地下の配信者
「はい、どうも! オカルト探索CHのショウです!」
若者は、スマートフォンのジンバルを片手に、深夜の地下鉄ホームで軽快に喋り出した。
深夜二時。
一般客の姿は消え、清掃員の姿さえも見当たらない。
画面の向こうでは、数千人の視聴者が『またやってるよ』『早く行けよ』とコメントを流している。
「今日はマジでヤバい場所を見つけました。最近ネットで話題の『零駅』……そこに行ける裏技があるっていう情報を掴んだんですよ」
ショウは、自慢げに一枚の古いメモをカメラに近づけた。
そこには、特定の路線の、特定の車両で、「ある行動」をすると隠し駅に辿り着けると書かれている。
「ま、どうせバグか何かの見間違いだろうけど、もし本当だったら伝説級のスクープでしょ?」
やがて、回送電車かと思うほど音もなく、一編成の電車がホームに滑り込んできた。
「マジかよ、こんな時間に」
ショウは興奮を隠せない様子で、一番後ろの車両に乗り込んだ。車内には、彼一人しかいない。
「よし、それじゃあ手順通りに……まずは、三番目のドアの前に立って、窓に指で『零』って書く」
冷たい窓ガラスに、彼は指先を滑らせた。
「次に、目を閉じて自分の名前を三回、逆から唱える」
ショウは鼻で笑いながら、自分の名前「ショウ」を、「ウ、ョ、シ」と三回繰り返した。
その瞬間、ガクンと電車が大きく揺れた。
急激な減速。
耳の奥を圧迫するような、深い闇の底へ沈んでいく感覚。
「お、おおっ? おい、マジで揺れてるぞ! おい、画面見えてるか?」
ショウはカメラを窓の外に向けた。
そこには、いつものトンネルの景色はなかった。
電柱や看板さえもなく、ただ、どこまでも続く真っ黒な空間に、鈍い紫色の燐光が漂っているだけだ。
やがて、電車は音もなく停止した。
プシュー……
ドアが開くと同時に、重苦しい静寂と、古い埃のような臭いが車内に流れ込んできた。
ホームの柱に掲げられた看板には、歪な書体でこう書かれていた。
『零』
「……うわ、マジかよ。本当に来ちゃったよ」
ショウは震える手でジンバルを握り直し、カメラを回し続けた。
しかし、画面のコメント欄は、先程からピタリと止まっている。
アンテナのマークを見ると、圏外。
「チッ、配信切れたか。まあいい、録画しておけば後でバズる」
ショウは自分を奮い立たせるように、ゆっくりとホームへ足を踏み出した。
その時、彼の背後で「ガシャン」と大きな音がした。
振り返ると、今降りたばかりの電車のドアが閉まり、中には……誰もいないはずの車内に、顔を白く塗りつぶしたような乗客たちが、一斉に窓に張り付いてこちらを見ていた。
「うわっ、なんだよこれ……演出か?」
ショウは後ずさりしながら、反射的にスマートフォンを車内の窓に向けた。
窓に張り付いた「乗客」たちは、肌の色がまるで石膏のように白く、表情が一切ない。
彼らは声も出さず、ただ指先をガラスに立てて、カリカリと音を立てながらショウを凝視している。
その動きは機械的で、人間らしい生気が微塵も感じられない。
やがて電車は、生き物が身を翻すように音もなく加速し、暗闇の奥へと消えていった。
残されたのは、凍りつくような静寂と、微かに明滅する蛍光灯の音だけだ。
「マジかよ、これじゃ帰れないじゃん……おい、誰かいないのか!」
ショウの叫び声は、天井の低いコンコースへと吸い込まれていく。
彼は必死にスマートフォンの電波を探したが、画面には無情にも『圏外』の文字が躍っている。
仕方なく、彼は出口を求めて、薄暗い階段を上り始めた。
ジンバルのライトが、埃の舞う空間を丸く照らし出す。
踊り場に差し掛かった時、壁一面に貼られた古いポスターが目に入った。
『募集:あなたの視線。報酬:永遠の安息』
『忘れたい顔、ありますか? 当駅にて消去承ります』
ポスターに描かれた人物の顔はどれも、目がくり抜かれたように黒い穴が開いている。
ショウは思わず目を逸らし、さらに上の階へと駆け上がった。
改札階に出ると、そこには広大な空間が広がっていた。
だが、そこは彼が知る地下鉄の駅とは似て非なるものだった。
床には無数の靴が散乱し、天井からは「忘れ物」と思われる色褪せた傘やカバンが、まるで首を吊るした死体のように、無数の糸で吊り下げられている。
「……悪趣味なアートだな、おい」
強がりを言いながら進むと、前方に小さな売店が見えた。
シャッターが半分閉まったその店の中に、一人の老婆が座っている。
老婆は新聞を広げているが、その新聞は真っ白で、何も印字されていない。
「あの、すみません! ここから出るにはどうすればいいんですか?」
ショウが必死に問いかけると、老婆はゆっくりと顔を上げた。
その顔を見て、ショウは息を呑んだ。
老婆の顔には、本来あるはずの「鼻」も「口」もなかった。
ただ、額の中央に巨大な「目」が一つだけあり、それが充血した瞳でショウをじろりと見つめた。
「……新しい目、持ってきたのかい?」
老婆の声は、地面の底から響くような地鳴りに似ていた。
「な、何を……」
「ここに来る連中は、みんな『見られたい』という病に侵されている。あんたもそうだろう? その光る板で、世界中に自分を見せびらかしたいんだろう?」
老婆が指さしたのは、ショウが握りしめているスマートフォンだった。
「だったら、その『見る力』をここに置いていきな。そうすれば、地上の光を一度だけ見せてやるよ」
老婆の手が、カウンターを越えて異常な速さで伸びてきた。
その指先は鋭い鍵爪のようになっており、ショウの両目を目指して迫ってくる。
「ふざけんな! 来るな!」
ショウは無我夢中で、手に持っていたジンバルを老婆に向かって振り回した。
金属音が響き、老婆の爪が空を切る。
その隙に、彼は反対側の暗い通路へと全速力で駆け出した。
背後からは、老婆の笑い声とも怒号ともつかない、不気味な咆哮が追いかけてくる。
「逃げられると思うなよ! ここはお前の欲望が作り出した、終着駅なんだからね!」
「はぁ、はぁ……っ!」
ショウは、もはや動画の映りなど気にせず、ただ無我夢中で暗い通路を駆け抜けた。
背後からはカサカサと、巨大な昆虫が這いずるような音が迫っている。
老婆の笑い声が、壁に反射して四方八方から聞こえてくる。
行き止まりにぶつかった。
そこには重厚な鉄の扉があり、『管理事務室』と古びたプレートが掲げられている。
「開け、開けよ!」
ノブを強引に回すと、意外にも扉はあっさりと開いた。
ショウは中に飛び込み、内側から鍵をかけた。
室内は異様に静かだった。
壁一面には、無数の監視モニターが並んでいる。
その画面に映し出されているのは、現実世界の地下鉄の風景だった。
仕事帰りの人々、スマートフォンの画面をぼんやり眺める若者、居眠りをする老人。
ショウは震える手でモニターの一台を指差した。
「これ、俺がいつも使ってる路線だ……」
その時、中央の大きなモニターに、一台の電車がホームに入ってくる映像が映った。車両の窓には、一人の男が顔を押し付けている。
それは、ショウ自身だった。
「な……なんだこれ? 俺はここにいるのに……」
映像の中の自分は、絶望に満ちた表情で窓を叩き、外にいる「現実の乗客たち」に向かって何かを叫んでいる。
しかし、ホームにいる人々は誰一人として彼に気づかない。
ただ、スマートフォンの画面に夢中になっている。
その映像の隅に、あの老婆が立っていた。
彼女はカメラに向かって、ニヤリと口のない顔を歪ませる。
『見られたいんだろう? でも、見てごらん。ほら、誰もお前を見ていないよ』
モニターから直接、声が響いた。
ショウは悲鳴を上げ、持っていたスマートフォンを床に叩きつけた。
液晶が粉々に砕け、暗転する。
その瞬間、部屋の明かりがすべて消えた。
暗闇の中で、誰かが耳元で囁いた。
「……動画、面白かったですよ」
それは、駅員の乾いた声だった。
ショウが振り返る間もなく、冷たい指が彼の「両目」を優しく、しかし抗えない力で覆った。
「配信は終了です。次は、あなたの番ですよ」
翌朝。
SNSには、一本の短い動画が投稿され、瞬く間に拡散された。
それは『オカルト探索CH』の最新動画だった。
タイトルは『零駅、本当に行ってみた』。
動画には、真っ暗な背景の中、ただ一点を見つめて立ち尽くすショウの姿が映っている。
しかし、彼の顔には「目」がなかった。
ただ、滑らかな皮膚が眼窩を覆っている。
彼はカメラに向かって、無機質な声でこう言った。
「みんな、見てる? ここは最高だよ。ここにいるみんなが僕のことを見てくれるんだ」
動画の再生数は爆発的に伸び、「いいね」の数が異常な速度で増えていく。
しかし、その動画を視聴している人々は気づかない。
スマートフォンの画面越しに、ショウの「なかったはずの目」が、こちら側の世界をじっと覗き返していることに。
そして、視聴者のスマートフォンの画面に、一瞬だけ、見たこともない駅の路線図がノイズと共に浮かび上がったことに。
『次の停車駅は、零。お忘れ物のないよう、ご注意ください』




