落し物には福キタル。
『武士バーガー参上!』
そんなフレーズとともに、胡麻が降りかかった柔らかそうなバンズが厚みのあるパティを挟み、スライスした玉ねぎが顔を覗かせる、旨そうなハンバーガーが男を誘惑していた。
ファーストフード店の窓ガラスに張られたポスターを睨みつつ、男は店を素通りする。しかし、足を止めると店内にそそくさ入っていった。
バイトが始まるまで後1時間あった。食べていくには十分な時間だ。店内を見渡し、席を確認するとカウンターに並ぶ。さすが世界一のファーストフード店、10人ほど並んでいたのにも関わらず、すぐに順番が来た。
笑顔が可愛い女の子の店員に、彼は迷わず武士バーガーセットを注文する。そしてトレイにポテト、コーラ、バーガーを載せて窓際の席に向かう。
午後4時、窓から外を見るとまず目に飛び込んできたのは、学校が早く終わったのか、それともさぼったのか、楽しげにデートする高校生カップルだった。無謀にも制服を着たままの2人は腕を絡ませて歩いている。彼女いない暦と年齢が一致する彼にとってその光景は眩しく、すぐに目線を別の方向へ向けた。すると昨今の美魔女ブームに乗ったつもりか、綺麗に化粧をした主婦が買い物袋をたくさん腕に吊り下げ、足早に歩いていた。主婦は彼よりかなり年上のようだった。しかし自分を見つめる男の視線に気がつくと、「見るんじゃないわよ」と嫌な顔をして顔を背けた。
困っていても年増に手を出すほど溜まっているわけないだろう!と怒りを覚えた男だが、その怒りが無駄なことに思えて冷え始めたポテトに目を落とす。
先ほどまで揚げ立てのカリカリ感があったポテトは、今や柔らかく味気のない食べ物になり下がり、彼の食欲を失わせる。しかし、バイトで食いつないでいる今、食べ物を無駄にする気がなかった。ポテトは後で食べることにして、武士バーガーを手に取った。
山葵の香りが鼻から入りツンと涙腺を刺激する。一瞬注文を間違った。そう後悔したが、食べてみないとわからないと口にする。
山葵の辛さで、涙線が緩み、鼻から火が出そうになる。慌ててコーラの入ったカップを掴み、ストローを啜る。甘さ以外にもぴりりと炭酸の辛味がしたが、それでも山葵の辛さを鎮める役目はしてくれた。
(こんなもの誰が食べるんだ?いや俺か)
そんな一人突っ込みをしつつ、男は完全に後悔していた。
(これならバイト先で100円払ってラーメンを食べればよかった)
そう思うが後の祭りである。
彼は目を閉じて息を吐くと、覚悟を決めて食べ始めた。
「お兄さん、美味しそうなものを食べているね」
しゃがれた声が不意に耳に飛び込み、彼は驚いて顔を上げる。いつの間にいたのか、真向かいの椅子にベージュの着物を着て、黄色の羽織を纏った老婆が座っていた。
「私にもくれないかね」
(何、言ってるんだ。このばあさん)
頭のおかしい人を相手にしてもしょうがないと、男は視線を落とし、食べ続ける。
「酷い人だね。飢えた老人に恵んであげようという気持ちはないのか、この若者は!」
無視をした彼に腹を立てたのか、老婆は大きな声を上げて泣き出す。
「いや、おばあちゃん」
周りの視線が集まり始め、慌てた男は老婆を諌めようと席を立った。
「じゃあ、恵んでくれるかね?」
老婆の策略にはまり、彼はもう1セット頼むためにカウンターに並ぶ。同じ苦しみを味わえと武士バーガーセットにしようかと思ったが、大人気ないと普通のダブルチーズバーガーのセットにした。
「いただきます。ありがとうねー」
彼がセットを運んでくるとよほどお腹がすいていたのか、老婆はすぐに食べ始めた。その勢いは誠治の予想を超えたもので、ものの5分で全てを平らげた。
「ご馳走さん。ありがとうよ」
そして軽くお礼をいい席を立つ。その物腰は老婆のものではなく、男は眉をひそめた。
チリン、チリン。
不意に鈴の鳴る音がした。足元を見ると、金色の小さな鈴を2つ付けた銀色の鍵が落ちていた。それは明らかに老婆が落としたもので、彼は一瞬迷う。しかしその鍵を拾うと、軽やかに前を歩く姿を追いかけた。
「おばあさん!」
その歩みは老婆のくせに速かった。店内では追いつけず、店の外に出る。しかしそこにその姿がなかった。
(追いかけるか?いや、どこにいったかわからないぞ)
男は立ち止まり、ぐるりと周りを見渡す。
(いいや、あんな図々しいばあさんのことなんて)
諦めて彼は店内に戻ろうと体をひねる。すると窓ガラス越しに、男の食べかけのハンバーガーセットが捨てられようしているのが見えた。
「待ってくれ!」
男は慌てて扉を開け中に入る。しかし時はすでに遅し。それは見事にゴミ箱の中に吸い込まれていた。
「すみません!てっきりもういらないと思いまして」
呆然としている彼に、片付けた店員が平謝りする、天下のファーストフード店らしく、再度作り直そうかとも提案された。が、彼には時間がなかった。バイト先では他の店の食べ物を持ち込むことを禁止している。だから持ち帰りもだめで、彼はあきらめて店を出た。
バイト先まで歩いて15分、しかし時間を見るとシフトが始まるまで5分しかなかった。あの老婆のせいだ。頭に来たが、考えている余裕はない。
(生きていくためには、働かねば)
男はそう自分に言い聞かせると、走り始めた。
彼は田茂戸誠治と言う。今年で25歳になる青年だ。彼は1ヶ月前まで普通のサラリーマンだった。しかしある事件、いや誠治にとっては事件だが、それがあり会社を辞めることになった。
事件とは、彼が部署で集めた菓子代を着服した疑いを持たれたことだ。5千円ほどの金額だが、疑われ始めてから彼は会社に行く気を失った。しかも彼には本当の犯人が誰だかわかっていた。真犯人は上司と不倫中の新人社員。が、彼は誰に相談することもなく、一方的に退職した。
それからも、彼には不幸なことが続いた。
財布を拾って持ち主に届けると、お金が足りないと難癖つけられた。電車で痴漢を止めようとして、逆に痴漢に間違われた。
彼は親切な男だった。しかし、こうも親切を仇で返され、彼は親切することをやめてしまった。
おかげで道に迷っている人を見ても無視するようになり、落し物を見ても拾わなかった。
今日も老婆のことは完全に無視をしていたのだが、騒がれてしまい奢ってしまった。しかも落とした鍵まで拾ってしまった。
警察に届けるか、そう思いもしたが面倒くさい気持ちと急いでいることもあって、ポケットの奥にしまいこんだ。
§ § §
急いでいるが信号無視をする気はない。
誠治は赤信号になった横断歩道の前で、信号が変わるのを待つ。
すると、チリン、チリンと鈴の音。
「あの落し物ですよ」
鈴の音と共に背後から声が掛けられた。振り返るとあの老婆の落とした鍵が視界に入った。自分のものではない。しかし彼のポケットから落ちたはずだから、そう思われたのだろう。誠治は御礼を言い、鍵を受け取る。そして男と顔を合わせた。
「!」
拾ってくれた男の顔を認識して、彼は顔を引きつらせた。それは1ヶ月前、彼を泥棒扱いした財布の持ち主だった。かなり怒鳴られたのでその顔を忘れるわけがなかった。
「き、君は!」
男も同様に覚えていたらしい。しかし、その顔に以前のような怒りを見て取ることができなかった。逆に感じ取れたのは羞恥のようなものだった。
「あの時はすみませんでした!」
ふいに男の姿を消えた。いや、消えたのではない。男は誠治の前で、土下座をし始めたのだ。
意味がわからないまま、彼はとりあえず男の土下座を止める。
「謝らせてください。本当疑ってすみませんでした。1万円を財布に入れたつもりだったんですけど、家に帰ってみると1万円がちゃんと封筒に入っていたんです。あの後すぐに謝ろうと思ったんですけど、なかなかできなくて」
男はぺこぺこ頭を下げながら言い募る。
拾った財布を届けようと派出所に行ったところ、本人が紛失届を出しに来ていた。普通なら「拾ってくださってありがとう」とお礼を言われるべきなのだが、男は中身をその場で確認し、1万円足りないと誠治を怒鳴りつけたのだ。警察官が間に入り、中身を抜いたのであれば届けるはずかないと説明したが、男は納得せず、誠治は嫌な気持ちで派出所を後にした。
「あの時は拾っていただいたのに、感謝するどころか怒鳴りつけてしまい、本当に申し訳ありません。お詫びに何かさせてください!」
男は心が咎めるのか、熱心に顔を真っ赤にさせて誠治の腕を掴む。
「いや、何もいらないですから」
過ぎたことだ。お詫びといわれても何も浮かばなかった。しかも彼はアルバイトに行く途中だ。
「それじゃ私の気がすまないのです。何かお礼を!」
男がそう懇願する。が、誠治は彼から何か貰うつもりはなかった。
「本当にいらないですから。じゃ、俺はこの辺で」
彼の腕を振り払い、誠治は走り出す。運よく信号も青に変わり、彼は逃げるように横断歩道を駆けた。
§ § §
「お疲れ様です」
アルバイト先のラーメン屋に辿りつくと、幸運なことに店長はまだ来ていなかった。タイムカードがないこの店では、店長が知らない限り、遅刻で給料を減らされることはないと聞いていた。
誠治は前掛けをかけ、バンダナを頭に巻きつける。そして洗い場に立った。彼の担当は皿洗いだ。みんなが嫌う担当で、アルバイト先を急いで決めたい彼は最初に面接をしたこの店で、担当を聞かされたが了解した。
1時間ほど過ぎやっと店長が現れた。しかし遅刻のことは咎められなかった。バイト仲間は持たれ待ちつつだ。誠治の遅刻も目をつぶってくれたらしい。
「ちょっとすみません。トイレ」
体調が悪そうにホール担当の学生が言い、彼が代わりにホールに出た。ホールの仕事は好きではないが、ホールに人がいないと話にならない。
「田茂戸さん、ありがとうね。これ10番によろしく」
厨房からそう声をかけられ、彼はチャーシューラーメンが乗った丸い盆を掴む。テーブルの番号はやっと覚えた。店の奥から2つ目のテーブルに進む。
「こちらがチャーシューラーメンです」
ラーメンのスープがこぼれないように気をつけながらテーブルに置く。お客が食べ始めるのを確認し、その場を離れた。
盆を片手に厨房に戻る途中で、また鈴がチリン、チリンと鳴る。
「あの、落としましたよ」
女性の声だった。またあの老婆の鍵が落ちたらしい。お客さんに拾ってもらった。誠治は愛想笑いを浮かべて振り向く。
「!」
女性客の顔を見て誠治は盆を落としそうになった。それは自分を痴漢扱いした若い女だった。向こうも気づいたらしい、ぽかんと誠治の顔を見て、その後すぐに顔を真っ赤に染めた。
彼はその場を立ち去ろうと再び回れ右をする。
「あの!」
しかし逃げることはできなかった。店内の客が一気に注目するような大きな声が彼を引き止める。誠治は何を言われるのだろうと戦々恐々立ち止まった。
「あの時、勘違いしてすみませんでした。見ていた知り合いの人から、あの後、私の勘違いを指摘されたんです。最初は信じなかったんですけど翌日同じ痴漢にあって。本当にすみませんでした!」
女は誠治のすぐ側まで歩いてきて深々と頭を下げる。
「あの、大丈夫ですから。あの時はすごい頭にきましたけど、今は大丈夫です」
素直に彼はそう言葉にする。あの時、彼女に怒りを覚えたのは確かだ。何度も助けなければよかったと後悔した。しかし、こうしてわかってくれた今、怒りの感情などどこにもない。むしろ、店内の注目を浴びていることが恥ずかしかった。
「あの、あの時のお詫びをしたいんです。何をすればいいですか?」
「い、いらないです。大丈夫です。じゃ、俺はここで」
ペコリと頭をさげ、盆を脇に抱えて誠治は店の奥へ引っ込む。トイレから出てきたバイト学生とすれ違ったので、彼がホールに出る必要はもうなかった。彼は自分だけのテリトリーである洗い場に戻る。
「はい、鍵です」
しばらくすると、ホールから出てきた学生にあの鍵を渡された。あの女性客が彼に返すように頼んだらしい。
「誠治さん、痴漢撃退とはなかなかやりますね」
「いや、別に……」
痴漢撃退ではない。単に痴漢していた男を注意したら、自分が間違われただけだった。決していい話ではなく、褒められてもあまり嬉しくなかった。勘違いだったと謝ってもらい気分が多少良くなったくらいだ。
(しっかし、なんておかしな鍵だろう。ポケットの奥にちゃんと入れたはずなのに)
誠治はそんなことを思ったが、すぐに夜のピーク時に入り、深く考えることをできないまま、皿洗いに追われた。
§ § §
「お疲れ様です」
夜9時、バイトの仕事はこの時間までだ。片付けは店長がすることになっているので、皆が帰り始める。誠治は皿洗い担当なので、バイトの中では最後に帰るほうだった。
「おやおや、あんた本当に欲がない人だね」
店を出るとすぐに声をかけられた。暗闇のはずなのに、その白髪が光を放ち、ベージュの着物がぼんやりと輝き、彼にはそれが夕方ハンバーガーを奢らされた老婆だとわかった。
(どうして老婆がここに?)
そんな彼の疑問を、知ってか、知らずか、老婆が口を開く。
「もう2つの偶然は終わっちまったよ。お詫びって言っていたのに、何も貰わないなんて。まあ。それだけあんたがいい人ってことだろうけど。残りはあと1つだ。今度はちゃんと何かもらんだよ。そうじゃないと、私がお礼する意味がないからね」
「どういう意味だ?」
老婆の言葉に誠治が眉を潜める。
2つの偶然とは、財布の主と痴漢に勘違いした女に会ったことなのか?お礼とは、あのハンバーガーのお礼なのか? そういえば鍵は老婆が落としたものだ。この鍵を拾ってもらい、偶然に彼は2人と会っている。
「わかったようだね?鍵が偶然を生み出しているんだ」
(鍵)
誠治はポケットを探る。あの鍵はしっかりとポケットに入ったままだった。
「偶然かなんだかわからないけど、返す。必要ないから」
別に侘びなんて必要もなかった。
彼は鍵を取り出すと老婆に差し出す。
「おっと、最後の偶然が待ってるんだ。それまでしっかり持ってな。きっと最後は楽しめるから」
老婆は鍵を受け取ろうとせず、ぽんぽんと誠治の肩を優しく叩く。すると一気に音が戻ってきた。車のクラクション、どの店から流れてくるのか音楽が聞こえ、先ほどの静けさが嘘のようだった。
そう、これが普通なのだ。夜遅くまでこの辺は騒がしい。どうやら老婆と話している間、音が消えていたのだ。誠治は不思議な気持ちできょろきょろ周りを見渡す。周辺はいつもと同じ、変わったことはなかった。ふと視線を元に戻す。すると老婆の姿が跡形もなく消えていた。
茫然としながら家までの道のりを歩く。ふいに視界に入ってきたコンビニを見て、自分の腹が空腹を訴えているのに気づく。4時過ぎに武士バーガーセットを途中までしか食べられず、あれから何にも食べていなかった。財布の中身を確認し、彼はコンビニに足を踏み入れた。
相変わらず食欲をそそる品揃えで、誠治はどれにするか迷う。単純明快、いや空腹のためか彼の頭から老婆のことは消え去っていた。
籠にビール、一番安いお弁当、お菓子を入れていく。
チリン、チリン。
あの鈴の音がした
「誠治くん?!」
背後から掛けられた甲高い声で、誠治の体に電流が走る。声の主が誰なのか、彼は知っていた。ゆっくりと振り返る。
肩より少し長めのゆるりとかかったパーマの茶色の髪、前髪もふわりと巻かれ、眉毛の上で綺麗に揃えられている。マスカラで強調された大きな瞳、ほんのりと赤い頬、唇はぽったりと厚めでピンク色。相変わらず愛くるしい彼女は、驚いた様子で彼を見上げていた。
彼女は鈴加レミ。元同僚。そして、彼を退職に追い込むことになった原因だった。
「久しぶりだね」
どういうわけか一緒にコンビ二を出る羽目になり、誠治は複雑な心境でレミと並んで歩く。家は近い。同僚だった頃は電車で一緒になることはよくあった。
あんなことがあったのに、こうして一緒に歩いていると彼は彼女への思いが断ち切れていないことに気がつく。
レミが不倫しているのを知っても好きであることは変わらなかった。だから結局自分が罪を背負ったまま退職した。
「ごめんね。誠治くん。あの時は本当のことが言えなくて。私、結局仕事やめちゃったんだ。責任感じちゃったし、不倫とかもよくないしね」
彼女は、ぺろっと舌を出して笑った。
謝っているとは決して思えない態度、それでも恋する馬鹿な男には可憐に見えてしまう。そして『不倫とかもよくないしね』という言葉で、レミが今フリーであることを知り、少しだけ期待する。
それが馬鹿な期待だとわかっているが、どうしてもかすかな望みを持ってしまった。
「誠治くんは今どうしてるの?仕事見つかったの?」
「え、いや。まだだけど」
嘘をつけない男は少し狼狽しながら答える。こういう時にすでに仕事が決まっていると言えることがもてる秘訣だろうが、誠治は残念ながら親切さ、真面目さ、正直ものがとりえの純朴な青年だった。
「そっか。じゃあ、これから一緒に飲まない。お詫びもしたいし」
棚から牡丹餅、思ってもみない言葉で彼のテンションが一気に上がる。そして老婆の言葉を思い出した。
(これは3度目の偶然。お詫びは受け取らないと)
「うん。飲もう。俺の家にこない?」
これはいいチャンスなんだ。
誠治はそう思い、少し大胆な気持ちになる。
「え、家にお邪魔してもいいの?」
「うん」
(今日出てくるとき、片付けてきてよかった)
彼は心の底からそう思い、恋する彼女と一緒に自宅に戻った。
アパートの2階に上がり、彼はレミを家に入れる。初めて女性と2人っきり、しかも家で飲む。緊張で喉がからからで、早くビールを飲みたかった。
「乾杯!」
テーブルにコンビニで買ってきたものを並べ、二人は乾杯した。そして大切に保管していた日本酒も開ける。
緊張をほぐすためにペースが早かった誠治はあっという間に酒が酔った。
「私、困ってるんだ。実はあのお金で足りなくて色々してたらばれちゃって」
とレミは自分の罪を暴露する。しかし酔っ払いはただ、にやにやして頷くのみだった。
「だから、ごめん。お金貸してくれないかな?」
しまいにはそう聞かれ、彼は深く考えないまま、うんうんとお金が保管している場所を教えた。
「ありがとう。誠治くん。お礼はたっぷりしてあげるから」
甘く囁かれ、誠治の目くるめく、魅惑のひと時が始まる。
彼にとっては何度も夢に見た出来事だった。
ドリーム カム トゥルー
最高の夜が終わり、朝日が昇る。
彼は眩しい光に目を瞬きながら、絶好調な気分で目を覚ました。
『誠治くん、昨日は楽しかった。お金借りました。また今度会った時に返すから』
最初に目に入ったのは、そう可愛い字で書かれた置き手紙。それが昨日飲み干した五合瓶を重石に、テーブルの端っこからぶら下げっていた。テーブルの上は昨日の飲んだビール缶、食べ散らかした弁当、お菓子の袋が散乱している。
お金を貸した覚えなど、誠治はまったくなかった。彼は体を起こすとその紙を握り締める。
ゆっくりとお金を保管している場所に行き、残高を確認する。
1万円札がかろうじて残っていた。
昨日までそこに5万円が置いてあった。
1回4万、それは高いのか、どうなのか。
「ははは。お邪魔します」
乾いた笑いがして、老婆が現れる。
「いやー災難だったね。ははは。私もまさか予想ができなくてね」
「予想ができないってどういう意味だ!」
怒りの行き先がない男は老婆に怒ってもしょうがないのに、大きな声を出す。レミと再会するきっかけを与えたのは老婆の鍵だ。しかしこの結果を生み出したのは間違いなく誠治だった。
「そのままの意味だよ。まったく予想ができなかった。でもまあ。夢は叶っただろう?」
老婆の言葉に誠治のコメカミが、ぴくっと動く。
「童貞喪失。昨日楽しんだんだろう?」
「殺してやろうか、このばばあ」
心の中でそう叫んだつもりだったが、彼はそう口にしていた。
「おお、怖い、怖い。怒らない、怒らない。はいよ。もう返してもらうよ」
老婆はそう言い、手を叩く。すると2つの鈴が付いた鍵がふわっと現れ、老婆の手元に戻る。
「今回はこんな結果だったけど。まあ、いいこともあるさ。あんたはいい青年だから」
「いいことって、なんだよ。結局何なんだよ!俺の金は?」
「いや、それは悪いけど。私に言ってもらっても困るね。とりあえず、これからいいことも、きっとあるから」
老婆は言いながらそろいそろりと誠治から離れる。明らかに逃げるつもりで、その足元は浮き足立っていた。
「待て、待ちやがれ!」
「悪いけど待てないね。次があるから」
彼の制止の声を無視して、老婆はふっと消えた。
残されたのは半裸の男と悲しい現実。
しかし翌日、彼にいい事は訪れた。
老婆の言った通りである。
誠治が着服したと思われていたお金だが、レミがやめたことで全てが明らかになり、彼の容疑が晴れたのだ。そして彼は職場復帰を果たした。
誠治の日常はバイト生活ではなく、サラリーマン生活に戻った。職場の雰囲気も彼に好意的で、以前のような針の筵的な雰囲気はなくなり、彼は快適なサラリーマン生活を送っている。
しかし、男はセンチメンタルな生き物なのか。
騙されたことにも関わらず、あの置き手紙はまだ誠治の家に置かれている。そしていつか、ごめんなさいとレミが現れるのを待っている。
チリン、チリン。
そう鈴の音を聞く度に、彼が立ち止まってしまうのも、そう、そのためだ。