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「くくくくくく……、よくもやってくれたものだ」
アレックスの声が響く。
いや、それは声と呼んでいいのかすらわからない、脳に――いや、全身に直接伝わってくるかのような重い響きだった。
背筋が凍るような、冷たさを帯びた声……。
身動きすらできないほどの凄まじい威圧感が、私たちを容赦なく包み込む。
怪しげな光を放つ瞳は、焦点が定まっていないようにも見えた。
異変に気づいたディル王やクリストも駆けつけてくるなり、周囲に張り詰める緊張した雰囲気にその動きを止める。
あまりの強烈なオーラに、近寄ることすらできないのだ。
「に……兄さん! いったいどうしたんだ!?」
クリストが叫ぶが、アレックスはただ歪んだ笑みを浮かべるのみだった。
さらに後ろからは、好奇心に負けて逃げ出さずに集まってきたような群衆とともに、黒曜帝と琥珀妃もやってきていた。
しかし、他の人たちと同じように一定の距離から近づくことができず、息を殺して成り行きを見守っている。
「これは、いったい……!?」
状況を理解できず、困惑の表情を浮かべてつぶやく黒曜帝。
すぐ隣では琥珀妃も、皇帝の腕につかまりながら、アレックスに驚愕の視線を向けていた。
中天まで昇った日差しによって、私たちの額には汗がにじんでいた。だが、アレックスは涼やかな顔をしている。
ただ私たちの目の前で、不敵な笑みを浮かべたアレックスの声だけが響く。
唐突に、アレックスの視線が、姫の扮装をしていたパールへと向けられた。
びくっ。
その視線のあまりの冷たさに、パールは思わず身をすくめる。
「そこの娘……。先ほどの茶番には少々驚いたぞ。カルセドニー様の名を語るとは、いい度胸だ」
アレックスの顔が不敵に歪む。
「そ……それは僕が考えたことだ! パールは演技してただけだよ! 関係ない!」
エリーが叫んだ。
「ふっ、美しきかばい合いというやつか? 人間とは愚かなものだな。そう急がずとも、あとからお前も一緒に地獄へ送ってやるというのに」
「そんなんじゃない!」
叫びながらもエリーは動けない。私のすぐ横にいるエリーの体は小刻みに震えていた。
私の腕をぎゅっとつかみ、なんとか震えを押し殺している。
どうにかして隙を作ろうと、そして事態を好転させる機会を作ろうと、エリーなりに頑張っているのだ。
「ともかく……」
そんなエリーの様子を察知したからなのか、アレックスは視線をパールに戻す。
「まずは、貴様から始末してやる!」
言うが早いか、奴は腕を前方へと掲げ、指先をパールに向ける。
と同時に、その指先からは閃光が放たれた。
ほんの一瞬の出来事だった。
私はその動きに反応することさえできなかったのだが……。
閃光が放たれる直前、猫目姫が音もなく動いていた。
素早い身のこなしでアレックスに飛びかかったのだ!
アレックスの指先から放たれた閃光は、わずかにその軌道を逸らす。
直撃は免れたものの、それでも閃光はパールをかすめた。
かすっただけだというのに、その閃光の力はパールの軽い体を吹き飛ばすには充分だった。
スローモーションのように大きく吹っ飛ぶパール。
今度こそ私は、とっさに動いていた。
パールの体を両腕でしっかりと受け止める。
「パール、大丈夫か!?」
「……ええ、かすっただけみたいですから。……痛っ……!」
パールは右腕を押さえて顔を歪める。
ドレスの袖は閃光がかすめたことで引き裂かれ、白い腕から赤い鮮血が流れ出していた。
出血の量はそれなりに多いようだが、命に関わる傷ではないだろう。右腕以外の傷も、見る限りでは無さそうだ。
私は素早く視線を移した。
アレックスの目の前には今、飛びかかった猫目姫が立ちはだかっている。
「くっ、邪魔をしやがって……! この国の者はコマとして利用してやるつもりだったが、そこまでして死にたいか!」
怒りに瞳を燃やすアレックス。
そんな相手に、猫目姫は怯むことなく対峙する。
「お前は何者にゃ!? アレックスではないにゃ!?」
「アレックス? ……ああ、この体のもとの持ち主か。この体は我が支配した。もとの意識がどうなったかは、我には関係のないことだが。もう消えてしまったのではないか?」
くっくっくっく……。
笑い声を響かせながらも、隙は見せない。
一度猫目姫に飛びかかられ、慎重になっているようだ。
「我はカーネリアン。紅玉の魔族と呼ばれたこともあったか……」
「な……なんだって!? 本物の、魔族!?」
ざわめきが広がる。
魔族カーネリアン。聞いたことはあった。
伝説上では魔族の王カルセドニーの直属の部下である四柱魔と呼ばれる魔族のひとりだ。
ジュエリア城にある本の中にも、そんな話はあった。
とはいえ、あくまでお話の中だけのものだと思っていた。
魔法自体が消滅したと考えられているこの時代に、魔族だとは。
にわかには信じられなかった。
だが、この圧倒的な威圧感と先ほどの閃光……。
奴の力は、本物の魔族だと確信するのに充分と言えるかもしれない。
「我はこの土地に長い間縛りつけられていた。その封印は今も完全には解けていない」
余裕を取り戻したのか、カーネリアンは語り始める。
それでも視線は周囲に巡らせ、隙を見せることはなかった。
「ずっと眠っていたが、長い時間が流れたからか、我の意識は目覚めた。完全な力をすぐに取り戻すことはできなかったが、近隣諸国までならば意識を飛ばして様々な状況を感じることができた」
誰も動けなかった。
これが魔族という存在なのか……。
ただカーネリアンの声だけが、耳の奥に流れ込んでくる。
「我は昔、ふたりの魔術師によって封印された。そのうちのひとりが、この体の持ち主――アレックスと、そこにいるクリストという奴の先祖にあたる人間だった」
「…………!!」
クリストが驚きの表情を浮かべている。どうやら完全に初耳のようだ。
しかも、先祖が魔術師だとは。
今ではすでに魔法の力は失われたと考えられているが、潜在的に力の残っている人間が生まれる場合はあった。
そういう者が、魔法の力が込められた道具を操る、今現在の魔法使いと呼ばれる存在になるわけだが。
ともあれ、クリストの家系に魔法の力を持った者がいたとは、これまで聞いたことがなかった。
「すでに長い年月を経て、力はほとんど消えてしまっているようだがな。我が力を封じた石はふたつに分けられ、ペンダントにされていた。それを家宝として代々受け継いでいたようだ。そのペンダントを持つのが、このアレックスと、クリストだった。だからこそ、我はクリストを呼び寄せたのだ。そして、石の中から力を取り出すことに成功した」
自らの力を示すためか、カーネリアンは右手を目の前に掲げる。その動作に合わせ、手の平の上には炎が現れた。
炎はめらめらと一瞬揺らめいたかと思うと、すぐに消えた。おそらく、自ら消したのだろう。
意のままに炎を操れていることに満足したのか、カーネリアンは若干目を細める。
「しかし、これで力が完全に戻ったわけではない。あと半分残っていた。封印を施したもうひとりの魔術師が、残り半分の力を封じていたからだ。その魔術師は、自らの体内に我の力を封じ込めた。そして封印された力は、子孫の体内に受け継がれていった。その家系が、現在のジュエリア王家の血筋となる」
カーネリアンの鋭い視線は、呆然としながら話を聞いていたエリーへと向けられた。
「今、その力が封印されているのが、そこにいるお前なのだ!」
「な……っ!」
エリーの表情が強張る。
「僕の中に、そんな力が……!?」
「姫の公開処刑も、お前をおびき出すための作戦だった。この地に封印された我が力の断片が近づいているのは、ひしひしと感じていたからな」
奴の狙いはエリーだったのか!
「感じるだろう……? 己の中に眠る、大きな力を!」
「うぐっ……!」
エリーが胸を押さえて苦しそうにうずくまる。
私は慌てて屈み込み、エリーの肩を揺すった。
「エリー! 大丈夫か!?」
「うぐぁ……げほっ……!」
苦しげにうめくエリー。
その体からは、明らかに今までに感じたことのない大きな力が生じているようだった。
「いいぞ。力をしっかりとその身に感じるのだ。そうしなければ、封印は解かれないからな。まったく、面倒な封印をしてくれたものだが……これでやっと本来の力を取り戻せそうだ」
カーネリアンが両手を掲げる。
途端に、炎をまとわりつかせた熱風が、奴の体を中心として巻き起こった。
熱風は渦となってその形をあらわにしていく。
それはさながら、炎の竜がカーネリアンの周りを舞い踊っているかのようだった。
圧倒的な魔族の力――。
これでまだ、半分の力でしかないというのか!?
「体内に封印された力をその身にしっかりと感じ、呑み込まれそうになったお前を殺すことで、封印されていた力は、長い年月離れていた本当の宿主である我のもとへと戻ってくるのだ! さあ、あと少し、あと少しだ!!」
ぐはははははははははは!!
カーネリアンの笑い声と、炎が渦巻く轟音、そしてエリーのうめき声だけが、重苦しい異常な光景に包まれた広場に響き渡っていた。