白雪姫はわらしべ長者をやめたい
猫、メロンソーダ、抱き枕……私の好きなものを挙げていったらキリがない。生まれてから24年の間、生きていて嫌いなものは指で数えられても、好きなものは一度で考えるには、あまりに多すぎる。それなのに私は人に興味を惹かれたことはほとんど無い。(特に異性である男性に対して)だが、そんな私にも人生で1人の男性を愛したことはあった。彼が私のそばにいたのは、約2年間だった。彼とはいろんな場所にいったし、いろんな景色も見た。私の初めても捧げた。私は彼といる時間が好きだった。彼はバイクが好きで確か"SR"と言う名前のバイクに乗っていた。会うたびに今日はバイクのどこをいじったか報告してきたり、前と比べてどうか聞いてきた。私はバイクのことなんて全く知らないし、どちらかと言えばガソリンの匂いも嫌いだった。でも、彼のバイクの後ろに乗って、振り落とされないようにその背中に精一杯抱きつくのが好きだった。私はバイクの上で彼のタバコの臭いが染み付いたライダースジャケットに顔を埋めるのが好きだった。私は彼とバイクの上で過ごす時間が好きだった。
私は彼の事が好きだった。
最近の5月はやたらと蒸し暑く、それが昨今の地球温暖化とやらのせいなのかそれともその他大勢の人と比べて僕が特別に暑がりなのかは分からないが、それについて考えるのですら蒸し暑く感じる。毎朝家を出る時にいっそのことTシャツ一枚で外に出てやろうかと考えるが、夜は昼間に比べて冷え込むし(そういうところが夏場と比べてタチが悪い)運が悪ければ風邪を引いてしまいそうな気がして、その選択はいつも"ノー"になる。だからジャストなサイズ感のストレートのジーンズを履き、白いTシャツの上にネルシャツを羽織って外に出かけるのが今現在フリーターである僕の標準服といってもいいだろう。
たった今の僕は高校時代の友達との飲み会帰りだ。眠い目を擦って終電をやり過ごしてなんとか最寄駅に辿り着き、歩いて帰路に着いている最中である。ただでさえ男だけの飲み会で暑苦しい話ばかりしたというのに、今日は運悪く昼間の暑さが夜まであとを引いている。背中に多量の汗をかき、その汗が" アメーバ"みたいないびつな形に広がって工作のりの役割を果たし、白いTシャツが紙のようにべっとりと張り付いている感覚が背中に走る。家を出る時にTシャツ一枚で外に出る選択を取らなかった自分を恨み、後悔している。そんなこんなで上半身に不満を持ちながら帰路に着いていたら、履いているパンツまで尻の割れ目に食い込んできた。いわゆる"PK"(パンツ食い込んでる)というやつだ。正直これが1番鬱陶しいまである。僕は物心ついてからボクサーパンツ一筋の男であり、トランクスを一度も履いた覚えがないが、夏に近づくにつれ、通気性の良さそうなトランクスを羨ましく思う。
トランクスを履きたくないとは思わないが、ボクサーパンツ以外を履きたいとは思わない。僕は俗に言う面倒くさいタイプの男である。
酔っ払ったおぼつかない利き手と逆の左手でパンツを引き剥がそうとした時に気づいた。「ジーンズに穴が空いている」それもかなり大きくて、僕の太い人差し指が根元まですっぽり入る丁度500円玉くらいのサイズ。穴が空いたのはいつだろう。無理な体勢をした覚えもないが、今日の出かける直前までは確かにジーンズに穴は空いていなかったと思う。僕は尻に食い込んだパンツを穴に突っ込んだ人差し指でうまく剥がしとった。
さっきは、ショックを受けたが、家に着いた頃には気持ちを割り切ることができた。確かこのジーンズは2年前くらいにリサイクルショップでそれなりに安く購入した一本で、おおよそ2年の間にジーンズにおける精一杯の役割を果たしてくれた。夏に"セミ"が鳴き始めて約1週間で死んでしまう(勿論幼虫の期間を除いて)ことを考えると十分だと思うことができる。
さて、このジーンズどうしようか……?僕は酔っ払った頭の中にあるわずかな脳みそをかき集めて考えることにした。家にはかなりの数のジーンズのストックはあるので、リペアに出すという案は却下。フリマアプリで売るのはどうだろう。でも、わざわざプレ値のついていない穴の空いたジーンズを買うような物好きもいないだろう。却下だ。では、いっそのこと自分で縫って穴を埋めるのはどうだろう。却下だ。僕は生まれてからこの方ミシンなんてただの一度も使ったことはない。
ジーンズのセカンドキャリアの選択に行き詰まり、途方に暮れていたら僕の頭の中に天使が堕りてきた。
天使は言う。
「この貴方のカラダにジャストサイズなジーンズは2年の間も貴方の体を支えてくれたのよ。たった500円玉サイズの穴が空いたくらいで簡単に手放すなんてダメよ」
天使はよく透き通った高い声でそう言った。見たところ女性の天使だった。最も天使に性別という概念が存在するのか宗教的知識に乏しい僕には分からない。
「じゃあどうすれば良いんだい」
僕が頭の中で唱えた。
「貴方がミシンを使えないなら穴が空いても履くのよ。確か下界ではダメージジーンズというのかしら。それに穴が空いたジーンズを大切に履く男性なんて物を大事にしていて素敵だと思うわ」
「おい待てよ。天使。あーー、下界に堕りてきたから堕天使か。ヒッ」
風邪の病み上がりみたいなしゃがれた声が聞こえた。
悪魔まで僕の頭の中にやってきた。悪魔は片手にウィスキーの小瓶を持っていた。中身は半分まで減っていて飲みかけだった。今日はシャックリが出るほど飲んでいるらしい。どうやら天使が登場したら悪魔も登場するのはお約束のようだ。
「穴の空いたジーンズ?捨てちまえそんなもん。使えないもんは全部捨てるんだよ。そうだろ?兄弟」
「ちょっとアナタなんてこと言うのよ。物にも魂が宿っているのよ。悪魔の言うことになんて耳を傾けてはいけないわ。貴方にはそんな乱暴になってほしくない」
「ヘッ、下級天使の分際で何を偉そうに。飲んだ勢いで断捨離すりゃあいいんだよ。そうだろ兄弟?」
「ちょっと、黙っていてくれないか」
さすがに自分の頭の中で喧嘩されるのは面倒だったので僕はそう唱えて頭の中で天使と悪魔を睨んだ。それほど怒ったつもりは無かったのだが、天使と悪魔は睨んだ時の僕の顔が余程怖かったのかそれとも僕の言い方がキツすぎたのかそれぞれの住むべき場所へと帰っていった。確かに僕はよく怒っていないのに顔で勘違いされることが多い。それと言い方には気をつけようと思った。
双方共に人の頭の中で随分と好き勝手にやってくれた。だが、正直どちらの意見も無碍にはできない。実際、穴が空いても履き続けてあげたい気持ちもある。面倒だからいっそのこと捨ててしまいたい気持ちも無いと言えば嘘になる。でもどちらの案も自分の中で腑に落ちない気持ちが1番強くあった。
時計の針は午前一時半を指していた。散々考えたが、脳みその残りの容量がもうアメーバくらいの大きさしか残っていないことに気づき、今日は寝ることにした。
フリーターである僕の仕事は大手弁当屋のの店員だ。数あるアルバイトの中でなぜこの仕事を選んだのか明確な理由はこれと言って無いのだが、それでも他のアルバイトに比べて優れている点(あくまで自分の中で)は何個か挙げることができる。
多くの飲食店がそうであるように賄いがついてくること。メニューが多いので賄いの種類が多いこと。若い顧客が少ないので知り合いに鉢合わせる確率が低いこと。なにより全てが箱の中で完結することだ。箱の中で完結するのはお弁当本体だけでなく、業務内容までもお弁当箱の中にすっぽり入りきりそうなくらい仕事がマニュアル化されている。僕には、日常に溢れる他の人からしたら何でもないことを深く考え過ぎてしまう癖がある。酒が入っている時は幾分かマシにはなるのだが、シラフだと考えないように努めても考えることをやめることができない。なるべく思考回数が減らせるマニュアル化された弁当屋は僕の性にあっている気がする。仮に運悪く居眠り運転で突っ込んできたトラックに轢かれて異世界に転生したとしても弁当屋のアルバイトをする自信がある。もしくは自分で弁当屋を作るのも悪くないかもしれない。高校を卒業してデザインの専門学校をたったの一年で中退してからかれこれ3年間このアルバイトを続けているのがそれを物語っている。
5月の第1週目の水曜日の今日は雨が強く降っていて客足が少ない。つまり暇だ。茶色くなったフライヤーの油を交換して、店のキッチンにラミネートされて貼ってある掃除マニュアル表を①〜⑫までフルでこなし、ついにやることも尽きてしまった。暇な時間は嫌いだ。つい、うっかり考えなくてもいいことを考えてしまう。たった今変えたばかりのフライヤーの中に入っている油の温度は何分間で設定温度の180℃まで熱されるのか。のり弁当に使われているフィッシュフライには一体何の白身魚が使われているのか。入学前の想像と違って一年でやめた専門学校には通い続けるべきだったのか。穴の空いたジーンズは結局どうしたらいいのか。僕はどうしてこんなに何でもないことについて考えを巡らしてしまうのか……。
「ふふん、白川君、今何か考えてるでしょ。ストップだよ」
一緒に働いている武内先輩が僕の止まることを知らない思考を断つために話しかけてくれた。彼女とは週に一回、毎週水曜日にシフトが被る。武内先輩は肌がソフトクリームみたいに真っ白で、そのルックスは僕に"白雪姫"を彷彿とさせる。実写版白雪姫が日本で再編されるなら僕は胸を張って白雪姫役に武内先輩を推薦する。正直、こんな美人がなぜ弁当屋で働いているのか不思議で仕方がない。
「何で分かったんですか。先週ぼくが考えてる時もピンポイントで当ててきましたよね」
「ふふ、私は3年も白川君より長く生きてるから年上お姉さんの勘ってやつかな?」
武内先輩は僕をからかうように半身の状態で口角を上げた。身体の半分だけでも美人だった。
「からかわないでください。何かありますよね。例えば僕が考える時の自分じゃ気づかない癖とか」
「ほほう。なかなか鋭いね後輩くん。よし、その癖が何か当ててみて」
「いいですよ。その代わり、もし当てたら僕の悩みの一つの相談に乗ってもらいますからね」
「私は優しい先輩だからね。そんなのお安い御用だよ」
僕は無意識の内に行われている自分の癖を考えた。一般的に考えている人の癖で代表的な例は視線の動きや貧乏ゆすり、体の一部を触るといった行為。でもこれらの行動に思い当たる節は無く、考えれば考えるほど分からなくなってきた。
「残念、時間切れ。白川君は"鋭いけど鈍感"だよね」
鋭いけど鈍感。武内先輩は知らないところで僕の知らない僕を分析してくれていた。
「それじゃあ、答え合わせ。白川君が考えてる時の真似をしてみます。私の身体の先から先までよーくみててね」
「あっ、右手の小指が立ってる」
「ふふん、正解。さて、今日はこの雨で暇だし後輩君をいじめるのはやめにして相談でも聞きますか」
仮に僕が同い年でも武内先輩には敵わないと思わされた瞬間だった。
「ほほう、白川君は穴の空いたジーンズの扱いに困っていると」
武内先輩はわざとらしく右手の小指を立てながらそう言った。彼女の真っ白な小指は僕の小指よりもコンパクトで華奢だった。
「あのー、武内先輩が僕の悩みについて一緒に考えてくれるのは嬉しいんですけど、恥ずかしいからそろそろ小指、降ろしてくれませんか?」
「おっと、バレちゃったか。見て、私の小指綺麗でしょ。小学生の時ピアノ教室に通ってたから指には自信あるんだよ。もし白川君が見たいなら小指以外の指も見せてあげる」
「さすが武内先輩、小指まで美意識が行き届いていらっしゃるとは。でもあれ、言いにくいんですけど、小指に一本毛が生えてますよ」
「嘘っ?どこ?」
「嘘です。やり返しです」
「ふーん、やるねぇ白川君。でもそんなこと言っていいんだ、一緒に考えて欲しかったんじゃないの?それに女の子は生まれつき毛が生えない生き物なんだよ」
「嘘です、ごめんなさい。武内先輩の身体には毛の一本も生えてません。だから穴の空いたジーンズについて一緒に考えてくれませんか」
「ふふん、そうだよ。私の身体には体毛どころか産毛の一本すら生えてないんだよ。よし、私も一緒に考えるよ」
まずはじめに武内さんは勢いよくキッチンを出た。それから店頭に並ぶドリンクを遠くから見て、近くからも見た。そしてその中からミルクティーを2本取り出し、レジで会計してそのうちの一本を僕に手渡した。
「大抵のこういうことは急いで考えても思いつかないからね。私は何かを考える時にいつも甘いものを飲んで頭を柔軟にしてから考えるようにしてるの」
「なるほど、勉強になります」
「そうだ、売るのに気が引けるなら、いっそ誰かにあげてしまうのはどう?」
僕は頭を柔軟にして考える。
「うーん、確かに誰かにあげるのもありですね。でもそれだと僕の体にジャストサイズなジーンズには価値がないって認めた気がして、少し悔しいかもしれません」
「ほほう、悔しいか……さては白川君は俗にいう面倒くさいタイプの男の子だね」
「自負はしていますけど、改めて武内先輩に面と向かって言われると、さすがにくるものがありますね」
「ごめん、ごめん。白川君って他人からの評価とか気にしない人だと思ってたからうっかりしてた」
「僕も人の子ってわけです」
僕は武内先輩の真似というわけじゃないが、半身の状態で口角をあげてみる。武内先輩もそれに呼応するように半身で口角をあげた。
その直後、武内先輩が何か思いついたと言わんばかりに右の手をグーにして左のパーの手を叩いた。武内先輩の作るグーは文句のつけようがない綺麗な球体で僕に水晶玉を連想させる。
「思いついた。私さっきミルクティーを買う時にお金を払ったよね」
「すみません、ジーンズのことばっか頭にあって、お礼を言うのすっかり忘れてました。ご馳走様です」
「ふふん、ごちそうさまは飲み終わってからで大丈夫だよ。そうじゃなくて、物々交換すればいいんだよ。それなら白川君のジーンズには値段はつかなくても価値はつくわけでしょ。そう、確か"わらしべ長者"っていうのかな」
「わらしべ長者……。いいですね、そうしてみます。武内先輩に相談してよかったです。先輩の方こそ鋭いじゃないですか。とても僕1人じゃ思いつかなかった」
「ふふっ、これが先輩ってやつなのよ。私がただフワフワしてるだけじゃないってこと今日でわかったでしょ。そうと決まったら、早速来週の水曜日に私の持ってきた物と交換ね」
彼は2年前に交通事故で死んだ。親も警察も皆、口を揃えて右直事故だと言った。でも私にはそんなことはどうでもよかった。そもそも右直事故が具体的に何かも知らなかったし、その単語を"sex"とか"フェラ"とか小学生の覚えたての下ネタのように連呼するみんなに腹が立った。とにかく彼は私のいないところで死んでしまった。さすがに今はそう思うことはないけれど、当時は本気で一緒に死んでしまったほうがマシだと思っていた。
彼が死んだ後、具体的にいつからとは明言できないが、私は男性と話す時に随分と猫をかぶるようになった。世間一般的に分かりやすく言うなら"ぶりっ子"。そのせいで新卒で入った会社では他の女性社員に裏であれやこれやと言われたり、あらぬ噂を流されたりした。会社では何人かの男性上司と不純な関係を持った。その中には既婚者もいた。彼らは猫を被った私を気に入り、彼らもまた私に対して猫を被っているように見えた。でも私は不純な関係を持った何人かの上司に本質的に興味を惹かれることはなかった。会社は入って半年が経ったあたりで辞めた。私には彼以外の男性を愛することができなかった。私は間違いなく彼を愛していた。
私には彼だけしか愛せない。
「おはよう、白川君。穴の空いたジーンズは忘れずに持ってきた?」
「おはようございます、武内先輩。もちろん持ってきましたよ。机の上の紙袋の中に確かに入ってます。武内先輩はいつものバックしか持ってないですけど、持ってきてます?」
「あるよ、バックの中に入ってる」
武内先輩は一瞬だったが、下を向いてまるで大切な友達との別れを惜しむ時のような顔をしていた。
「どうしたんですか?」
「え、なんでも無いよ。実は元彼から貰ったリングを交換しようと思ってね。嫌な別れ方をしたからちょっと当時のことを思い出しちゃったの」
「リング?それって先輩にとって大事なものじゃないんですか?第一にジーンズと値段が釣り合ってない気もするし」
「ふふん、全然だよ。私、元彼のこと早く忘れたいし、ずっと捨てようと思ってたのに捨てられなかったからこの機会に丁度いいかなと思ってね」
「よっぽど酷い別れ方をしたんですね。どんな別れ方だったんですか?」
「気になる?」
「気になるか気にならないかでいわれると気になりますね」
「うーん、後輩君にはまだ早いよ。"オトナの恋愛"ってやつだね」
「ずるいですよ、いつもそうやってはぐらかして教えてくれない。でも余程グロテスクな別れ方だったんですね」
「グロテスク……。そうだね、ある意味グロテスクだったかな。まあそれはそれとして今日のシフトが終わったタイミングで交換だからね。白川君、心の準備はいい?」
「バッチリです」
「ふふん、よろしい」
武内さんがジーンズとの交換に出したリングは上質な素材の茶色い箱の中に入っていて、開けた瞬間に光り輝いているのがわかった。それは間違いなく金だった。
「これ、ゴールドリングじゃないですか?本当にジーンズと交換なんてして大丈夫ですか?」
「ふふ、大丈夫だよ。金って言ってもメッキだよ。私の元彼バイクが好きでそっちにばっかお金かけてたから常に金欠だったし」
「まあ、武内先輩がいいなら僕はいいですけど」
「じゃあ、これで交換成立ね。わらしべ長者だからそのリングも他の物と交換してお金持ちになってよ」
「さすがにリングを簡単に手放すのはこちらとしても気が引けますけど、やれるだけやってみます」
「ところで白川君って今気になってる子とかいないの?」
「うーん、一応いますけど、なんですか?いきなり」
「ほほう、いるんだ気になる子。交換じゃなくてもその子にプレゼントしちゃったりするのもいいんじゃ無い?もうわらしべ長者じゃなくなっちゃってるけどさ」
「いくら金欠な僕でもしないですよ、そんなこと。何か別の物と交換してみます」
「嘘だよ、ちょっとからかってみただけ。でも本当丁度よかった。これで少しは元彼のこと忘れられそう」
「自分で売ったりはしなかったんですか?状態も良いし、結構な高値で売れそうですけど」
「それも考えたんだけどさ、やっぱ好きだった人からもらった物だったからなかなか売れなかったね。でもこれで私の手の届かないところに行ってくれる」
「うーん、もし仮に武内先輩がそのリングを見たくないって思ってるなら、正しくは手の届かないところではなくて、目の届かないところじゃないですか?」
「ふふん、白川君はやはり面倒臭いタイプの男だね」
武内先輩は半身の状態になって口角を上げた。美人だった。
リングをもらったのは、彼と付き合って最初の私の誕生日だった。あのバイクばかりにお金を注ぎ込む万年金欠の彼がゴールドのリングをサプライズで私にくれた時は本当に嬉しかった。メッキだろうと私にとっては紛れもなくそこらの純金よりも本物の金だった。多分私が死ぬ間際に走馬灯で見るのは彼がプレゼントのリングを私の指にはめてくれたあの瞬間だろうと今でも思う。けれど彼が死んでから私は一度もそのリングを指に通さなかった。と言うより、通すことができなかった。
2年ぶりに白い机の引き出しの1番上の段を開けた。茶色い箱を開けて中に入っているリングを指に通してみる。嗚咽が止まらなかった。嗚咽している状態の私を白川君がみたらどうするだろう。彼は私の肩でも抱き寄せて無言で寄り添ってくれるのだろうか。それともいつもの調子で「先輩、泣くのはいいことです。ストレスが体内から排出されます。だから泣きたいだけ泣いてください」と言うのだろうか。そうして私は泣き止んでから「ふふん、白川君って意外とサイコパスだね」といつものように返せるのだろうか。正直感情が爆発している今の私には分からない。
このリングが私の手元にある限り、私は私と言うバイクの上に彼を乗せている気がしてならない。それは原付の排気量にも満たない私にはあまりにも重すぎた。
私は一体何歳で死ぬのだろうか。医療の発達した現代だし100歳まで生きるかもしれないし、彼のように交通事故で明日死ぬかもしれない。誰にも分からない。でも少なくとも残りの寿命は彼のことを時々思い出してあげるくらいが私にとっても天国にいる彼にとっても丁度良いだろう。
火曜日の夜、普段使いのバックの底に私は箱に戻したリングを入れた。
1週間が経った。
つまり今日は僕と武内先輩、その他の誰にとっても例外なく5月の第3週目の水曜日。
「おはよう、白川君。1週間のあいだ元気にしてた?」
武内先輩があからさまに白々しく僕の1週間についての調子を聞いてくる。(多分だけど、それはわらしべ長者についての、というよりかは、あのリングの行く末を聞き出そうとしているのだろう)
「それがですね……。あのリング、買い手が現れたんですよ。僕の地元の友達で飲み会をしていた時に欲しがる友達がいたもんで」
「ふふ、そうなの。それで金欠だった白川君は遂にお金持ちになったわけだ」
「まあ、そんなところです。ところでリングを売ったおかげで僕は間違いなくお金持ちになりましたよね?」
「うん、間違いなくね」
「その僕の利益って言うんですかね、儲かった分は、ある意味武内先輩のおかげでもあるわけじゃないですか?」
「ふふん、白川君は律儀だね。そんなこと気にしなくていいのに」
「だからそのお金で一緒にご飯でもどうですか?日頃の感謝も兼ねて」
「ええ、いいの?私見た目によらずいっぱい食べるよ。折角お金持ちになれたのにまた金欠の白川くんに戻っちゃうよ」
「一体どれだけ食べるんですか。でも大丈夫です。僕が武内先輩とご飯を食べに行きたいんです」
僕は少し勇気を出してそう言った。
「えー、じゃあお言葉に甘えちゃおう。うーん、何食べにいこうかな」
武内先輩は何を食べたいか考えるために僕に見える角度でわざとらしく右手の小指を立てる。それから少し考えてグーにした右の手でパーにした左の手を叩いた。
「あっ、牛タン食べたい。焼肉でもいい?なんやかんや3年くらい食べに行けてないかも」
「お、焼肉ですか。いいですね、そうしましょう。なんならネギ塩牛タンでもいいですよ」
「ふふん、随分と太っ腹な後輩君だねー」
「よし、決まりですね。いつ食べにいきます?僕は割といつでも暇なんですけど」
「そうだねー、私は丁度今週の日曜日の夜が暇なんだけど白川君は?」
「多分暇だと思うんですけど、念のために予定確認しますね。お、日曜日の夜空いてます」
「決まりだね、それじゃあ私は日曜日の夜を楽しみにしちゃっていいのかな?」
「もちろん」
そう言ってから僕は半身の状態で口角を上げた。
「ねえ、見て白川君。この牛タン今まで食べた牛タンの中で1番分厚いかも」
日曜日の夜、僕は武内先輩と約束通り焼肉屋に行くことができた。"道場"という名前のお店で前に家族で高校の卒業祝いに連れて行ってもらったことがある。名物は上質な牛タンで上タン、ネギ塩牛タン、極厚切り牛タンに加えて季節限定牛タンと種類も豊富なこともあり、牛タンが食べたかった武内先輩を連れてくるにはぴったりだと思った。
「期間限定の柚子胡椒牛タンだって。ねえ、白川君。これも頼んでいい?」
「もちろん、今日は武内先輩の食べたい物を食べたいだけ食べるための日なんですから遠慮はいりません」
「ふふん、素敵な後輩くんだね」
机の上には4枚空いた大皿が重なっているが、全てが牛タンの乗っかっていた皿だ。僕は甘いタレの絡まったカルビで白米を目一杯に掻きこむことを想像するが、その気持ちをグッと堪える。なんて言ったってここは道場なのだ。心の鍛錬は必要だろう。
結局、その日武内先輩の口からはカルビどころか牛タン以外の肉がコールされることはなかった。口直しに僕たちはバニラアイスクリームを食べる。
「ずっと思ってたんですけど、武内先輩ってなんで弁当屋でアルバイトすることにしたんですか?正直、すごく綺麗だし勿体無いなって思うんですけど」
「ほほう、あの白川君が素直に私を褒めるなんてもしかしたら“明日は雪が降るかもね”」
「はぐらかさないでください。僕は水曜日の武内先輩のことしか知らないので気になるんですよ」
「ふふ、今日はやけに素直だね。そうだねー、新卒で一般企業には入ったんだけど、他の社員さんとうまくいかなかったんだよね。まあでもこの話は白川君にはまだ早いよ」
「"オトナの事情"ということですね?」
「そう、オトナの事情。でもアルバイトでお弁当屋さんを選んだのは……」
「"カニクリームコロッケ"が好きだから」
「ほほう、やはり白川君は鋭いねー。いつも食べてるからお見通しだったか」
「僕は鋭くて鈍感で有名なので。そうだ、今日は武内先輩にプレゼントがあります」
僕はラッピングされた箱を手渡した。
「え、本当にいいの?ご飯もご馳走してもらってるのに」
「もちろん。僕も日々オトナの階段を登っているというわけです」
「ふふ、それじゃあ開けるね。あれ……これって」
「そうです。武内先輩がわらしべ長者で僕に渡したリングです。ジーンズと交換する前に一瞬戸惑った顔で下を向いていた気がして最初からこうしようと決めてました。僕の勘違いだったらすみません」
「ううん、白川君ありがとう。これじゃあもう白川君のこと鈍感なんて言えないね」
武内先輩は左手の薬指にリングをはめてからそれを表と裏からよく見て箱の中にしまった。武内先輩の目からは一粒の涙がこぼれていた。彼女は泣いていても美人だった。やはり実写版白雪姫が日本で再編されるなら白雪姫役は武内先輩以外いないだろう。
「先輩、泣くのはいいことです。ストレスが体内から排出されます。だから泣きたいだけ泣いてください」
「ふふん、やっぱり白川君って意外とサイコパスだね」
「お会計にしますか」
焼肉屋を出て、私たちは駅まで歩いた。その間、会話が交わされることはなかった。けれどそれは決して嫌な雰囲気の無言ではなくて、何か体の中の膿を出し切ったかのような感覚を覚える時間だった。私は白川君に一つ嘘をついた。私はいつもカニクリームコロッケを食べているが、正しくは好きではない。彼の1番好きな食べ物が弁当屋の2個入りのカニクリームコロッケだった。
今日、私には生きる義務ができた。この隣に歩いている白川君の行く末を天国にいる彼に伝える義務だ。多分だけどバイクにしか興味のなかった彼も鋭いけど鈍感な白川君の話をしたら喜ぶに違いない。
頭の中でそんなことを考えていたら駅に着いた。私と白川君の家はそれぞれ反対方面の電車なので今日はここでお別れになる。
「武内先輩、今日はありがとうございました。僕の知らない先輩のこと少しは分かった気がして楽しかったです」
「ふふん、こちらこそ一生分の牛タンも食べれたし、おまけに最高のプレゼントまで貰っちゃって幸せな1日だよ。ご馳走様でした」
「そうだ、武内先輩。明日、降るといいですね。雪」




