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嘘つきを見習えと言っていたくせにあとから全て失い使用人にしてくれと泣きつかれても困ります

作者: リーシャ
掲載日:2026/09/04

「また彼女のところへ行くのですね」


 夜会の会場の片隅。きらびやかなシャンデリアの明かりも届かない柱の影で、エルザは婚約者のリュカの袖をそっと引いた。


 リュカは不快そうに眉をひそめ、エルザの手をバッサリ振り払った。瞳には婚約者に対する情愛などひとかけらも存在しない。


「シャロンの発作が起きた。主治医からも、今夜が山かもしれないと連絡があったんだから当然だろう」


「ですが、今日は困ります。私たちが正式に婚約して一年の記念の夜会なのです。それに、シャロン様の発作は先週も前の週も」


「な、やめろ。口を慎めエルザ!」


 リュカの低い怒声が周囲の喧騒を切り裂くように響いた手は、マグマのような怒りで震えている。


「彼女は生まれつき体が弱い。お前のように頑健で何不自由なく育った恵まれた令嬢には、シャロンの苦しみが理解できない。嫉妬深さでよくクイオスター公爵家に嫁ごうと思えたものだ」


(頑健?今の私が?)


 エルザは胸の奥がキリキリと痛むのを堪えた。リュカの言う頑健なエルザは、彼に少しでもあたたかい言葉をかけてもらいたくて好む厳しい乗馬の訓練に付き合ったり、彼を支えるために夜徹しで領地経営の勉強をしている姿のことだろうか。


 この日のために新調したドレスの締め付けで、本当は目眩がするほど体調が悪いことなど気づきもしないのに。


「また騙されているのではないかと……思って」


「いい加減にしろ、シャロンが嘘をつくような女に見えるのか?彼女の涙を見たことがないお前に何がわかる?恥を知れ。淑女を教えた家庭教師も泣いていることだろうなっ!」


 リュカはそれ以上エルザの言葉を聞こうともせず、背を向けて歩き出した足取りには一刻も早くここから去りたい、という焦燥感だけがジワリと滲んでいる。残されたエルザはきつく拳を握りしめた。


 数日後、エルザはリュカに呼び出され、クイオスター公爵家の邸宅を訪れていたが通された応接室で待っていたのは、リュカだけではない。

 ソファーに横たわり、白い毛布に包まれているのシャロンはエルザの姿を見ると、怯えたように体を震わせてリュカの腕にすがりつく。


「リュカ様……ごめんなさい、私ってばエルザ様を怒らせてしまったかしらぁ。二人の大切な記念日を壊してしまって……本当に胸が苦しくて……ゲホゲホッ。ごめ、なさっ」


「いいんだシャロン。お前は悪くない。悪いのは体調の悪い体を責めるような、狭量な女なのだからな」


 リュカは痛々しいほど優しい手つきでシャロンの背を撫で、エルザを氷のような目で見据える。


「エルザ。シャロンに謝罪しろ。夜会で彼女を疑うような発言をしたせいでシャロンは精神的に追い詰められ、寝込んでしまったんだぞ」


「は?私から、シャロン様に直接何かを申し上げた覚えはありません。リュカ様に」


「言い訳を乞うているのではない!まだ、わからないのか!?」


 怒声が響く。シャロンはリュカの胸に顔を埋めながら、リュカに見えない角度でエルザに向かってふっと口元を歪めて微笑んだ。勝ち誇った醜い、健康そのものの笑みを。


 瞬間、完全に理解した。シャロンは病気などではない。リュカの同情と自分に対する優越感を手に入れるために、病を利用していると。リュカは稚拙な罠に自ら喜んで嵌まりにいっていることも。


「はぁ、わかりました」


 エルザは頭を下げた。


「シャロン様、お体を損ねる原因が私にあるとおっしゃるなら、お詫びいたします。お大事になさってください」


「エルザ様……はぁ、ケホケホ、ありがとう、ございます……ううっ」


 芝居がかった涙を流す幼馴染を抱きしめるリュカは、エルザに最後通牒を突きつけた。


「当面の間、婚姻の儀は延期とする。自分の犯した過ちをヴァレンタインの領地で頭を冷やして反省するといい」


 事実上の婚約破棄一歩手前の追放だ。


 数日後、エルザは最小限の荷物を馬車に積み込んで王都を離れる準備を整えていた。見送りにすら来ないリュカに対して、不思議なほど涙は出ない。


 彼が盲目的に信じる哀れな幼馴染の嘘。エルザはただ引き下がるつもりはなかった。ヴァレンタイン伯爵家は王室の医療組織を支えた薬学の大家。

 シャロンが使っている顔色を悪く見せる薬や一時的に脈を乱す薬の成分に、すでに目星をつけていた。


「真実を暴き、絶望する日が来るのを楽しみにしております」


 馬車が走り出す。王都の喧騒が遠ざかる中、エルザの瞳には耐えかねた悲劇の影はなかった。すべてを失った男が這いつくばって許しを請う未来を見据える光のみ。


「許さない」


 ヴァレンタイン伯爵家の領地は、王都の喧騒から離れた緑豊かな山の中腹にある。王都での冷遇と婚約延期という名の追放から一ヶ月。


 エルザはやつれるどころか充実した日々を送っていた。


「お嬢様、こちらが王都の協力者から届いたシャロン・レイヴン令嬢の薬の購入履歴と、彼女の主治医の身辺調査書にございます。どうぞ」


 有能な侍女が机に置いた書類をエルザは紅茶をすすりながら眺める。

 シャロンが数年前から特定の怪しげな薬師から一時的に、顔色を悪く見せる微毒の草や心拍数を跳ね上げる薬を定期的に買い付けている証拠が、克明に記されていた。


 主治医もまた、多額の博打の借金をシャロンの実家。没落寸前の子爵家に肩代わりしてもらう見返りに、嘘の診断書を書き続けていたのだ。


「思っていたよりも杜撰ずざんね。リュカ様が彼女の言うことを何でも信じてしまうから証拠隠滅すら怠っていたみたい」


 エルザの口元に美しい笑みが浮かぶ。リュカの前で流した涙は、すでに涸れ果てていた。今を突き動かしているのは、愛への未練ではなく自らの尊厳を公然と踏みにじった者たちへの帳尻合わせ。


 その頃、王都のクイオスター公爵邸。リュカは感じたことのない苛立ちの中にいる。

 エルザを領地へ追い返せば、目障りな嫉妬から解放されてシャロンを看病する平穏な日々が戻るはずだったが、現実は違った。


「リュカ様ぁ、今日も頭痛が激しくて……エルザ様が睨みつける夢を見て目が覚めたのです。きっと私のことを呪っていらっしゃるわっ」


 ベッドの上でいつものように弱々しく涙を流すシャロン。以前なら可哀想にと胸を締め付けられた姿がなぜか今は、ひどく白々しく鬱陶しく感じられた。

 エルザがいなくなってから、クイオスター公爵家の領地経営に関する実務や王宮への提出書類の精査が完全にストップしているせい。すべてエルザがリュカの役に立ちたいと、夜を徹して処理していたものだった。


 代わりの文官を雇ったものの、エルザほど完璧にリュカの意図を汲める者は一向に現れない。追い打ちをかけるような噂がリュカの耳に届く。


 クイオスター公爵家の次男は詐病の女に騙されて、有能で忠実な婚約者を追い出した愚か者。


「なぁシャロン。本当に頭痛は医者でも治せないのか」


 リュカの問いにシャロンの身体が一瞬、硬直した。


「え?え……ええ。お医者様も原因不明の難病だと……リュカ様?疑うのですか?私にはあなたしかいないのに!」


 縋り付いてくるシャロンの細い腕。肌の血色は、病人のそれにしては妙に艶やか。

 エルザが去り、自分の立場が完全に安全圏になったと確信したシャロンは最近、明らかに演技が雑になっている。リュカの脳裏にエルザが言った言葉が、不吉な羽音のように蘇った。


 あなたがまた騙されているのではないかと……。


「少しだけ……少し頭を冷やしてくる」


 シャロンの腕をほどき、逃げるように部屋を出た足が向かったのは他でもない、エルザのいるヴァレンタイン領。


 数日後。ヴァレンタイン伯爵邸の美しい庭園で、エルザは初夏の風を楽しんでいた。そこへ、息を切らせたリュカがアポイントメントもなしに姿を現す。矜持も忘れ、衣服は旅の埃で汚れている。


「エルザ……エルザ!」


 エルザは驚く風もなく、手にしていた洋書を静かに閉じると完璧な礼を見せた。


「お久しぶりでございますリュカ様。事前のご連絡もなく一体どのような御用でしょう」


「ふぅん。流石は男爵並みの頑健さだなぁ」


 以前のような彼に嫌われたくないという怯えや、縋るような情愛は微塵もない。見知らぬ貴族に対する、極めて事務的で冷淡な対応に気付きかけたリュカは一瞬、言葉を詰まらせたが自身のプライドを必死に保ちながら口を開いた。


「処遇についてだ。一ヶ月も領地で反省したのだろう。シャロンに対して犯した非礼を認めて二度と彼女を傷つけないと誓うなら、婚約延期を解いて王都へ戻ることを許してやってもいいと思っている」


 妥協であり、折れてやったという傲慢な譲歩。エルザならば、きっと泣いて喜んで自分の胸に飛び込んでくると信じて疑わないリュカに、当のエルザ本人は鈴を転がすような声でくすくすと笑う。もう何もかも過去だと言うのに、おかしくて堪らなくなる。


「え?……ふふ……ふふふ、あはは!」


「な、何がおかしい!少しはシャロンの儚さを爪の垢ほども煎じて飲めばどうだ!?」


「失礼いたしました。滑稽でしたので。リュカ様、本当にまだ何もお気づきでないの?」


 は冷たい瞳でリュカを射抜く。


「まず、私は反省などしておりません。あなた方の愚行の証拠を集めるのに忙しかったので」


 エルザが指を鳴らすと、侍女が一通の分厚い書類束をリュカの前に突きつけた。シャロンの詐病の全容、偽造された診断書の告発、彼女がエルザを陥れるために仕組んだ自作自演の全記録が言い逃れのできない形で記載されている。


「これ……は……?」


 書類をめくるリュカの顔からガッと急速に血の気が引いていく。


「お可哀想なリュカ様。私の心を殺してまで守ろうとした儚い妖精の正体は、あなたを蝕む寄生虫です。これからどうなさるのかしらね」


 エルザの痛烈な言葉がリュカの五体に突き刺さる。


「嘘だ……こんなものは何かの間違いで」


 手が激しく震え、めくられた書類が初夏の風に煽られて庭園の芝生へと散らばる。


 並ぶのはシャロンが購入した毒草の分量、主治医が不正を認めた証言書、エルザを陥れるための段取りが細かく書かれた、シャロン直筆の侍女への指示書。


 見覚えのある可憐で丸みを帯びた筆跡が何よりの現実を突きつける。


「間違いであってほしいですねリュカ様。でないと大変ですもの」


 エルザは散らばる紙の一枚をヒールの先で踏みつける。


「すべて王宮の憲兵隊、医師ギルドの監査部門にも同時に提出しました。今頃、王都のクイオスター公爵邸には可愛いシャロン様だけでなくあなたのご実家にも調査のメスが入っている頃です」


「なっ、なん!公爵家に泥を塗る気か!?」


 リュカの顔が怒りと恐怖で土気色に変色する。公爵家の次男たる自分が一介の没落寸前の子爵令嬢に騙され、国家資格を持つ医師を巻き込んで婚約者への嫌がらせを隠蔽していたのだ。公になれば騎士団での地位は失墜し、公爵家から義絶されかねない。


「泥を塗ったのは私ではなく、あなた。警告を嫉妬深い女の妄言と切り捨てたのはどなた……?」


 エルザは一歩、近づいた瞳に宿る圧倒的なまでの意思の強さにリュカは思わず一歩、後ずさりする。


「ひ、私を愛していたはずだろう!?こんなことをして結婚の道が完全に閉ざされてもいいのか!?どうなんだ!?」


 叫ぶリュカの姿は哀れ。自分が優位に立っていると信じたい男の惨めな足掻き。


「愛しておりましたわ死ぬほどに」


 あっさりと認めた。


「淑女になろうと足が血に染まるまで乗馬を学びました。役に立ちたくて睡眠時間を削って領地経営を学び気づいたのです。愛していたのはリュカ・クイオスターという、勝手に理想化していた幻に過ぎかったと」


 自らの薬指に嵌められていたクイオスター公爵家の紋章が刻まれた家宝の指輪を、躊躇なく引き抜いた。正式に婚約を解消する意思を示すようにリュカの足元へと、価値のない石ころのように放り投げる。


「本物のあなたは視野の狭い、哀れな操り人形。そんな方に私のこれからの人生を捧げる価値などありません」


 コト、と芝生に落ちた指輪の音が二人の関係の完全な終わりを告げていた。


 ──同じ頃、王都のクイオスター公爵邸。


「リュカ様ぁ……まだ戻られない?胸が胸が苦しい」


 ベッドの上でいつものように弱々しく病人を演じていたシャロンは、部屋の扉が乱暴に開け放たれた音に肩を跳ね上げた。


「リュカ様……?って、あらあなたたちは……?」


 入ってきたのは愛しい人ではなかった。銀色に輝く甲冑を身にまとった王宮憲兵隊とクイオスター公爵家の当主。リュカの父親だ。


「レイブン家のシャロン・レイヴン。主治医のロベルト」


 憲兵隊長が宣告する。


「貴殿らにはヴァレンタイン伯爵令嬢に対する名誉毀損、違法な毒物の所持と使用、公爵家を欺いた詐欺の容疑がかけられている……連行せよ」


「な、何をおっしゃるの!?私は病気なのです!誰かリュカ様を呼んで!リュカ様ぁ!来て!来てください早く〜!」


 シーツを引っ掻き、狂ったように叫ぶシャロンの顔に浮かぶ血色は憲兵に腕を掴まれた恐怖で青ざめているものの、病人のそれとは程遠く健康そのもの。

 公爵は息子を狂わせ、我が家の泥を塗った女を虫ケラを見るような目で見下ろす。


「はぁ。我が息子ながらこれほど凄惨な愚か者だとは。ヴァレンタイン家の令嬢が手札を揃えるまで泳がされていたとも気づかずに。情けない」


 ヴァレンタイン領の庭園には立ち尽くしたまま動けないリュカが一人残されていた。すべてを失ってしまったのだ。

 築き上げてきた名声も騎士団での未来も自分を無条件で支え、愛してくれていた世界で最も価値のある婚約者も。


「エルザ……頼む!わ、わ、私が悪かった。愚かだったから婚約破棄などと言わないでくれ!頼む!一人になる!」


 膝をつき、ドレスの裾に縋り付こうとするリュカの姿を見下ろすエルザの横顔には、復讐の歓喜も未練の哀しみもなかった。前を向く顔には次の舞台を見据える高潔な意志のみ。


「お見苦しいですリュカ様。ふふ、安心なさいませ」


 微笑み、馬車へと歩き出す。


「私に対して与えてきた屈辱のすべてを、これからじっくりと一つ一つ公の場で精算していただきます。逃げられませんよ」


 走り出す馬車の窓から、エルザは二度と振り返ることはなかった。


「あ、エ、エリザッ!行かないでくれッ!頼む!」


 没落へと向かう男と自らの手で運命を切り開く女の天秤は、二度と交わることはない。


 *


 王宮の特別法廷は異様な熱気に包まれていた。


 傍聴席を埋め尽くすのはシャロンの悲劇のヒロイン劇に騙され、エルザを娯楽と悪意で見つめていた王都の貴族たち。彼らの視線は被告人席に引きずり出されたシャロンへと、容赦なく突き刺さっている。


「嫌、放して!わ、私は病気なのっ!あっ、そ、そう!誰か、お医者様を……!リュカ様助けて、リュカ様ぁ!いつもみたいに助けてぇ!」


 過去の可憐な面影はどこへやら。シャロンは髪を振り乱し、みっともなく叫び声を上げていた。隣に立つ彼女の主治医は、すでに自身の減刑と引き換えにすべてを自白していたことも知らず。


「被告人シャロン・レイヴンは数年にわたり一時的に動悸を起こす薬草。顔色を著しく悪く見せる塗布薬を不正に入手。それらを用いて重病を偽り、クイオスター公爵家から多額の見舞金と治療費を騙し取っていた。詐病を利用し、ヴァレンタイン伯爵令嬢の名誉を不当に傷つけた罪は極めて重い」


 裁判官の冷徹な声が響き渡る。決定的だったのはエルザが提出した 薬草の買い付けルートと、憲兵隊がシャロンの自室から押収した偽装用の特殊な化粧品や薬草の煎じ殻。ここまであると言い逃れなどできるはずもない。


「……よって被告人シャロン・レイヴンを平民へと落とし、クイオスター公爵家への賠償金が支払われるまで、国境近くの炭鉱での強制労働に処す」


「な、た、炭鉱……!?そんな、そんなの無理よ!無理!繊細な体が耐えられるわけがないじゃないの!リュカ様、ねえリュカ様!ねえねえねえ!」


 シャロンは傍聴席の最前列で、魂が抜けたように座り込んでいたリュカを見つけ、必死に手を伸ばしたのにリュカは彼女をちらりとも見ようともしなかった。

 瞳には向けられていた盲目的な愛など微塵もなく、激しい嫌悪と自らの愚かさに対する絶望。お互いの視線は二度と合うことはないのだ。


「はぁ、連れて行け」


 裁判官の合図とともに憲兵たちがシャロンの腕を掴み、床を引きずるようにして連行していく。


「嫌ぁぁぁ!助けてぇ!公爵夫人になるはずなのぉ!リュカ様の妻になるはずだったのよーっ!離してったらあああ!離しなさい!リュカ様の友人に怪我をさせたらっ、どうなるかっ!きゃあ!?」


 法廷の扉が閉まり、狂ったような叫び声が完全に遮断された。王都の社交界を欺き、一人の令嬢の人生を狂わせようとした詐病の幼馴染は自ら招いた最悪の結末へと堕ちていった。


 法廷の外、初夏の澄み切った青空の下をエルザは軽やかな足取りで歩く。


「ま、エルザ……待ってくれよエルザ!」


 背後から悲痛な声が上がった。振り返るとやつれ果て、凛々しい騎士の面影を失った元婚約者が立っている。よくそこに立てたものだ。


「シャロンの罪はすべて暴かれた!わかるか?私も父上から義絶され、騎士団を除隊処分となった。間違っていたんだ。婚約者を傷つけて信じなかった報いだとちゃんと理解してる」


 リュカはエルザの前に膝をつき、地べたに額を擦り付けんばかりに頭を下げた。


「お願いだ!どうかどうか私に、もう一度だけチャンスをくれないか?今度こそ一途に愛し、生涯をかけて償う。ヴァレンタイン家の婿養子でも足拭きマットでもいい!使用人にしてくれ!」


 醜悪なまでに縋り付いてくる元婚約者にエルザの心には、怒りすら湧いてこなかった。目の前にいる哀れな男が酷く遠い存在に思える。


「お立ちくださいリュカ様。あ!そうでした!もう公爵家の方ではないのですからリュカ公でしたか。失礼しました」


 エルザは感情の籠もっていない微笑みを浮かべた。


「謝罪は受け入れます。私があなたを許すこととやり直すことは全く別の問題です」


「ひ、エルザ……!」


「これからヴァレンタイン家の次期当主として、王都に新たな医療ギルドを立ち上げる予定なのです。狭い世界に付き合っている暇はありません。これからはご自身の足で罪を背負って生きていってください」


 エルザは一度だけ優雅に一礼すると、待たせていた馬車へと乗り込む。


「あ、うああ……エルザ……!エルザァァッ!行かないでくれえええっ」


 遠ざかるリュカの絶叫を背に受けながら、馬車の扉が閉まる。窓から差し込む光は自らの手で未来を勝ち取ったエルザを美しく照らし出した。


「開放感が最高」


 清々しさに心からの笑顔が浮かんだ。


 王都を揺るがした大裁判から数ヶ月。エルザはヴァレンタイン伯爵家の次期当主として、かねてからの計画であった王都中央医療ギルドの設立に奔走していた。


 身分に関わらず正しい医療と薬を適正な価格で届けるための新しい組織。開院を間近に控えたギルドの施療院で、エルザが書類に目を通していると入り口のほうから困惑したような侍女の声が、大きく聞こえてきた。


「ここはまだ準備中なのよ?立ち入っては」


「お願いお医者様を呼んで!お母ちゃんが、お母ちゃんが死んじゃうよ!」


 席を立って受付へ向かうとボロボロのつぎはぎだらけの服を着た、七歳か八歳ほどの小さな男の子が立っていた。泥に汚れた手を握りしめ、必死に涙を堪えている。


「えーっと、どうしたの?」


 エルザが優しく声をかけると男の子はすがるようにエルザを見上げた。


「お母ちゃんが何日も前からずっと熱を出して寝込んでる。お医者様に見せたら原因不明の難病だって言われて、すごく高いお薬を買わされて……全然治らないどころか、どんどん体が冷たくなって」


 男の子の手には怪しげな青いガラス瓶が握られていた。受け取り、栓を抜いて香りを確かめると、エルザの美しい眉がぴくりと動く。


(一時的に顔色を悪くし、心拍を乱す微毒の草の成分?)


 シャロンが好んで使い、主治医が荒稼ぎしていた粗悪な偽薬ぎやくの類。二人が処罰された後も残党や、貧民街を食い物にする悪徳医者が存在していたのだろう。


「お母様は胸が苦しいと言って、ゼーゼーと息をしていなかった?」


「うんそう!なんでわかるの?」


「酷い風邪をこじらせただけよ。そこに悪い薬を飲まされたから余計に具合が悪くなってしまった」


 男の子の目線に合わせてしゃがみ込むと泥だらけの小さな手を両手で包み込んだ。


「大丈夫。本当によく効くお薬を用意してみる」


 調剤室へ向かうと手際よく薬草を調合し、いくつかの小さな薬包を作って男の子に手渡す。


「水に溶かしてお母様に飲ませてあげて。今日と明日、二回に分けて飲めば明日の夜には熱が下がって、美味しいお粥が食べられるようになる」


「本当……?」


「ヴァレンタインの名にかけて約束する。お薬の代金だけど」


 男の子が持っていた、中身のすり替わった青いガラス瓶を指差した。


「悪いお医者様から買わされたボトルを譲ってくれない?今回のお薬の代金がそれよ。これで取引成立ね?」


「え?これ?」


 男の子は驚いたように目を見開いた後、ポロポロと大きな涙をこぼした。


「ありがとう……!ありがとうお姉ちゃんっ!大好き!」


 何度も頭を下げながら、薬包を大事そうに抱えて走り去っていく男の子の後ろ姿を見送った。


「お嬢様、ボトルの流通元を調べますか」


 背後に控えていた侍女の問いに、満ち足りた笑みを浮かべてボトルを見つめる。


「貧しい人々を騙して偽りの病を仕立て上げるような悪党は、根こそぎ駆逐しなければ。あの女のようにね」


 シャロンが偽りの病で人を欺き、男を惑わせ破滅へと向かった一方でエルザは自らの本物の医薬で小さな命とその家族たちを救った。

 婚約者に頑健女、と詰られた令嬢は知識と強さで多くの人たちを照らす光となっている。エルザと医療ギルドの未来は新たに歩き始めたばかり。


 子供の走った方を見てから、カルテを書いて黒いインクで汚れた手を見ながら心地いい疲れを噛み締めた。

最後まで読んでくださり感謝です⭐︎の評価をしていただければ幸いです。気にかける相手を間違えた末路でした

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