家族、売ります
1
"家族、売ります"
段ボール製の看板に、赤いマーカーを使って、はっきりとそう書かれていた。
それを見て、玉田保は足を止めた。
時刻は夕方の六時半。その日、新しく契約が取れた祝杯をあげるため、飲み屋へ近道するために入った裏通りで、それを見つけたものであった。
その"家族"を売っているのは、ねずみ色のコートを着て、頬がげっそりと痩せている男だった。とても顔色が悪く、暗い表情を浮かべながら、膝を抱えるような格好でゴザに座っていた。
(貧血なのかねぇ?)
玉田は、そんなことを思いながら、男をじろじろと眺めた。興味は感じていたが、まだ声はかけなかった。
男の周囲には、看板に書いてある"売り物"は影も形もなかった。男は、玉田の視線を受けて、とても居心地が悪そうだった。
「何だね、こいつは何かの冗談かね?」
玉田は、やっと男にそう問いかけた。男は首を横に振ると、
「本当ですよ。本当に家族を売っているんですよ。妻と娘が一人。一戸建ての家と車もつけますよ。あなた、買いませんか?」
と持ち掛けて来た。
男の目つきは真剣だった。玉田は、その男は"家族"を売らなければ、家に帰れないのか? と思った。それが、我ながら洒落が利いていると感じて、玉田は思わず忍び笑いを漏らした。
「ねえ、あなた、本当に買いませんか。お金なんかいらない。タダで家族を売りますよ」
男は、そんな玉田の態度に気分を害した様子も見せず、食らいつくようにして、彼に迫って来た。
「君ねぇ、そりゃ、売るんじゃなくて、譲るっていうんだよ」
玉田は、からかうような口調で、そう揚げ足を取った。
男の話は冗談としか思えなかったが、かなり面白そうな話ではあった。
玉田が今の仕事に就いてもう15年になる。ずっと同じ仕事を続けていると、日常や仕事にも刺激が少なくなってきて、面白そうな話があると、つい、飛び付きたくなるのであった。例の"家族、売ります"という看板を見て足を止めたのも、そういう心理が働いたものだった。
この男が手放したがっている家族とは、いったい、どんなものなのか……。玉田は、俄かに興味が湧いて来ていた。
幸いにして、と言うべきか、玉田は40歳という年齢に加えて、職場ではそれなりの役職にもついているのにも関わらず、未だに独身であった。親もいい加減、彼が結婚しないのに匙を投げていたが、別に結婚したくないわけではなかった。できなかったのだ。
だから、ひとつ、"家族"とやらを買って、それを体験してみるのもよさそうだった。
「よし、その家族、買おうじゃないか」
「本当ですか!!」
男の表情がぱっと明るくなった。地獄で仏に会った人間だって、こんな嬉しそうな顔はすまい。こいつは余程の恐妻家なのか? すると、その奥さんとやらは、そんなに怖いのかな、と玉田は急に、後悔の念が湧いて来た。
「じゃあ、この住所に行って下さい」
気が変わらない内に、とでも言わんばかりの勢いで、男は、どこかの住所と地図を書いた紙を、彼の手に押し付けてきた。
「何だ、婚姻届ではないのかね。君が離婚して、奥さんと私が再婚する、という話じゃあないのかね?」
「違いますよ。とにかく、家族を売るんです」
「気に入らなかったら返すぞ」
言われた途端に、男はまた地獄に落ちたような顔になった。
「そ、そんな」
「クーリング・オフはきくんだろう?」
玉田はそう言って男に背を向けると、書かれた住所に向かって歩き始めた。多分、後で戻っても、男はいないだろうな、という確信があった。
2
「おや、意外にいい家じゃないか」
玉田は、その一戸建て二階の家を見た時、思わず感嘆の声を上げた。はっきり言って、彼の住んでいるマンションよりも、数段、良さそうな家だった。
ここに来るまで約一時間。電車を乗り継いで、人家がまばらなところを通過してきた。道路は辛うじて通っていたが、こんな辺鄙なところにある家では、山姥しか住まないのでは? と思って、さては、担がれたのか? と考え始めた頃に、不意に、この家が現れたものだった。
インターフォンに指をかけようとして、玉田は急に迷いを感じた。もしかして、こいつはドッキリなんとかという、人をからかうタイプの企画で、俺がインターホンを押した途端、さっきの男が出てきて、「大成功。いやあ、見事に騙されましたね」とでもいうんじゃあるまいな、という考えが一瞬で頭を駆け巡った。先回りするには十分な時間が経過しているように思えた。
玉田がそこでためらっていると、ドアが内側から開いた。
ぎょっとして身構えた玉田の眼前に、四十代位の女がぬうっと姿を現した。
第一印象で、あの男には不釣り合いな美人だわい、と感じた。何となく、朝の情報バラエティに出演している知性派女優に似ているような気がした。
「あら、あなた、お帰りなさい」
「え、う、うん」
「どうしたの? そんな所に突っ立って。さ、家に入りなさいな」
女は、実に自然な調子で、玉田を家に招じ入れた。
「あ、パパ、お帰りなさい」
家に入るなり、これまた美人の、高校生くらいの娘が彼を笑顔で出迎えた。
「あら、あなた、どうしたの? 美香がおかえりなさいって」
きょとんとする玉田に向かって、妻が娘の名前を教えてくれた。
「あ、うん、ただいま」
「お仕事、お疲れ様」
そうやって、可愛い娘に言われると、玉田はじんわりと気分が良くなった。
「疲れたでしょう、あなた。さ、さ、ご飯にしなさいな。ビールも冷えているわよ」
"妻"は、彼の上着を脱がせると、彼を居間に案内した。居間のテーブルには食事が並べられており、彼が椅子に座ると、すぐに妻がビールを出して来た。彼の好きな銘柄であった。
「TVを見ます?」
「あ、ああ」
"妻"は、実に甲斐甲斐しく、彼の世話を焼いてくれた。食事が終われば、風呂の準備もしてあったし、言うことなしだった。
「いやあ、実にいい気分だ」
風呂に入りながら、玉田は、思わずそう呟いた。まるで、最初から彼の家族であったように、妻も娘もすんなりと彼の心に入り込んで来ていた。
まだ、担がれている可能性を捨て切っていたわけではないけれど、これくらいしてくれるのなら、騙されてもいいような気がしてきた。最近、特に出てきた下っ腹をさすりながら、玉田は、すっかりリラックスしていた。
「しかし……」
本当に、この家も妻も娘も、自分の物になるとしたら……。玉田は、少し、期待していた。
もし、本当にあの"妻"と夫婦になったとすれば、夫婦として、当然、あるものを要求していいはずだった。
(まあ、それはいくらなんでも、あり得ないだろうなぁ)
いい加減、カメラが出て来ないのかな? と考えつつも、玉田は、願望を捨て切れずにいた。
風呂から上がると、妻が寝室に彼を案内した。そこは和室で、蒲団が二つ並べてあった。
「お風呂に入って来るから、待っていてね」
"妻"にそう言われた途端に、玉田は、強烈な情動が内から湧きあがってくるのを感じた。枕もとには、ティッシュと避妊具の箱も置いてある。これは、『あれ』を期待してもよさそうな雰囲気だった。
(まさか、まさかな……)
"妻"は、彼が夫婦生活というものに抱いていた理想を、全部叶えてくれるかのようであった。だが、そこまで行くと、話がうますぎる、と警戒する気持ちも起って来て、玉田は、布団に入って落ち着かないでいた。
やがて、妻が湯上りの匂いを漂わせながら部屋に戻って来て、電灯を豆電球だけにすると、実に自然な感じで彼の隣りの布団に入って来た。
「どうしたの、あなた? そんなに固くなって」
妻は、彼の方に手を滑り込ませて来た。その柔らかい手の感触に、玉田はすっかり参ってしまいそうになった。
「さすがに、もうそろそろ、カメラが出て来ても、いいんじゃないかなぁ……」
「何のこと?」
「いやいや、こいつは、ドッキリなんとかっていう企画なんでしょう? さすがに、こんなうまい話はないでしょう」
「またまた、そんなことを言って。じゃあ、信じさせてあげるわ」
そう言うと、"妻"は、立ち上がって、身に着けていた浴衣の前をはだけた。忽ち、玉田が未だにお目にかかったことがない、素晴らしい裸身が姿を現した。
「……」
玉田は、あまりにも都合がよすぎる展開に、すっかり、言葉を失ってた。まだ疑いは残っていたが、"妻"が、彼の手に乳房を押し付けてくると、そんな疑いも、どこかに消えてしまいそうだった。
「ほら、優香のおっぱいを忘れたの? パパ、これが大好きだったじゃない」
「わ、忘れるわけがないだろう」
当然、それを触るのは初めてだったが、そこまで言われて、知らないと言う理性は、もうとっくに消え失せていた。玉田は、"妻"=優香を押し倒すと、夢中で彼女に抱きついた。優香はまったく抵抗せず、それどころか、喜んで彼を受け入れてくれるかのようだった。
「ああ、満足だ……」
終わって、玉田はそう呟いた。今までに経験したことの無い、極上の快楽であった。
もう、これが仕込みであるという疑いは捨て去っていた。彼は、もう優香が妻である、という気になっていた。
そこで、ふと、あの男のことを思い出した。あの男は、やけに彼女を手放したがっていた。その理由は解らないが、実に、もったいないことをする奴だ、と玉田は呆れにも似た感情を抱いた。こんな美人と毎晩楽しめるのであれば、多少の性格の悪さがあったとしても、それは些細な問題のような気がた。それに、今夜の体験だけで、十分にお釣りが来るような、そんな素晴らしい満足感が玉田にはあった。
(この関係が、いつまでも続くといいなぁ)
その時の玉田は、そう思った。
3
翌日、必要な手続きは、全部私がやっておくわね、と妻に言われた玉田は、きっと、家の所有や婚姻届のことだろうと合点した。
「そうだ、俺の荷物は、どうしようか?」
「それも私が引越し屋さんを手配しておくわ。住所を教えてちょうだい」
何も疑わずに、玉田は、メモ帳に、自宅の住所や電話番号を控えて渡した。
「ねえ、パパ、学校まで送って行ってよ」
出かけ際に、美香がねだってきた。
「こら、美香」
「いいじゃない。ねえ?」
「あ、う、うん。いいとも」
「パパは、優しいんだから」
今まで家族を持ったことがない玉田だったが、優香はいかにも妻らしかったし、美香はいかにも娘らしかった。
自宅のガレージには、確かに車もあった。型は古いが、かなり値段が張る国産車で、玉田は大いにそれが気に入った。
車を運転している間、美香は、じろじろと玉田のことを見ていた。
「どうしたんだ? そんなに、俺のことを見て」
「ううん。パパって、いい体をしているなぁって思って」
「おいおい、からかうなよ」
「からかってなんかいないよ」
「そうか?」
そう言われると、最近、だらしなくなってきたと思っていた肉体にも、自信が持てるような気がした。ついでに、若干のスケベ心も起って来た。しかし、あんな美人の妻がいるのに、娘に手を出すというのは、罰が当たるというものだ。玉田は自制した。
「ここで降ろして。学校はこの近くよ」
「わかった。ところで、学校はどこに通っているんだい?」
「えっと……S村高校よ」
「S村高校?」
玉田は、首を傾げた。聞き覚えの無い高校名だった。
玉田の勤め先は、市内の学校で扱う備品や消耗品を扱う会社であった。仕事柄、彼は営業で市内の学校を回ることが多く、市内の小・中・高の名前は殆ど全部覚えていた。
その彼の記憶には、S村高校という名前は無かった。
それでも玉田は、言われた通りに、路上で美香を降ろしてやった。美香は、手を振りながら、朝の通勤ラッシュの中に紛れて行った。それを見て、玉田は、パパと呼ばれるのもいいもんだ、と感じていた。
「玉田係長、マイカー通勤に変えたんですか?」
車で通勤して来た玉田を見て、部下がそう訊いて来た。
「ん、ああ、今度、遠くに引っ越すことになってね。そのために買ったのを試し乗りしているわけさ」
「引っ越し? それはいきなりですね」
「ああ。手続きが今から大変だよ」
妻のことはまだ伏せておいた。さすがに、昨日いきなり結婚した、と言うと、変に思われるだろう。ついでに、引越しに際しても同僚や部下の手を煩わせる気はなかった。
どうせ優香が引越し会社に頼んで、万事片づけておいてくれるだろう、と昨日会ったばかりなのにも関わらず、玉田はすっかり優香を信用し切っていた。
今日は一日中、会社で受け付けて来た注文を捌いた。ここのところ、世の中は不況で、上司も仕事が減ったとこぼしていたが、それでも、学校をお得意様にしているのと、顧問として雇っている元教育委員会役員のコネがあるおかげで、会社はそれなりに安定した業績を上げていた。
(そういえば、課長はこの会社が長かったな。S村高校という名前に心当たりがあるだろうか?)
昼休み、食堂でたまたま課長の姿を見かけた玉田は、彼に、気にかかっていたことを訊いてみることにした。
「課長。S村高校ってどこにあるかご存知ですか?」
「S村高校? 何だね、玉田君、そんな、もう無い高校のことに興味があるのかね?」
「もうない?」
玉田はどきりとした。美香に嘘をつかれた、という可能性に、怯えのようなものを感じていた。
「そうだよ。もう15年くらい前かなぁ。廃校になってしまったんだ。市内からも遠かったし、交通が不便すぎて生徒が集まらなかったんだ」
15年くらい前といえば、玉田が今の仕事を始めた頃である。だから、彼の記憶に名前がないのも、無理はないことであった。
「市内から遠かった?」
「ああ。ここから電車を二つ乗り継いで駅を降りて、そこからまた歩かなければいけない所にあったんだ。昔、営業で行ったことがあるけど、1時間くらいはかかったかなぁ。今はもう、取り壊されているけどね。興味があるなら、社内の資料室に名簿があるはずだけど」
不安になった玉田は、昼食もそこそこに、その名簿を調べてみることにした。
果たして、その学校のあった場所、というのは、彼の新居の近くであった。
なぜ美香が嘘をついたのか、当然、玉田には解らなかった。だが、それを問いただしてみるのは、何となく気が引けた。40歳にして"家族"を体験した玉田は、今の関係を壊したくなかった。
その日も仕事を終わらせて家に帰ると、妻と美香が出迎えてくれた。
「おかえりなさ〜い」
美香は、玉田の腕に自分の腕を絡めてきた。その人懐っこさを見ると、嘘をつかれたことなど、些細なことのように思えてくるから不思議だった。
「ほら、美香、パパは仕事で疲れているんだから、上に行きなさい」
「はぁ〜い……」
美香は、なごり惜しそうに、玉田の腕を離した。そこで、玉田は、美香にもきっと事情があったに違いない、と思い込むことにした。追求することで関係が気まずくなることは避けたい、という消極的な妥協に、玉田は傾いていた。
「さ、お食事にしましょう」
優香はテーブルに一人分の料理を並べ始めた。
「何だ、もう食べてしまったのか?」
「ええ、あなた、遅いから」
「まあ、こんな街から離れた所だと、帰りも遅くなってしまうからなぁ」
そこで、課長の言葉を思い出して、玉田はまた頭をもたげてきた疑いを打ち消すために、話題を変えることにした。
「ところで、引っ越しの手配はしておいてくれたのかい?」
「ええ、もちろんよ」
優香はそう請け合った。その態度には、何ら引っかかる所は無かった。
「沢山、食べてね」
料理はいかにもカロリーが高そうなものばかりだった。そろそろ健康には気を使わねばならない年齢だが、愛妻料理だと思うと、いくらでも腹に入った。
「あまり食べ過ぎると、太りそうだな」
「私は太めの方が好きよ」
そう言えば、あの男はガリガリに痩せていたっけ、と玉田は不意に思い出した。こんなに美味いものを毎日食べていたくせに、あんなに痩せているのは不自然に思えた。しかし、玉田は、そのことも頭から追い出そうと努めた。
その夜も、玉田は優香と一緒に寝た。今度は玉田から求めても、優香は拒否しなかった。
「優香を食べちゃうぞ〜」
玉田は、もうすっかり優香の虜になっていた。おかげで、会社では決して見せないような馬鹿な真似もできるのであった。
「まあ、いやだ」
そう言いつつも、優香は満更でもなさそうに見えた。
行為が終わった後、玉田は仰向けになって腹を出した格好で、うつらうつらとしていた。
その時、自分の腹を撫でる優香の指の柔らかい感触があった。
「ぶふふ……」
玉田は、豚のように唸って、くすぐったさを楽しんだ。ねぼけ眼に、優香が、自分の腹を、心底から愛おしそうに撫でているのが見えた。舌舐めずりさえしているように見えたが、さすがにそれは勘違いであろう、と思いながら、玉田はその日も眠りに落ちて行った。
4
そんな生活が二週間ほど続いた頃である。
その間、強いて気にしないようにしていた事が、玉田の中で、また引っ掛かり始めていた。
玉田は40歳にして初めて持った"家族"を堪能していた。優香は美人で気が利くし、美香も母親に劣らず美人で彼を慕ってくれる、完璧な妻と娘であった。
だから、二人の普通と違う点が、嫌でも気になってしまうのであった。
例えれば、白い紙に墨汁を垂らしたとき、落ちて染みになった黒い点が、そこから徐々に広がっていくような、そんな違和感を覚えていた。
まず、優香と美香は、彼の前では決して物を食べなかった。休みの日でさえも、一緒に食卓を囲むことは無く、いつも二人は、玉田が物を食べるのを見ているだけであった。
昔話に、ケチな男が飯を食わないという触れ込みの女を妻にしたら、それが二口女という妖怪だった、という話がある。これは、二口=舌が二枚ある=二枚舌=嘘つきというのをかけた名前だろうけれど、そういえば、優香と美香も女で、口が合わせて二つある……。
まあ、それは単なるこじつけであるが、それ以上に気になっていたのは、彼の荷物が、一向に新居に運び込まれてこないことだった。
優香が確かに手続きをしたと言うから、それを信じたものだが、いくらなんでも時間がかかりすぎていた。
不安を感じた玉田は、ある日の仕事帰りに、自分が以前住んでいたマンションに立ち寄ってみることにした。
「おや、玉田さん。二週間も姿が見えなかったから、どうしたのかと思いましたよ」
マンションの管理人に、入口で会うなりそう言われて、玉田は首を傾げてしまった。
「私、引っ越したんですけど……」
「ええ? 全然知らなかったよ。困るなぁ、そういうことは、あらかじめ知らせておいてくれなきゃ」
「妻が手続きをしてくれたはずなんですけど……」
「ええ? 玉田さん、いつ結婚したんです?」
玉田の漠然とした不安が、今、ゆっくりと形を取り始めた。
「私の荷物を取りに、業者が来ませんでした?」
縋るような口調で、玉田は管理人に尋ねた。まだ優香を信じたい、という気持ちが多分にあった。
「誰も来てないよ。だから、あんたの部屋もそのままだよ。玉田さん」
玉田は自分の部屋に行ってみた。そこは、二週間前に、自分が留守にした時のままであった。
「どういうことだ?」
思わず、疑問が口から出た。二週間もゴミを放置していたせいで、ひどい異臭がして、玉田は窓を開けて空気を入れ替えた。悪臭と一緒に、部屋には埃が堆積しており、誰かが部屋を訪れた痕跡は皆無だった。
(優香が嘘をつくなんて、信じられん……)
玉田は、布団の中で、彼に絡みついてくる優香の肢体を思い出していた。彼の五感に残るその感触への執着が、嘘をつかれた、という明らかな証拠を突きつけられても、そこに何か納得できる理由があると思いたがっていた。
5
優香たちへの疑念を払拭したい玉田は、ある日、出かけるふりをして、その間に何をしているかを確かめてみようと考えた。
まず、いつものように美香を街まで送って行ったあと、適当な場所に車を置き、電車に乗って、家までの道のりを引き返した。
(おや?)
家に帰るなり、玉田はあり得ない光景を見た。
美香が帰宅していたのだ。
彼女と街で別れて、玉田が電車に乗るまで15分も経過していなかった。あの後、美香がすぐに街から引き返したとしても、付近の駅に停まる電車の間隔を考えれば、確実に途中で出会うはずであった。だが、玉田は、帰りの電車の中でも、駅でも美香の姿は見ていない。
それなのに、美香の方が彼よりも先に家に戻っている……。尋常なことではなかった。
玉田は、すぐには家に入らず、隠れて様子を窺ってみることにした。辺鄙なところだと、隠れるのに適した茂みはいくらでもあった。
美香は庭に立って、空を見上げていた。その姿勢のままで固まって、口をもごもごと動かしている姿は、いつものあの明るく、人懐っこい美香からは想像もつかない不気味さがあった。
そこへ、カラスが一羽、ふらふらと美香の方へと降りて行った。まるで彼女の呪文に吸い寄せられるような不自然な動きを見て、玉田は不吉なものを感じ始めていた。
カラスが手の届きそうな距離に来るなり、美香がいきなり動いた。
美香は、信じられないほど素早い動きでカラスを掴むと、暴れるカラスの脚と頭をつかみ、いきなりその首に食らいついた。
あまりの展開に、玉田は思わず声が出そうになった。だが、玉田の身を守ろうとする本能が、辛うじて声を腹の奥まで引っ込ませた。
美香は、もがくカラスの傷口を貪るようにしてかじり続けていた。口元がカラスの血で真っ赤に染まってもまったく頓着せず、かえって血を舐め回しながら、歪んだ笑みを浮かべていた。そこには、玉田を「パパ」と慕う娘の無邪気さなど、欠片も無かった。
「美香」
そこへ、優香が姿を現した。
縁側に立っている優香もまた、美香と同じく、いつもの優香では無かった。やけに無表情で、人間らしさ、というものが全体から抜け落ちているようであった。
「駄目でしょう。おやつを食べたら、ご飯が入らなくなるわよ」
「ごめん、ママ。でも、お腹が空いちゃって……もう、二週間も我慢しているから……」
「もう少し待ちなさい。そろそろあの男も太って来て、明日あたり、たっぷりと血を吸うことが出来るから」
会話を盗み聞いていた玉田は、突然、めまいを感じた。次いで、足もとがガクガクと震え出し、脇の下には汗が流れ始めた。彼が信じようとしていたもろい土台は、もはや崩壊寸前であった。
「楽しみだわ。だって、あの人、とってもいい体をしているもの」
「そうそう。食べる所が沢山ありそうよね」
二人の笑顔を見て、玉田がここ数日抱いていた、優香たちを信じたい、という気持ちは、完全に消滅してしまった。
あの時、自分に家族を売った男の、異様に痩せた姿が、ありありと思い出されてきた。あの男が必死に家族を売る、と言っていた様子を、もはや玉田は笑えなくなっていた。あの男が"家族"を売りたがっていた原因が、今、玉田の身にも振りかかろうとしていた。
(逃げなければ……)
そうしなければ、確実に、あの男の二の舞だった。玉田は、こっそりとその場を離れようとした。ここからできるだけ遠くに離れて、もう二度と戻って来ないつもりになっていた。
だが……。
「あなた」
「!」
何故、最悪のタイミング、というのは必ずやって来てしまうのか? 彼は背後に二つの気配を感じた。
「どうしたの? こんな時間に帰って来て?」
「そうよ。パパ。答えてちょうだい」
「い、いや、忘れ物を取りに来ただけだよ。今から仕事に戻るところだよ……」
「何でずっとむこうを向いているの? こっちを見なさいよ」
玉田は絶対に振り返りたくはなかった。だが、不思議なもので、怖いものほどその実態を確認しておきたいという相反した心理が、玉田に反対の行動を取らせた。
確実にやってくるであろう恐怖の瞬間を遅らせたがっているかのように、玉田はゆっくりと振り返った。
優香と美香は、白目が異常に目立つほど大きく目を見開いて彼を見ていた。
こんな恐ろしい顔を見せる人間を、玉田は今までの人生で一人も知らなかった。そして、こんな目付きをした人間への対処法については、多分、これからだって、何も思い浮かばないであろう、という嫌な確信があった。
優香と美香は、簡単に玉田を捕まえると、彼を裸にして手足を縛って抱え上げ、家の一室に彼を転がした。外見に似合わぬ怪力に、玉田はもう、抵抗する勇気を失くしていた。
「た、助けてくれぇ……」
玉田は、さしずめ処理場に運ばれた豚といったところだった。情けなく哀願する玉田を、女二人はじっと見下ろしていた。最悪なことに、二人が何をしようとしているのか、今の玉田には、恐ろしいほどに良く解っているのであった。
「もう少し、太らせるつもりだったけど、バレたからには仕方ないわよね、ママ」
「そうね。ねえ、あなた。あれだけサービスしたんだから、あなたも出血大サービス、してくれるわよねぇ……」
そう言う二人の口が、彼の見ている前で、信じられないほど大きな角度で開いた。同時に玉田も大きく口を開いていた。
そこから悲鳴が漏れるのと、二人が玉田にかじりついてきたのは、ほぼ同時だった。
「ひぃぃぃぃ!!」
優香は腕に歯を突き立て、美香はすねにかじりついて来た。
子供にすねをかじられるのがこれほど辛いことだと、玉田は40歳になって初めて知ったのであった。
「ぎゃあああ!」
優香と美香は、玉田の体に情け容赦なく、歯を突き立てて来た。鋭く固いものが皮膚を裂いて、血がこぼれた。二人は、それを猛烈な勢いで、しかも美味そうな音を立てて啜るのであった。
この二人の正体が何なのか、そんなことを気にする余裕などなかった。浮気がバレて必死に妻に許しを請う夫のように、今の玉田には、ただ悲鳴を上げ続けることしかできなかった。
6
それから数日間、玉田は監禁されて、二人から死なない程度に血を吸われ続けた。
玉田の外見は、いつしか、彼に家族を売ったあの男と似通ってきていた。
「こ、殺さないでくれ……」
『頼』や『願』という漢字を使った熟語を全部並べても、この時の玉田の状態を表現し尽くすことはできまい。
「あら、今さら助かりたいのかしら?」
そう言って彼を見下ろす優香の目つきは、夫ではなく、家畜を見るそれだった。
「もちろんだよ……」
「じゃあ、代わりを用意してちょうだい」
優香は居丈高に彼に命令した。そんなことは織り込み済だ、と言わんばかりの口調であった。きっと、玉田とのことも、今までに延々と続けられてきたこの恐怖の一コマに過ぎないのであろう。
「言っておくけど、逃げても無駄よ。あなたの住所は解っているんだから」
そうか、そのために、引越し屋に頼むなどと騙して、自分の住所を入手したのか。
玉田は、優香を信じた以前の自分の迂闊さを呪いたかった。そして、ついでに、もう"家族"などいらなくなっていた。
解放された玉田は、ふらつきながら、二度と戻らないであろう"我が家"を出た。
車はガレージにあったが、それは使わずに、苦しくとも駅まで歩いて行った。あの家と繋がりのあるものには、一切、触りたくなかった。
電車に乗って市内まで戻った玉田は、すっかり途方に暮れてしまった。
一体、どうやって、身代わりを見つければいいのか……。
そこで玉田の足は、自然に、前に自分に"家族"を売った男がいた場所に向いていた。
当然、男はいなかった。だが、男が残して行った物は、そこにあった。
結局、玉田に残されたのは、あの手しかなかった。
玉田は路上でゴザをしき、その上で膝を抱えるようにして座って、誰かが通りかかるのを待っていた。
彼の傍らには、マーカーで文字が記された、段ボール製の看板が出してあった。
そこには、はっきりと、こう書かれていた。
"家族、売ります"と。
〈終〉
※この作品はフィクションです。実在の人物、団体、事件とはいっさい関係がございません。