森での生活
俺の一日は筋トレから始まる。
腕だけで体を水平に支える上水平の姿勢から、真っ直ぐ伸ばした全身を素早く持ち上げて倒立し、ゆっくりと上水平に戻るプランシェプッシュアップ。
木の枝に両足の甲を引っ掛け、ぶら下がった体勢での上体起こし。その木の枝を使った片手懸垂。
両手で枝をしっかり掴んで腕を伸ばし、両足を枝の位置まで持ち上げるハンギングレッグレイズ。
木から下り、つま先より前に膝を出さないよう気をつけながら、フルボトムでのジャンプスクワット。
これらをだいたい限界の七割八割程度まで行い、自重による強い負荷をかけることで筋力の維持に努める。
もう少し頑張ることもできるが、あまり無理をするとこの後の運動に差し支えるのでほどほどにだ。
筋トレを一通り終え、次は本格的に動こうと木を登り、枝から枝へと飛び移る。
この森の木々は太い枝が広がるように周囲へ伸びているので、足場には困らない。枝の軋みや葉音を聞きながら進んでいく。
音を出さないように駆け跳ぶ練習をしてみたこともあったが、三日ほどで物理的に不可能だと気付いた。音は消すのではなく隠せばいい。
少し進むと、他より飛び抜けて高い木があった。この近辺では特に大きな物で、俺はシンプルに大樹と呼んでいる。
今日はこれにチャレンジしようと考え、足に巻いた革のグリップを確認してから素早く這い登り始めた。
低い木から順に登っていき、目当ての大樹に移る。当たり前だが、上にいくほど枝の密度が濃くなっていく。
これだけ枝が密集していれば手掛にも足場にも困りはしないが、逆にその枝の群れが動きを阻害する。
並よりかなり大きい俺の体を、隙間をすり抜けるようにしながら垂直に運ぶのは結構な運動強度となった。
途中、ツル状の植物に擬態した蛇っぽい生き物が襲いかかってきた。牙を避け、胴体を掴んで投げ捨てておく。
少し時間をかけながらも頂上に到達した俺は、僅かに乱れた息を整えて周囲を見渡す。
頭上の空は快晴。白々しいほどの青さだ。遥か彼方には飛行船のような何かが浮かんでいる。多分クジラだろう。
広がる景色は見飽きた緑色なので特に感動はないが、高い視点のおかげで多くの情報を得られる。
視界全体を大雑把なイメージで捉えながら、経験に基づく直感で不自然なところを洗い出していく。
異界森林と呼ばれるこの森は、人の主要文明圏を東西に分断している巨大な原生林だ。
多様な生物たちが生息し、特殊な力を持つ魔獣が大量に分布する土地でもある。ゆえに異界。
ちょっとしたトラブルによって人間の社会を追われた俺は、異界森林西部を縄張りとして一年近く生活していた。
最初はかなり大変だったが、慣れれば案外なんとかなるものだ。
ある程度観察して満足した俺は、水筒の水を一口飲み、体を冷やし過ぎないよう柔軟運動をしながら少し休む。
動き回って火照った体を風が冷やしていくこの感覚は、何度味わっても飽きることがない。
今現在、ほとんど野生動物と化している俺に、闘争心以外の情緒を芽生えさせてくれる時間の一つだ。
ほどよく疲れが取れたので、風の気持ちよさを惜しみながらも頂上から飛び降りた。
落下の途中にある枝を掴み、あるいは踏み、その弾性で勢いを減じて無傷の着地を果たす。
たったいま飛び降りてきたところを見上げる。生い茂る枝葉に覆われていて空は見えない。
体感的にだが、大樹は俺の身長の二十倍くらいはありそうだった。『あいつ』よりも高さでは上だろう。
あそこから飛び降りて無傷というのは、これは結構いい線をいってるんじゃないだろうか。
「まあ、あいつの体には枝なんて付いてないけど」
湧き上がりかけた過剰な自信をひとり言で否定し、俺はまた駆け出す。
せり出した木の根を蹴って跳び、柔らかい土面を踏み、苔や草で足を滑らせないよう注意しながら走破していく。
森の足場は気まぐれなようでいて、案外規則性があるように感じる。これも修練の成果だ。
少し先の方には、近付くと強酸を吹きかけてくる食獣植物が生えていた。
わざわざ迂回するのも癪なので、大きく飛びかかってハイキックを食らわせる。
花がこちらを向いていなければなんの問題もない。俺の代わりに溶かされた草木が少し気の毒な気もするが。
更に疾走しつつ、息を止めたり吐き続けたりしてみる。
以前、呼吸が満足にできない状況で死にかけて以来、こういうこともやるようになった。
予期できない攻撃に曝される危険は常にある。
それを予防するのは油断なき警戒であり、いざ不覚を取った際に助けてくれるのが日頃の鍛錬だと、知り合いのオッサンは言っていた。
そんなかっこいい台詞に説得力を持たせられる人物じゃなかったのが残念だが。
低い位置に伸びる頑丈そうな枝を見つけた際には、ナイフで切れ込みを入れ、半ばから折って尖らせておいたりする。
警戒と鍛錬が自分の身を守るのだとすれば、こういった地道な作業が敵を倒すのだ。
そうして日課をこなしていると、なんとも言えない切なさのような物が胸に湧いてくる。
毎日毎日戦うことばかり考え、自身を鍛え、敵を探す。こんな日々が退屈だと思い始めて早数ヶ月。
そろそろ人との交流がしたい気もする。しかし人里に行くと面倒も多いので、ここ二ヶ月くらいは補給もしていなかった。
話はしたい癖に人との関わりで生まれる厄介ごとは嫌う。実にわがままだと思うが、実際面倒なのだから仕方ない。
それに人と接触するとなれば見た目にも気を使う必要が出てくる。
視界の端で揺れる茶髪は、まともに手入れをしていないので酷い有り様だ。
邪魔になるたびナイフで適当に切っているので、かなり前衛的な髪型になっていることだろう。
着ているのは牙刃猪の皮を鞣して作った革ツナギだった物。今ではズタボロになり、上半身部分はほとんど残っていない。
ガタガタの髪型でボロボロの革ズボンを履き、刃物を持った上半身裸の男。それが今の俺の姿だ。
二ヶ月前、ナイフやら岩塩やらを調達しようと南の村に出向いた際に、散々怯えられたのも当然といえば当然か。
その辺りを考えるとやはり気が重いが、生命線のナイフも研ぎすぎてかなり短くなっているのだ。そろそろ行く必要はある。
憂鬱さと不安、そして少々の期待から溜息を一つ吐いた時、それは来た。
生理的な嫌悪感を湧き上がらせる音が周囲一帯を駆け巡る。
俺の記憶から類似したものを探すとすれば、金属でガラスを引っ掻いたときのそれが近いかもしれない。
その不快極まりない高音が森に響くや否や、鳥のような生き物達が一斉に飛び立つ。
ネズミだかカエルだかよくわからん小動物の集まりは爆弾の炸裂のような勢いで散開。
羽虫の大群が形作る黒く巨大な蛇も、空中をのたうつように森の奥へと消えていく。
そんな生き物達の必死な逃走を見ながら、流れに逆行するように視線を走らせると、遠くの木々の間に黒い巨体が見え隠れしていた。
やや高くなっている場所まで移動し、立ち位置を変えることでそいつの姿をはっきりと捉える。
距離はおよそ四十メートルほどだろうか。森の中というのは距離感が掴みにくいものだが、木々の間隔を覚えればある程度は目算できる。
左右に伸びた四対の脚を操り、悠然と進むそのシルエットは、一見ではクソでかいクモに思えるだろう。
しかし俺はそれが擬態だと知っている。あれはクソでかいイカだ。
黒糸蜘蛛。この周辺の国の人間にはそう呼ばれている。
本気モードになったこいつは明らかにイカなので、俺はそのままイカと呼んでいるが。
何かいるのはさっき上から見回したときに気付いていたが、こいつが出てくるのは予想外だった。
なんでこんなところにいるのだろうか? この森は活動域ではないはずだ。
疑問はさておき、今は考えるより先にやるべきことがある。丁度よく奴と目が合ったので、さっさと済ませておこう。
「よう、いい天気だな」
片手を挙げて、大きな声で挨拶を一つ。
通じないのはわかっている。それでも声を掛けて自分の存在を知らしめるのは、俺が自身に課したルールの一つだ。
そんな俺に返事をしてくれたのかどうかはわからないが、奴は甲高い音を短く鳴らした。
直後、その動きがトップスピードに切り替わる。戦いの始まりだ。
俺は素早く振り返り、イカに背を向けて全力で駆け出す。
あのイカの性質は大体知っている。
くの字に硬化させた触手を左右に広げ、胴体を後ろに垂らした蜘蛛形態では横幅が八メートル近い。
この森の中を移動するには明らかに向いていないのだが、そんな常識的な考えは奴らには通じない。
連中は蜘蛛の脚を模倣した触手での走行を可能としているばかりか、邪魔な障害物があるなら触手を軟化させてすり抜ける。
木々の隙間を器用に抜けて迫り来る奴の速度は、平地での人間の全力疾走を軽々と上回るだろう。
俺の感覚と経験則が告げるところによれば、四十メートルの距離を詰められるまで約十一秒。
後ろを見ることはしない。イカとの距離は音で判断できる。とにかく走る。
使うのは足だけではない。連なる木々を手で押し、あるいは引っ張り、自在に方向を変えながら駆け抜けた。
あと八秒ほど。
しかし奴はまるで意に介さないだろう。
二つの巨大な目はこちらの挙動を全て捉えており、動きでの撹乱は無意味だ。
奴から逃げおおせるつもりなら、素直に隠れた方がまだマシである。
残り四秒と少し。
だから今、右に左にジグザグと走っているのは奴を振り切るためではない。
僅かながらも時間を稼ぎつつ、奴と俺と目的地を一直線に並べるために位置を調整しているのだ。
真後ろ、二秒弱まで迫られた。
ようやく目当ての場所に到着した俺の眼前には、槍のように鋭い先端があった。
体を投げ出すように飛び込めば、さっき半分ほど折り、尖らせておいた太い枝の先端が頭を掠める。
幹には両腕で接触し、衝撃を吸収しながら横に力を逃がすことで、脇から木の後ろへと抜けて地面を転がった。
だが、今まさに俺を捕食せんと飛びかかり、触手の根元にある大口を開いていたイカは避けられなかったらしい。
ズドンと、凄まじい勢いで幹にぶち当たって奴は止まった。
ここからだと直接は確認できないが、あの様子なら枝は口から侵入して頭部をぶち抜いたことだろう。
半分に折った後でも二メートル近い長さがあったので、脳は完全に破壊できたはずだ。
素早く両耳を塞ぎ、口を半開きにする。
直後に暴音が襲いかかってきた。悲鳴なのか、威嚇なのか、あるいは音による攻撃なのかもしれない。
耳を塞いできっちり防ぐことができたのは、前にこれで前後不覚に陥ったことがあるからだ。
あのときは結構ヤバかった。
しかし元気なイカだ。頭をぶち抜かれてなお盛大に暴れる姿は、何度見ても不気味である。
この巨大イカは主脳とは別に副脳を持っているらしく、主脳を潰しても構わず行動を続ける。
奴は体を揺さぶって突き刺さった枝をへし折り、自由になった巨体で突進してきたようだが、俺は既に距離を取るべく走り出していた。
あいつが自由になるまでの三秒ちょっとで二十メートルは稼いだ。もはや捕まることはない。
副脳による思考は主脳ほどに高度ではないようで、行動がかなり単純化する。
せいぜい、主脳が破壊される寸前に狙っていた獲物を食うことしか考えていないだろう。
今の奴では触手の硬化と軟化を使い分けて森を疾駆することなどできないし、こちらの動きを予想して回り込むこともない。
突き刺さった木の枝は内臓まで達しているだろうから、適当に走っていればいずれ力尽きる。
あの不思議イカでも内臓の損傷は無視できない。今までの交戦から得られた知識だ。
走る俺の背中を連続的な破壊音が追いかける。相変わらず触手攻撃は強烈だなと、その音を聞きながら思った。
ちらりと後ろを見れば、奴は触手を振り回し、木の幹を一撃で三割ほど抉っている。
それを同時に複数放つので、あの触手の間合いに入ってしまえば為す術がないだろう。
奴の進路上にあった木々が次々と叩き折られている。破壊力と手数の共存が、嵐のように猛威を振るっていた。
「まあ、無意味だけどな」
木と戦っていても俺は殺せない。
奴がそれに気付くことは、もうないだろうが。
それから少しして、俺はイカの解体作業を始めた。