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音の迷宮

 視覚を失った和也にとって、地下鉄は巨大な楽器のようなものだった。

 電車の風を切る低い唸り、乗客たちの靴音がタイルに弾けるリズム、自動改札機が奏でる電子音。彼は白い杖を使いながら、それらの「音」の反響を頼りに、暗闇の中に地図を描いて歩く。


 その日、和也はいつも通りの帰宅路についていた。

 だが、乗っていた電車の音が、ある瞬間から変質したことに気づいた。

 キィィィィン……

 耳の奥を刺すような高周波。線路をこする鉄の音が、まるで巨大な獣が苦悶して鳴いているように聞こえる。そして、車内の空気が一気に重くなり、湿り気を帯びた。

(おかしい。この区間に、こんな急カーブはなかったはずだ)

 和也は周囲の気配を探った。先程まで聞こえていた乗客たちの衣擦れの音や、スマートフォンの操作音が一切消えている。聞こえるのは、自分の心臓の音と、古い時計が時を刻むような規則正しい「カチ、カチ」という音だけだ。


 やがて、電車が停止した。

『次は……零……。お出口は、後ろ側にございます……』

 車内放送の声は、録音されたテープが伸びきったような、不自然に低い男の声だった。

 和也は胸騒ぎを覚えながらも、開いたドアからホームへ降り立った。

 カツン。

 杖が地面を叩く音が、異常に長く反響する。

「すみません、どなたかいますか?」

 和也が声をかけると、右斜め前方から、カサカサと紙を丸めるような音が聞こえた。

「……おや、目が見えないのかい? それは幸運だ」

 声の主は、すぐ目の前にいた。

 和也は驚いて一歩下がった。足音が聞こえなかった。まるで、最初からそこに「影」として存在していたかのような現れ方だ。

「幸運……? どういう意味ですか」

「ここはね、見ようとすればするほど、正気を失う場所なんだ。あんたのように音だけで世界を測る者は、ここの『真実』に一番近い」

 その男——駅員と思われる人物は、和也のすぐ耳元で囁いた。

「教えてやろうか。今、あんたの周りには何百人もの『待ちぼうけ』が立っている。音を立てず、息を殺して、あんたが躓くのを待っているんだよ」

 和也は全身の毛穴が逆立つのを感じた。

 集中して耳を澄ます。すると、それまでは聞こえなかった無数の「呼吸音」が聞こえてきた。

 ヒュー、ヒューという、細い管を通るような苦しげな吐息。それが、自分を囲むように、至近距離にひしめき合っている。

「……っ!」

 和也は杖を強く握り締め、男の声がした方角とは逆、出口があると思われる方向へと歩き出した。

 だが、歩き出した瞬間、四方八方から「音」が襲いかかってきた。

 子供の泣き声、老人の咳払い、そして、何かが床を這いずるベチャベチャという不快な音。それらの音が、彼を正しい道から引きずり出そうと、耳元で渦を巻いている。


 和也は、耳を塞ぎたくなるような衝動を必死に抑え、白い杖を左右に振った。

 コツ、コツ。

 杖が床を叩く。その反響音が、一瞬だけ周囲の異様な音の霧を晴らし、硬いタイルの感触を伝えてくる。

「騙されない……音に惑わされるな。壁を探せ」

 自分に言い聞かせながら、彼は壁伝いに歩き始めた。しかし、指先に触れる壁の質感がおかしい。冷たく滑らかなタイルのはずが、湿った布のような、あるいは死んだ生き物の皮膚のような、ぶよぶよとした弾力を持っている。

 その時、頭上からカサリ、と何かが落ちてきた。

 肩に触れたのは、冷たくて細い紐のようなもの。

(……髪の毛?)

 和也が反射的に肩を払うと、天井からクスクスと女の笑い声が降ってきた。

「ねえ、私の顔、見える? 探してよ、私の目を」

 声は一つではない。右から、左から、そして真上から。何十人もの女たちが、重なり合うように囁きかけてくる。

 和也は無視して足を速めた。だが、前方から聞こえてくる「音」に、彼は足を止めざるを得なかった。


 ジャリ……ジャリ……


 それは、重い鎖を引きずるような音。そして、鉄錆が擦れる不快な金属音。

「おやおや、どこへ行くんだい。出口はあっちだよ」

 背後から、あの駅員の声がした。今度は、すぐ耳元だ。

「あんたの耳はいい。良すぎる。だから聞こえるだろう? この駅の『心音』が」

 駅員がそう言った瞬間、和也の足元から、ドクン……ドクン……と巨大な脈動が伝わってきた。

 床が、生きているように波打っている。

「ここは駅じゃない。ここは、飲み込まれた連中の『未練』を消化する胃袋なんだ。あんたも、その一部になりなよ」

 和也は杖を突き出し、声の主を威嚇した。

「……消えろ! 俺はあんたの言うことなんて信じない!」

 彼は全速力で走り出した。目が見えない恐怖を、聴覚への信頼だけで塗りつぶす。

 階段の場所を探る。空気が動く方向、風がわずかに吹き抜ける場所。


 だが、その時。

 和也の耳に、あり得ない音が飛び込んできた。

『……和也? 和也なの?』

 それは、五年前、地下鉄の事故で亡くなったはずの親友の声だった。

『助けて……暗いんだ。ここ、すごく冷たいんだよ……』

 声は、ホームの端、線路の深い闇の方から聞こえてくる。

 和也の足が止まった。理性が「罠だ」と叫んでいる。しかし、その声の震え、息遣い、すべてが彼が知る親友そのものだった。

『和也、こっちだよ……手を貸して……』

 和也は吸い寄せられるように、線路の方へと一歩、足を踏み出した。杖の先が、ホームの縁を叩いた。その先には、深い奈落が口を開けている。


「……健二、そこにいるのか?」

 和也の声が、湿った線路の底へと吸い込まれていく。杖の先は、もう何もない空間を虚しく泳いでいた。あと一歩踏み出せば、二度と戻れない闇へと墜落する。

『そうだよ、和也……こっちに来て。一緒に帰ろう……』

 親友の声は、泣き出しそうなほど切実に響いた。和也の右足が、ゆっくりと浮き上がる。


 その時。

 和也の耳が、微かな「違和感」を捉えた。

 健二の声の背後で、メトロノームのような正確なリズムで刻まれる「カチ、カチ」という音。それは、最初にこの駅に降り立った時に聞いた、あの不気味な時計の音だ。

 和也はハッとして、浮かせた足を引いた。

「……違う。健二は、そんな規則正しい音と一緒に歩いたりはしない」

 彼が足を止めた瞬間、親友の声は一変した。

『……ちっ、あと少しだったのに。目が見えないくせに、小癧しい耳をしてやがる』

 それは、何十人もの声を合成したような、おぞましい機械音に変わっていた。

 直後、背後から強烈な突風が吹いた。

「お客様、発車のお時間です。代価として、その『耳』を置いていっていただきます!」

 駅員の叫びと共に、線路の奥から地響きのような轟音が迫ってくる。それは電車の音ではない。巨大な肉の塊が、トンネルの壁を削りながら這い寄ってくるような、生理的な嫌悪感を呼び起こす音だ。

 和也は杖を捨て、両耳を強く塞いだ。

「聞こえない……! お前たちの音なんて、一つも信じない!」

 彼は全速力で、風の吹く方向へ、空気の層がわずかに薄い「出口」へと走り出した。

 背後からは、肉が弾ける音、骨が砕ける音、そして数え切れないほどの怨嗟の声が津波のように押し寄せる。

 和也は、自分の心臓の音だけを道標にした。


 ドクン、ドクン、ドクン。

 生きている。俺はまだ、生きている。


 階段を駆け上がり、壁に何度も肩をぶつけながらも、彼は上へ、上へと這い上がった。

 突如、耳を劈くような電子音が鳴り響いた。

『……次は……池袋。次は、池袋……』

和也が目を開けると——といっても、彼に見えるのは相変わらずの暗闇だが——肌に触れる空気が、いつもの乾燥した地下鉄のそれに変わっていた。

 周囲からは、酔客の笑い声や、スマートフォンの電子音が心地よい雑音となって聞こえてくる。

「……助かったのか」

 和也はベンチに崩れ落ち、荒い息を整えた。

 手元を確認すると、愛用の白い杖は、いつの間にか中ほどからボロボロに腐り落ちていた。和也には見えないが、杖は炭のように真っ黒に変色していた。


 ふと、隣に誰かが座る気配がした。

「……いい耳をお持ちですね。でも、気をつけたほうがいい」

 聞き覚えのある、あの乾いた声。

「一度あの音を覚えてしまった耳は、もう二度と、普通の音だけでは満足できなくなりますよ」

 和也が驚いて隣を向いたが、そこには誰もいなかった。ただ、ベンチの上に一枚の古い切符が置かれている感触だけがあった。


 それ以来、和也は街の音が以前とは違って聞こえるようになった。

 人々の話し声の裏側に混じる、カサカサという紙が擦れる音。

 地下鉄の風の中に紛れ込む、遠い誰かのすすり泣き。


 そして、零時零分を過ぎた深夜。

 彼は、自分の耳の奥で、あの「零駅」のホームに響いていた時計の音が、今も静かに刻まれ続けているのを感じている。


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