遺失物
地下鉄の片隅にある「遺失物保管所」は、地上から切り離された墓場のような場所だ。
管理人の久保は、老眼鏡をずらしながら、今日届けられた品々を台帳に記入していた。
ビニール傘、片方だけの靴、読み古された雑誌、そして誰のものかも分からない鍵。
「やれやれ、毎日毎日、何をそんなに忘れることがあるんだか」
久保は独りごちて、埃っぽい棚に傘を並べた。
この仕事に就いて二十年。
彼は、持ち主が現れないまま期限を過ぎ、処分されていく「忘れ物」の末路を数え切れないほど見てきた。
深夜、閉館準備をしていた時のことだ。
保管所の奥にある、開かずの扉の下から、一通の封筒が滑り込んできた。
「おや、誰かいるのか?」
声をかけたが、返事はない。
扉の向こうは、今は使われていない古い資材置き場に繋がっているはずだった。
久保は腰を屈め、その封筒を拾い上げた。
封筒はひどく古びていて、表面には『零駅 遺失物係殿』と、震えるような手書きの文字で宛名が書かれていた。
「零駅……? そんな駅、うちの路線にはないはずだが」
不審に思いながら封を切ると、中から一枚のモノクロ写真が出てきた。
そこに写っていたのは、若かりし頃の久保自身だった。
隣には、二十年前に病で亡くした妻が、穏やかな微笑みを浮かべて立っている。
背景は、見たこともない重厚な石造りの駅ホームだった。
「……なんだこれは。こんな場所で写真を撮った覚えはないぞ」
久保の指先が小刻みに震え出した。
写真は新しく刷られたもののように滑らかだが、写っている光景には見覚えが全くない。
その時、保管所の電話が鳴った。
ジリリリという、今では聞き慣れない骨董品のようなベルの音だ。
受話器を取ると、受話器の向こうから、波の音のような雑音に混じって、懐かしい声が聞こえてきた。
『あなた、忘れ物ですよ』
それは、間違いなく死んだ妻の声だった。
『大切なものを、あの駅に置き忘れています。取りに来てくれませんか』
「……美智子? 美智子なのか!」
返事はなく、電話はブツリと切れた。
久保は取り憑かれたように上着を掴み、深夜の無人ホームへと駆け出した。
地下鉄の構造を知り尽くした彼には、一般客が知らない「業務用通路」の存在が頭に入っている。
彼は迷うことなく、線路脇の暗い保守用通路へと足を踏み入れた。
懐中電灯の光が、湿ったコンクリートの壁を照らす。
ネズミの鳴き声が響く中、彼は奥へ、さらに奥へと進んでいった。
やがて、本来なら行き止まりであるはずの壁に、錆びついた鉄の梯子が現れた。
それを下りきった先。
そこには、現世の地下鉄とは明らかに空気の密度が違う、巨大な空洞が広がっていた。
冷たく、重く、そしてどこか懐かしい、沈黙の駅。
壁の看板には、あの写真と同じ『零』の文字が刻まれていた。
久保は、懐中電灯の細い光を頼りにホームへ降り立った。
そこは、現代の地下鉄のような無機質なコンクリートではなく、重厚な石積みの壁と、真鍮製の街灯が並ぶ、大正か明治の駅舎を思わせる造りだった。
空気はひんやりと冷たく、微かに線香のような、あるいは古い紙が焼けたような匂いが漂っている。
「美智子……どこにいるんだ」
久保の声は、高く広い天井に反響して戻ってくる。
ふと足元を見ると、ホームの端から端まで、気が遠くなるほどの量の「遺失物」が山積みになっていた。
泥にまみれたランドセル、片方だけの革靴、色褪せた写真機、そして、主を失った大量の腕時計。
それらの時計の針は、すべてバラバラの時間を指して止まっている。
久保は、その山の頂に、見覚えのある品を見つけた。
それは、二十年前に美智子が肌身離さず持っていた、赤い小花柄のがま口財布だった。
「これは……病室で、失くしたと言っていた……」
手を伸ばして拾い上げると、中には小銭ではなく、一枚の「切符」が入っていた。
真っ白な紙に、黒い墨で『片道:現世から忘却へ』と印字されている。
その時、背後の闇から、コツリ、コツリと杖を突くような音が聞こえてきた。
振り返ると、そこには駅員の制服を着た、背中の曲がった老人が立っていた。
帽子の庇で顔は見えないが、その手足は驚くほど細く、まるで枯れ枝のようだった。
「……管理人の久保さん。お仕事、ご苦労様ですな」
老駅員の声は、地底から響くような、湿り気を帯びた重低音だった。
「あんた、誰だ。なぜ私の名前を……」
「我々は同業者ですよ。あなたは地上の遺失物を守り、私はこの地下の『忘れられたもの』を管理している。ここは、人々が捨て去った記憶や、整理しきれなかった感情が流れ着く終着駅なのです」
駅員はゆっくりと腕を広げ、ホームに積み上がったガラクタの山を指し示した。
「美智子はどこだ。電話で、私を呼んだんだ」
「奥さんは、あちらの『特別待合室』でお待ちですよ。ただし、彼女を連れ戻すには、代わりの遺失物をここに置いていってもらわねばなりません」
「代わり……? 何を置けばいい」
駅員は、久保の胸元を指さした。
「あなたの『今日までの記憶』すべてです。彼女との思い出も、あなたが久保であるという自覚も。すべてを忘れて空っぽになれば、彼女と一緒に、この駅の住人として永遠に過ごすことができますよ」
久保の脳裏に、美智子と過ごした穏やかな日々が走馬灯のように駆け巡った。
初めて出会った雨の日、質素な結婚式、そして、彼女が息を引き取る直前の、あの寂しげな微笑み。
すべてを忘れて、彼女のそばにいられる。
それは地獄のような誘惑であり、同時にこの上ない救いのようにも思えた。
「……本当に、会えるのか」
「ええ、嘘は申しません。さあ、その『財布』を私に返しなさい。それが契約の印です」
久保は、がま口財布を握りしめる手に力を込めた。
足が、一歩、また一歩と駅員の方へ動く。
その時、財布の中から、カチリ、と小さな音が聞こえた。
止まっていたはずの、美智子の形見の腕時計が、久保のポケットの中で突然動き出したのだ。
カチ、カチ、カチ……
静寂の中で、その秒針の音は心臓の鼓動よりも大きく響いた。
それは二十年もの間、時を止めていたはずの、妻の形見の腕時計だった。
「……動いているのか?」
久保が驚愕してポケットを探ると、時計の針は狂ったように高速で逆回転を始めていた。
それと呼応するように、手にした赤い小花柄のがま口財布が、生き物のように熱を帯び出す。
「久保さん、早く。その財布を差し出しなさい。思い出なんて、持っていれば苦しいだけだ。すべてを捨てて、楽になりなさい」
老駅員の影が、壁一面に巨大に膨れ上がった。
その伸ばされた手の先には、肉がなく、白く剥き出しになった骨が覗いている。
久保は、がま口財布を差し出そうとして、ふと踏みとどまった。
すべてを忘れる。
それは、美智子と過ごしたあのかけがえのない時間さえ、この世から消し去るということではないのか。
「……断る」
久保の声は、自分でも驚くほど低く、力強かった。
「何ですと?」
「私は遺失物係だ。預かったものを勝手に処分したり、すり替えたりはしない。この思い出は、美智子が私に預けていった、世界でたった一つの宝物なんだよ。あんたのようなバケモノに渡せるか!」
その瞬間、駅員の顔を覆っていた帽子の庇が跳ね上がった。
そこには顔がなく、無数の「忘れ去られた切符」が皮膚のように貼り付いた異形の塊があった。
「……ならば、お前も遺失物になれ!」
絶叫と共に、ホームに積み上がったガラクタの山が崩れ、久保を飲み込もうと押し寄せてきた。
数千の靴、数万の傘、そして主を失った鞄たちが、泥流のように彼に迫る。
久保はがま口財布を胸に抱きしめ、がむしゃらに線路の上を走り出した。
「美智子、ごめん! まだそっちには行けない。俺が死ぬまで、お前のことを覚えていたいんだ!」
背後から、地響きのような怒号が追いかけてくる。
暗闇の向こうに、一筋の細い光が見えた。
それは、彼が下りてきた業務用通路の梯子だった。
必死に梯子に飛びつき、一段、また一段と駆け上がる。
足首を冷たい何かが掴もうとしたが、久保はそれを振り切り、鉄の扉を突き破るようにして現実の世界へと飛び出した。
気がつくと、久保は遺失物保管所の冷たい床に倒れ込んでいた。
「……はぁ、はぁ……」
開け放たれた窓からは、明け方の白んだ光が差し込んでいる。遠くで、始発電車の走る音が聞こえてきた。
夢だったのか。
久保は震える手でポケットを探った。
そこには、あの赤い小花柄のがま口財布が入っていた。
中を開けると、先程まであった『片道切符』は消え、代わりに一枚の古い写真が入っていた。
それは、若かりし頃の自分と美智子が、海辺で笑っている写真だった。
そして、止まっていたはずの腕時計は、今、正確に午前五時三十五分を指して刻み続けている。
「……預かっておくよ、美智子。俺がそっちに行くその日まで」
久保は写真を大切に財布にしまい、ゆっくりと立ち上がった。
その日以来、地下鉄の遺失物保管所には不思議な噂が流れるようになった。
どうしても見つからなかった大切な忘れ物が、ある日突然、棚の目立つ場所に置かれていることがあるという。
管理人の久保は、今日も老眼鏡をかけ、黙々と台帳をつけている。
ただ、彼のデスクの端には、いつからか古い路線の忘れ物ではない、「赤い小花柄のがま口」が、守り神のように静かに置かれているのだった。




