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城のかなり奥、関係者以外の立ち入りが許されない場所まで来ると、外の騒がしい音もまったく届かなくなった。
人も通らないため明かりもほとんど設置されておらず、暗く冷たい印象の通路を往く。
カツカツと寂しい足音の響く中、薄暗い角を曲がると、その先には物々しい金属製の大きな扉が見えてきた。
「ルビア!」
突然、長い栗色の髪を振り乱した人物が扉の中から飛び出し、私に抱きついてくる。
「遅いよぉ。僕、かなり待ったんだからね!」
私の腕につかまりながら、眉をこれでもかと吊り上げて不満をぶつけてくる。
しかし、すぐに愛らしい笑顔に戻った。
「ごめんな、エリー。ちょっとクリスト隊長と軽い話し合いがあってね」
エリー。
それが目の前にいるこの子の略名だ。今年でちょうど十五歳になる。
略名と表現しているのは、本当の名前を短くして呼んでいるからだ。
この国では王族は基本的に長い名前をつける。
そういう決まりがあるわけではないが、市民は長くても四~五文字程度までの名前をつけるのが習慣となっていたため、名前からも王族だということの差別化を図っていたのだ。
これも過去からの名残で、今では逆に市民との格差をなくそうと、普段名前を呼ぶときには短い略名を使うことが多い。
例えば、サファミアーヌ王妃は「サーヌ」、ディアモルド王は「ディル」が略名となっている。
もっともディル王に関しては、王家に婿入りした際に、ディアモルドの名を与えられたらしいが。
そして、本日成人したばかりのエメラリーフ姫の略名が、「エリー」だった。
今、私の目の前にいるこの子、エリーは、さっき成人の式典をしていたあの姫……では、残念ながらない。
とはいえ、本名はエメラリーフ、すなわち姫とまったく同じ。外見すらも、まったく同じにしか見えないのだが。
「エリー、前回の宿題はちゃんとやってあるよな?」
「もちろんだよ!」
エリーは元気に答え、羊皮紙に書いた宿題を自慢げに見せつけてくる。
姫と見分けがつかないほどの、愛らしい笑みを浮かべている。
こんな表情をしているが、目の前にいるエリーは、姫の双子の弟なのである。
そう、つまりは男……王子なのだ。
この国は女性優位な社会ということもあり、後々には姫が王妃となって国を支えていくことになるはずだ。
ただ、双子だったからなのか、姫は生まれつき体が弱かった。
命に別状があるわけでもないのだが、激しい運動などはできない。それどころか、人が大勢いる場所に長時間いるだけでも体調が悪くなってしまう。
姫という立場上、激しい運動をする必要はないだろうが、人が多い中で体調を崩してしまうのは問題がある。
ともあれ、王子を跡継ぎにするのは社会の流れ的に許されなかった。
当然ながら、女性の跡継ぎがいない場合には男性が跡を継ぎ、嫁を取る形で王妃を誕生させる、といったことも王国の歴史上にはあった。
だが、病弱とはいえ女性である姫がいるにもかかわらず王子に跡を継がせる、というわけにはいかなかったのだ。
そこで王妃は考えた。
王子を「影武者」にして姫に成りきらせればよい。姫が体調を崩した際には、王子が姫の役を演じればよいのだと。
そのためには王子を女性として育て、姫の身代わりとしての教育をしなければならなかった。
王子自身の名前をつけず、姫と同じ名前にしているのも、その一環のようだ。
「どれどれ……」
羊皮紙を受け取り、宿題の内容を細かくチェックしていく。
残念ながら、その答えは間違いだらけだった。
「どぉ?」
横からのぞき込み、頑張ったでしょ? と言わんばかりに結果を訊いてくる。
そんなエリーの笑顔を見ていると、間違っているなんて言いたくなくなってしまうが……。
教育係として、ここはビシッと言わなければならない。
「数はこなしているし頑張ってはいるが、間違いが多いな。問題は解いたあとの確認もしっかりとするよう、心がけたほうがいいぞ」
「むぅー……」
エリーは途端に、しょんぼりとした表情になる。
私は物心ついた頃から、侍女だった母親に連れられてこの城に来ていた。
当時子宝に恵まれていなかった王妃夫妻は、私を我が子のように可愛がってくれた。
やがて王妃にも双子の子供ができた。それでも、私に対する扱いが変わったりはしなかった。
サーヌ王妃もディル王も、自分たちの子供を可愛がるのと同じように、私のことを大切にしてくれた。
乳飲み子だった双子のエリーも、ある程度手のかからない年齢になれば、王族として様々な教育が必要となってくる。
サーヌ王妃とディル王は、姫の教育で忙しくなった。
ただ、姫の教育だけではなく、王子にも姫の替え玉としての教育が必要だった。
そこで、すでに分別もつく年頃になっていた私が、王子の教育係……というか世話係として抜擢されたのだ。
年齢的には、エリー王子とはたったの八つ違いだ。
教育係を始めたのも十二歳の頃だったのだから、教育するというよりは、どちらかというと友達感覚で遊び相手になることを重要視していたのだろう。
「ま、ちゃんと教えるから、しっかり覚えておくんだぞ?」
そう言って頭を撫でてやる。
「うん!」
満面の笑みで答えるエリー。
姫とそっくりなその笑顔は、何度見ても、これが本当に男なのかと疑ってしまうほどだ。
だがもちろん、男だということに間違いはない。小さい頃は身の回りの世話までしていたため、私がお風呂に入れたりもしていたのだから。
☆☆☆☆☆
「……で、ここに公式を当てはめると、こうやって計算できるってわけだ」
「ほんとだー。すごいすごい! これなら簡単だね~!」
今日、私がエリーに教えているのは数学だ。
エリーは若干、数字に弱いところがある。
実際に役に立つのか怪しいものも多いが、計算などに強くなっておいて悪いことはないだろうし、弱い部分はなるべく克服しておくべきだ。そこで最近では重点的に数学を教えている。
とはいっても、それほど高度な数学ではない。
私自身も、文武両道をモットーにしてはいるが、どちらもそこそこできる程度でしかない。
つまり、悪く言えば、どっちつかずの中途半端な人間なのだ。
この国には学校制度があり、たいていの子供はある程度の教育を受ける。教育年数は固定されているわけではないが、通常は六、七年くらいだ。
私は一応、上級教育も受けているため、十年ほど学校に通っていた。
エリーの教育係になってからも、数年間は学校に通い続けていたことになる。その後、王妃から近衛騎士の入団テストの話を持ちかけられ、そのテストに無事合格できたため、学校は卒業することにしたのだが。
しかし、王族の子供ともなると、そう簡単にはいかない。混乱を避けるため、一般の学校には通わせられないのだ。
だからこそ、教育を受け持つ専属の教師が必要となり、それを私が引き受けることになったわけだが。
学校での成績は悪くなかったものの、とくに優秀というわけでもなかった私ごときには、王子の教育係などという大役は荷が重過ぎる。
昔はよく、そう考えたものだったが、
「さすがルビア! わかりやすく教えてくれるし、本当にルビアが教育係でよかったよ!」
笑顔でエリーにこんなふうに言われると、そういった悩みも吹き飛んでしまうから不思議なものだ。
外見の可愛らしさというだけでなく、内面的に惹きつけられるなにかがあるように感じられた。
エリーは本当に素直でよい子だ。
自分自身の名前がなく、姫と同じ名前だということ、それはかなりひどいように思える。
しかしエリーは、
「僕はお姉様が大好きだよ。お姉様の影武者になってお役に立てるのも嬉しいんだ。だから名前だって、お姉様の名前を名乗れること自体、誇らしく思ってるんだよ」
そう笑顔で言うのだ。
それだけではなく、
「それに、ちゃんと僕のことをわかってくれている、ルビアみたいな人もいるしね!」
と、私なんかにまで気遣ってくれる優しさをも兼ね備えている。
王妃への恩も当然あったが、私はエリー自身の人柄に惹かれているからこそ、こうして教育係を続けているのだ。
そして、なにがあってもエリーを守り続けていこうと心に誓っていた。