え盛るコンクリート製の油倉庫を勢いのままに粉砕しているところだった。
積み上げられた油壺を丸々砕いたなら、火の点いた油で全身満遍なくコーティングされたことだろう。水をかけたって消えはしない。
普通の生物ならこれで終わりだ。
炎そのものに耐えられたところで、燃焼ガスがそのまま毒となって呼吸器を侵食する。
鋼身熊ですら、炎に焼かれ続ければいつかは中毒症状を起こして死ぬ。
だがなんと山貫犀にはそれが通用しない。穴の奥深くで長期間生存できる山貫犀は、体内で熱素《酸素》を生成できると考えられている。
特に山の掘削時と戦闘時は、完全に口と鼻を閉鎖しており、粉塵を吸い込んでむせるようなこともない。
文字通り痛くも痒くもないということだ。そもそも燃えていることにすら気付いていないはず。
地面と接した俺の背中に足音が響く。二歩、三歩とそれは続き、噴火のように煙を上げる油倉庫の残骸からサイが歩み出てきた。
奴は脚を踏み鳴らしながら、ゆっくりと角を掲げる。数秒後には俺を見つけ出し、踏み殺すだろう。突き殺すのかもしれない。
どちらにしても、もう動けないのだ。なるようになるしかない。
俺は激痛を発する腕を無理やりに動かして、しっかりと耳を塞ぐ。
そしてサイが何かをするよりも早く、『それ』は来た。
コイラの街に、耳をつんざく轟音が広がる。ビリビリと痺れるような地鳴りが倒れ伏した俺の体を揺らす。
耳を塞いでいてもなお苦痛を感じるそれは、大鐘による警報音だった。
近隣の村や町に音を届かせるための、機械仕掛けを使った最大音量モード。
テイトナが上手くやってくれたようだ。油品店の炎上を見てから、鐘を最大出力で鳴らすまでのタイミングは完璧と言っていい。さすがテイトナ。
サイは完全に動きを止めている。今までのように驚いたとかビビったとかではなく、根本的に何も見えないはずだ。
この連続的な爆音の中では反射音も掻き消される。エコーロケーションは封じた。
とは言っても、これも本来なら決め手にはならない。サイは音が鳴り止むのを待てばいいだけなので、動きを止めるのがせいぜいだ。
しかし今の奴は違う。いつ止むかもわからない未知の音に耐え忍ぶことなどできはしない。
散々怒らせて、そういう精神状態に追い込んだのだから。
サイの鼻がヒクヒクと動いた。鼻腔の閉鎖を解除しようとしている。あいつは自分が燃えていることに気付いていない。
絶対的な外皮の防御力による痛覚の欠如は、これもまた弱点だと言えた。
サイが大きく外気を吸い込む。その優れた嗅覚によって俺を発見するために。
一呼吸目で奴はむせた。灼熱の燃焼ガスは気管を焼き、肺を破壊する。
二呼吸目は盛大な咳だった。呼吸反射によって異物と熱を押し出そうとする。
そこからは奈落へと崩れ落ちるようだった。炎を吸い込み、それを吐き出すためにまた炎を吸い込む。
肉体を守るための反射行動による死のループは、ほんの十秒数で幕を閉じた。
巨体が横に倒れ、一通り苦しんだあと動きを止める。痙攣もせずに停止したその姿は物言わぬ石像にしか見えない。
どんなに強い人間でも魔獣でも、やはり死ぬ瞬間はあっけないものだ。らしくもなく寂しさを感じてしまう。
「ここまで痛め付けられたのは久しぶりだ。ゆっくり眠ってくれ」
俺はそう言って目を閉じた。
まぶたを開けていられない。格好を付けて眠ってくれなどと言ったが、俺自身も死ぬほど眠い。
油品店の火災は勢いを増しているらしく、少し離れた俺の地点まで高熱が届いていた。
今すぐ立ち上がって逃げる必要があると理解してはいるのだが、出血と疲労のせいで意識がはっきりしない。
マジで死ぬかもと思ったその時、大きな黒い影が俺の傍らに立った。そして女の声が聞こえてくる。
「遅くなってごめん。……ありがとう、ライド」
泣きそうなその声に返事をして、俺は意識を手放した。なんと言ったかはわからない。




