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設計の外側

 深夜一時。営業終了後の地下鉄構内は、作業員たちのヘルメットに付いたライトが交錯する、無機質な工事現場へと姿を変える。

 ベテラン作業員の岩田は、手に持った図面と目の前の壁を見比べ、忌々しげに舌を打ち鳴らした。

「おかしいな。設計図じゃ、この先はコンクリートの耐力壁のはずだぞ」

 彼が指さしたのは、リニューアル工事のために剥がされたタイルの裏側だ。そこには、図面には記載されていない、人が一人やっと通れるほどの狭い「隙間」が口を開けていた。

「岩田さん、どうしました? ただの施工ミスじゃないんすか、昔の建物だし」

 後輩の若手、タカシが欠伸をしながら覗き込む。

「いや、ミスにしては不自然だ。この奥から、妙な風が吹いてきてる」

 岩田がライトを隙間の奥に向けると、光は吸い込まれるように闇に消えた。代わりに、ヒタ、ヒタという、濡れた足音が奥から聞こえてきたような気がした。

「……おい、タカシ。ちょっと様子を見てくる。お前はここで無線を持って待ってろ」

「えっ、マジっすか? 危ないですよ、崩落とかあったら」

 岩田はタカシの制止を振り切り、横歩きで狭い隙間へと体を滑り込ませた。


 中は異様に寒かった。壁は湿り、鼻をつくようなカビ臭さと、鉄が焼けたような嫌な臭いが混ざり合っている。

 数メートル進むと、急に空間が開けた。

 そこは、現代の地下鉄の工法ではあり得ない、巨大なレンガ造りのドーム状の空間だった。

「……地下貯水槽か? いや、これは……」

 岩田が足元を照らすと、そこには錆びついた鉄のレールが敷かれていた。

 レールは、不自然に捻じ曲がりながら闇の先へと続いている。その先には、煤けた電球が一つだけ灯る、古びたプラットホームがあった。

 看板は煤で真っ黒に汚れ、辛うじて一文字だけ、白いペンキで書かれた文字が浮かび上がっている。


『零』


 岩田は息を呑んだ。

 この路線の建設史はすべて頭に入っている。だが、こんな場所は歴史のどこにも記されていない。


 ガタン、と背後で音がした。

 振り返ると、自分が通ってきたはずの狭い隙間が、まるで生き物の口が閉じるように、音もなく塞がっていた。

「……嘘だろ」

 岩田は慌てて壁を叩いたが、そこには硬いコンクリートの感触しかない。無線機を取り出したが、スピーカーからは「ザー……ザー……」という砂嵐のような音の中に、微かに子供の笑い声が混じって聞こえてくるだけだった。

 その時、ホームの向こう側から、カチャリ、カチャリと金属が触れ合う音が近づいてきた。

 ライトを向けると、そこには旧式の鉄道員カバンを下げた、背の高い男が立っていた。

「……定刻より、少々早い到着ですな。設計変更は、もう済んでおりますよ」

 男の声は、錆びたバネが軋むような不快な響きを帯びていた。


「設計変更だと? 何を言ってるんだ。ここは立ち入り禁止区域だぞ」

 岩田はヘルメットのライトを、その男の顔へと向けた。

 男は微動だにせず、影の中から不気味に吊り上がった口元だけを覗かせている。その制服のボタンは一つひとつが人間の「歯」でできているかのように、白く、歪な光沢を放っていた。

「ここはね、常に書き換えられているのですよ。人々の『迷い』が増えればホームが伸び、誰かが『絶望』すれば新しい路線が引かれる。図面なんて、ここでは何の役にも立ちません」

 男はカチャリとカバンを開き、中から古びた巻物のようなものを取り出した。


 それは、岩田が持っていた最新の設計図とそっくりだったが、決定的な違いがあった。図面上の線が、まるで血管のようにドクドクと脈打ち、インクが生き物のように蠢いているのだ。

「……なんだ、これは」

「新しい路線の図面ですよ。ちょうど、ここから先を掘り進める『人柱』が足りなくて困っていたところだ」

 男が指をさした先。

 暗闇の中から、ガガガガという、巨大なドリルがコンクリートを削るような凄まじい音が響いてきた。


 しかし、それは機械の音ではなかった。

 闇の中から現れたのは、無数の人間の「手」が絡み合い、巨大な円錐状の塊となって回転している異形の掘削機だった。爪が岩を削り、指が土を掻き出す。その「手」の一本一本が、かつてこの駅に迷い込んだ犠牲者たちの成れの果てであることは、岩田にも直感で分かった。

「う、うわあああっ!」

 岩田は逃げ場を失い、線路の上を必死に走り出した。

 背後からは、あの肉のドリルの回転音と、数千人の呻き声が重なり合って迫ってくる。

 逃げても逃げても、景色が変わらない。いや、走れば走るほど、ホームが異常な長さへと伸長し、出口が遠ざかっていく。

 空間そのものが、彼の絶望に反応して歪んでいるのだ。

「岩田さん! 岩田さん、どこっすか!」

 突如、頭上のどこかからタカシの声が聞こえた。

 反響していて正確な位置は分からない。しかし、それは間違いなく「現実」からの呼び声だった。

「タカシ! ここだ! 壁を叩け! 音を鳴らしてくれ!」

 岩田は叫びながら、手近にあった工事用のレンチで、ホームの柱を力一杯叩いた。

 キン、キンという金属音が、異界の澱んだ空気を切り裂く。


 その瞬間、脈打っていた図面が激しく波打ち、駅員が苦悶の声を上げた。

「……余計な『外の音』を入れさせるな! 設計が狂う!」

 駅員の腕が、測量用のメジャーのように細長く伸び、岩田の足首に絡みついた。メジャーの目盛りは数字ではなく、見たこともない奇妙な記号で埋め尽くされている。

「放せ! 俺はまだ、やり残した仕事があるんだ!」

 岩田は必死に足をバタつかせたが、メジャーは容赦なく彼を闇の奥、あの「手のドリル」が待つ場所へと引きずり込んでいく。

 足元の石床が、まるで沼のように柔らかく溶け始め、彼の体は腰まで沈み込んでしまった。


「岩田さん! どこだ、返事をしてくれ!」

 タカシの声が、コンクリートの厚い壁を隔てて微かに、だが確かな振動として伝わってくる。

 岩田の体は、腰までドロドロに溶けた「設計図のインク」のような影に沈み込んでいた。絡みついたメジャーの目盛りが、皮膚に食い込み、彼の体温を吸い取っていく。

「……無駄ですよ、岩田さん。あなたはもう、この路線の『一部』として図面に書き込まれたのです」

 駅員の顔が、紙のように薄く引き延ばされ、岩田の目の前に迫る。その顔には無数の線図が走り、絶えず形を変え続けている。

 死の恐怖が全身を支配しようとしたその時、岩田の指先に、仕事で使い古した「真鍮製の重い下げ振り(重り)」が触れた。

(……こいつは、垂直を測るための道具だ。歪んだ世界になんて、屈しない!)

 岩田は最後の力を振り絞り、その下げ振りを自分の足元の影に向かって叩きつけた。

 ガランッ、と硬質な音が響き渡る。

 垂直を示す重りが床を打った瞬間、歪んでいた空間に一筋の「正解」が通った。脈打っていた設計図が悲鳴のような音を立てて裂け、岩田を拘束していたメジャーがバラバラに弾け飛ぶ。

「ぐあああっ! 線が……計算が合わん!」

 駅員の体が、数式の崩壊に巻き込まれるように激しく明滅し、ノイズと共に消えかかった。


 その隙を逃さず、岩田は沈みかけていた足を引き抜き、声のする方向へと手を伸ばした。

「タカシ! そこだ! もっと叩け!」

 ドゴォォォン!

 凄まじい衝撃と共に、目の前の壁が内側から爆発するように崩れた。タカシが持ち出した大型の電動ハンマーが、異界の壁を物理的に粉砕したのだ。

「岩田さん! 捕まってください!」

 タカシの手が、瓦礫の隙間から伸びてくる。

 岩田はその手を必死に掴み、崩れ落ちるレンガのドームから這い出した。

 背後で、あの「手のドリル」が空を切るおぞましい音が響き、直後、すべてが深い静寂に包まれた。

気がつくと、二人はいつもの工事現場にいた。剥がれかけたタイルの壁の前だ。

 そこには、あの「隙間」などどこにもなかった。ただ、古びたコンクリートの壁が、ライトの光を冷たく反射しているだけだ。

「……夢、だったんすかね。岩田さん、急に壁の中に消えちまったから焦りましたよ」

 タカシが肩で息をしながら、電動ハンマーを床に置いた。

 岩田は何も答えず、自分の手のひらを見つめた。そこには、強く握りしめていた下げ振りの跡が、赤黒く残っている。

 ふと、足元の床に目を落とすと、そこには自分が持っていたはずの設計図が落ちていた。

 震える手でそれを拾い上げ、広げてみる。

 図面の内容は、以前と変わりない。


 ……しかし。

 本来なら何も描かれていないはずの「余白」の部分に、身の毛もよだつような細い線で、一人の男が壁の中で絶叫している姿が、精密に書き込まれていた。

 そしてその隣には、見たこともない記号でこう記されていた。

『設計ミス:修正完了。次の人柱を待機中』

岩田はその設計図を丸めて、二度と開けないようにガムテープで厳重に封印した。


 今でも地下鉄の工事現場に立つと、壁の向こうから、カチャリ、カチャリとメジャーを巻き戻す音が聞こえてくることがある。

 図面通りに作られているはずのこの世界。

 だが、そのわずかな「隙間」には、今も私たちが知らない路線の設計図が、誰かの絶望を糧に描き続けられているのだ。



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